エピローグ③

 帰り道。

 店主の老夫婦にご挨拶するという目的を果たしたぼくたちは、想い出のクリームパンに加えて奏海からオススメされたあんパンとチョココロネも買って家路をたどる。

 奏海とは店先で別れた。また学校で、という言葉を交わし合って別れた。

 話題は、奏海とパン屋のご夫婦との関係性について。


「それにしてもびっくりだったね」


「あぁ。幼馴染といえども、意外と知らないこともあるもんだな」


「お兄ちゃんと優希ちゃんほどの間柄なのにねっ。知らないことがあるなんて珍しいお話ですねっ」


「なんか言い方に悪意が含まれてない?」


「うふっ」笑顔でごまかす優希。「だって、幼馴染のことならなんでも知ってると思ってたみたいな口ぶりだったから、そんなふうにいわれたら、妹の優希としては、なんかちょっとムムッてなっちゃうじゃん」


「なんでも知ってるだなんて思ってないさ。思ってないけど、なんていうかこう、割と基本的な情報でも意外と知らないことあるんだなーって」


「意外と知らないことがあるんだなーって思ったから、知的好奇心テキな感じで、奏海ちゃんに関するもっといろんな情報を知りたくなっちゃったりはしてない?」


「なんだそのムズい質問」


「ムズくないよ。因数分解や二次関数より遥かに簡単だよ」


「それは優希が数学苦手なだけだろ。お勉強頑張ろうな」


「ねぇ、数学って何の役に立つの? 優希本当に意味分かんないんだけど」


「出た出た。数学苦手なひとが絶対に一度は口に出す台詞ナンバーワン」


「だって! 因数分解とか日常生活で絶対に使う機会無いじゃん! そもそも因数が無いんだから分解する必要も無いじゃん! 不要じゃん! 無用の産物じゃん! これは優希が数学苦手だから毒づいてるわけじゃなくて客観的なひとつの意見として物申してるわけでありますよ!」


「そうかそうか。そんな詭弁こねちゃうほど優希は数学が苦手なんだな」


「お兄ちゃん! 優希の話全然聞いてないじゃん! もう! お兄ちゃん嫌い!」


「それ本気で言ってる?」


「本気で言ってるわけないじゃん優希がお兄ちゃんのこと嫌いになるわけないじゃんバーカバーカ! バカなのは優希のほうだけどバーカ! ふんっ!」


 ぷいっと顔をそむける優希。

 左頬をぷくっと膨らませている。優希の癖だ。不満を感じている模様。


「――因数分解って、実生活で役に立たないように見えて、意外と便利なんだぜ」


「どこらへんが?」


「たとえばさっき、ぼくたちはパンを買ったよな。クリームパンとあんパンとチョココロネをそれぞれふたつずつ。クリームパンが一個250円で、あんパンが200円、チョココロネが300円だった」


「それがどうかしたの?」


「クリームパンの値段をa、あんパンの値段をb、チョココロネの値段をcとして、合計金額を割り出すための数式をそのまま書き出すと、2a+2b+2cってことになる。でも因数分解を使えば、2(a+b+c)っていうスマートな数式にできるんだ。これこそが因数分解の偉大さであり、日常における必要性だ」


「……ごめんお兄ちゃん、あんまりよく分かんない」


「お、おう……」


「いやね、数式がそうなるっていうのは優希でも分かるよ。それくらいは流石に。だけど、数式をスマートにできたからって、それが一体何なの? オシャレでスタイリッシュってこと? それとも計算が楽で速いですよーってこと?」


「うん、まあ、どっちもかな」


「それでいうなら優希は計算式にオシャレさは求めてないし、2a+2b+2cで導いたとしても2(a+b+c)で導いたとしても結局のところ肝心なのは優希の頭脳なわけだから、それでいったら分解しようが展開しようが同じくらい時間を費やすし、なんなら一個一個を足し算で計算していっても普通に正解まで辿りつけますがっていうお話だよ。別に優希は数学の公式とかが苦手なだけで暗算自体は苦手じゃないもん。っていうかむしろ得意な部類だし。パンの合計金額くらい正攻法で弾き出しちゃうし。公式なんて吹っ飛ばせだし」


