第一章 無能と呼ばれた討伐者
第1話 最弱の討伐者
その日、東京・渋谷の街はざわめきに包まれていた。
巨大スクリーンでは氷室アリスの勇姿が映し出され、誰もがその英雄の姿に視線を奪われていたが――。
街の空気は次の瞬間、まるで地鳴りのように一変した。
――ゲートが発生したのだ。
ハチ公像のすぐ近く。人の流れでごった返すスクランブル交差点の真ん中に、突如として空間が裂けた。
空気が歪み、紫色の稲光が走り、虚空に黒い穴が広がっていく。
それはまるで、世界にぽっかりと穿たれた“異界への入口”だった。
「……ゲートだ!」
「渋谷に!? 嘘だろ……」
阿鼻叫喚の声が響き、群衆は雪崩を打ったように逃げ出す。
その場に残ったのは、討伐者として登録された者たちだけ。
◆
「――お兄ちゃん、またゲートに行くの?」
渋谷から少し離れた下町の小さなアパート。
神谷蓮は、玄関先で妹の沙羅に呼び止められた。
蓮は、黒髪を短く整えた凡庸な青年。
討伐者という肩書きはあるものの、その容姿には威圧感も英雄らしさもなく、普通の学生と見紛うほどだった。
沙羅はまだ十代半ば。兄に似て小柄で、しかし目は強い。
毎日のように怪我だらけで帰ってくる兄を、ずっと案じていた。
「お兄ちゃん、また傷だらけになって帰ってくるんでしょ……。本当に、大丈夫なの?」
「……大丈夫だよ。僕だって討伐者だから。心配しすぎだ」
口ではそう言うが、自分の力が周囲と比べてどれほど弱いか、蓮自身が一番よく分かっていた。
Fランク。
討伐者としての最低ランク。戦闘能力の数値は誤差にしかならず、ギルドからもほとんど期待されていない存在。
だが、それでも彼は討伐者を辞めなかった。
生活のため、そして妹を守るために。
「沙羅。帰ってきたら、一緒にご飯食べよう」
「……絶対だからね」
沙羅の小さな声を背に受け、蓮は渋谷へ向かった。
◆
ゲート前には、すでに多くの討伐者が集まっていた。
制服姿のギルド職員が慌ただしく走り回り、駆けつけた警察が周囲を封鎖している。
蓮が到着すると、ひときわ落ち着いた声が耳に入った。
「――ああ、君が神谷蓮君か。よろしく頼む」
声の主は、今回のチームリーダーであるベテラン討伐者、佐伯誠一。
五十代半ば、歴戦をくぐり抜けてきたCランク討伐者。白髪交じりの頭に穏やかな目を持ち、常に周囲を気遣う姿勢を崩さない人物だった。
「は、はい。よろしくお願いします」
「気負わなくていい。私たちは仲間だ。……安全第一でいこう」
柔らかな笑みに、蓮の緊張はほんの少しだけ和らいだ。
他のメンバーは、BランクからCランクが中心。
その中に、小柄な女性討伐者――小田桐美沙がいた。
彼女はCランクながら気弱な性格で、場の空気に呑まれてうつむいていたが、蓮が到着したときだけは小さく会釈を返した。
(……僕と同じで、場に馴染めない人なのかもしれない)
そう思った瞬間、美沙の視線がわずかに揺れた。
彼女は心の奥で――「私が庇ってあげなきゃ」とでも思うかのように、蓮を見つめていた。
◆
そして、ゲートの中へ。
内部は禍々しい異界だった。
黒い石でできた壁、鋭利なトゲが突き出し、空気には鉄錆びのような匂いが充満している。
普通のダンジョンとは明らかに違う。全員がそれを直感した。
「……これは、まずいな」
「二重……かもしれん」
佐伯が眉をひそめる。
二重ダンジョン――ダンジョンの内部でさらに別のゲートが発生し、通常の構造が歪められた“最悪のケース”。
これまで幾度となく討伐隊を全滅させてきた危険な存在だった。
◆
探索を進める一行の前に、突如としてトラップが発動した。
床が沈み込み、無数の槍が壁から飛び出す。
咄嗟に回避できなかった討伐者が一人、串刺しにされ絶命した。
「くっ……罠か!」
「落ち着け! まだ数はいる、前へ進むぞ!」
次々に襲いかかるギミック。炎が噴き出す通路、轟音と共に落ちる岩盤。
蓮は必死に仲間の後を追い、声を上げることもできなかった。
やがて辿り着いたのは、巨大な空間。
そこで待ち受けていたのは――異形のボスだった。
四本の腕を持ち、全身が鋭い鱗で覆われた巨躯。
目は血のように赤く輝き、咆哮が空間を震わせる。
「……終わったな」
誰かが呟いた。
◆
戦闘は混乱を極めた。
次々に仲間が倒れ、小田桐美沙も脚を負傷して動けなくなる。
「小田桐さん!」
「……ごめんなさい、動けない……」
彼女を庇うように蓮は立ち塞がった。
仲間たちの視線が、一瞬彼に集まる。
「僕が囮になります。その間に皆さんは退いてください!」
「なっ……お前、正気か!」
「僕なんかじゃあ、長くは持ちません。でも……それで誰かが生き残れるなら」
その声は震えていた。
だが、芯の強さが宿っていた。
佐伯は一瞬、言葉を失った。
気弱で、凡庸で、最弱のはずの青年が――命を投げ打って仲間を救おうとしている。
そして、その咄嗟の判断が、確かに状況を動かした。
仲間たちは決死の撤退を開始し、美沙は蓮の背中越しに涙を流した。
(どうして……どうしてあなたが、そんな顔をするの……)
渋谷の二重ダンジョンでの戦いは、こうして新たな局面へと突入していった。
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