「いや、どんだけ数学嫌いなんだよ」


「親の仇だと思ってるから」


「父さんが不倫したのも数学のせいか」


「そうだよ。お父さんが一泊9500円のホテルで二割引きのクーポン使って不倫したのも数学のせいだよ。9500円の二割引きだから、7600円だね」


「マジで暗算得意じゃん」


「でもこれは優希の推測だけど、ルームサービスを頼んでそうだから実際はもうちょっと出費があったんじゃないかって睨んでるの」


「ほう」


「お父さんはそういうひとだよ。ホテルのお高いルームサービスとか、お高さ度外視で無頓着に頼んじゃうタイプ。相手の泥棒猫から『ワイン飲みたーい』とか『スイーツ食べたーい』とか懇願されたら断れないタイプ。お兄ちゃんは、くれぐれもああいうオトナになったらダメだよ。大事な人を裏切って傷つけるようなら、優希がお兄ちゃんのこと、因数分解しちゃうんだからねっ!」


 お兄ちゃんのこと、因数分解しちゃう。

 どういう脅し文句だよ。とりあえずこえーよ。





 家に着いたぼくたちは、その足でまずは洗面台に。

 手洗いうがいはしっかりと。

 母さんから植え付けてもらった教育を実践する。

 ところで。

 このあいだ友達の家に遊びに行ったときに知ったのだけれど、彼の家では洗面所のコップをひとりに一つずつ置いているようだった。四人家族だから、四個のコップが色違いでずらりと。

 家族なのに個人でコップ分けてるんだ、という旨のことを言ったら、彼はすごく驚いていた。曰く、共用しているほうが珍しいんじゃないかっていう話で。

 高岳家ではむかしからなにも考えずに洗面所のコップを共用していた。今ももちろん共用している。それが当然の仕来りだって思ってたから、ぼくのほうこそ驚きで。

 だから互いに我こそがマジョリティーだって議論になって、SNSの投票機能を使ってアンケートを取ってみようという話になった。

 彼のアカウントを使って投票を募って、そして昨日、その投票が締め切られた。

 結果。

 共用派が35パーセント。個別派が65パーセント。

 票数はそんなに多くないから信ぴょう性は薄いかもだけど、とはいえ投票結果を踏まえるに、ぼくの家の常識が世間の非常識だってことが判明した。

 もちろん、そんな投票結果を優希に伝えちゃうほど、ぼくは無神経ではない。

 そんなことを言ったら、まるでぼくが優希のことを避けようとしてるみたいに思われかねない。少なくとも優希ならそういう反応を――ぼくに避けられてると思って荒ぶる様子がつぶさに浮かぶ。ぼくとしても、このまま共用な感じで全然大丈夫だから、言及する理由は皆無。

 手洗いうがいを終えて、コップを所定の位置に置いた優希がいう。


「ねえお兄ちゃん。このあいだSNSで見たんだけどね、驚くべきことに世間の家庭では洗面所のコップをひとり一個ずつ個別に使ってる家庭のほうが多数派らしいよ」


 ん? それってもしかして――。

 ――いや、もしかしなくても、ぼくたちが募ったアンケートだ。


「……へぇ、そうなんだ」と、ぼくは他人事みたいに応じる。


「優希、その結果見て、思わず『はぁ?』って言っちゃって。マネージャーさんビックリさせちゃって。ごめんなさいって感じだったんだけど、でもホント有り得ないと思うの。風邪引いてる時とかは別だよ。それはもちろん話が別だけど、通常時にコップを分けるなんて、そんなん寂しいじゃん。それだけでもう距離感感じる案件じゃん。そんなん絶対おかしいよ狂ってるよこの国おしまいだよお先真っ暗闇だよ財政破綻まっしぐらだよ!」


 洗面所のコップを共用しない家庭が多すぎるせいで財政破綻の危機に瀕する日本。由々しき事態だ。アンケートの主催者として責任を感じる。


「まあ、よそはよそ、ウチはウチってことだな。ウチはこれからも共用路線の独自路線で行こうじゃないの」


 アンケートの主催者ってことを秘密にして、いい感じに話をまとめにかかる。


「うん、それはもちろん。もちろんそれはそうだけど――まあ、いっか。優希にはお兄ちゃんが付いててくれたらそれでいいっ」


 納得してくれたっぽい優希が、洗面台からきびすを返して出て行った。ぼくは洗面所の照明を消してあとを追った。


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