第一章 無能と呼ばれた討伐者

第1話 最弱の討伐者

 その日、東京・渋谷の街はざわめきに包まれていた。

 巨大スクリーンでは氷室アリスの勇姿が映し出され、誰もがその英雄の姿に視線を奪われていたが――。


 街の空気は次の瞬間、まるで地鳴りのように一変した。


 ――ゲートが発生したのだ。


 ハチ公像のすぐ近く。人の流れでごった返すスクランブル交差点の真ん中に、突如として空間が裂けた。

 空気が歪み、紫色の稲光が走り、虚空に黒い穴が広がっていく。

 それはまるで、世界にぽっかりと穿たれた“異界への入口”だった。


「……ゲートだ!」

「渋谷に!? 嘘だろ……」


 阿鼻叫喚の声が響き、群衆は雪崩を打ったように逃げ出す。

 その場に残ったのは、討伐者として登録された者たちだけ。



「――お兄ちゃん、またゲートに行くの?」


 渋谷から少し離れた下町の小さなアパート。

 神谷蓮は、玄関先で妹の沙羅に呼び止められた。


 蓮は、黒髪を短く整えた凡庸な青年。

 討伐者という肩書きはあるものの、その容姿には威圧感も英雄らしさもなく、普通の学生と見紛うほどだった。


 沙羅はまだ十代半ば。兄に似て小柄で、しかし目は強い。

 毎日のように怪我だらけで帰ってくる兄を、ずっと案じていた。


「お兄ちゃん、また傷だらけになって帰ってくるんでしょ……。本当に、大丈夫なの?」

「……大丈夫だよ。僕だって討伐者だから。心配しすぎだ」


 口ではそう言うが、自分の力が周囲と比べてどれほど弱いか、蓮自身が一番よく分かっていた。

 Fランク。

 討伐者としての最低ランク。戦闘能力の数値は誤差にしかならず、ギルドからもほとんど期待されていない存在。


 だが、それでも彼は討伐者を辞めなかった。

 生活のため、そして妹を守るために。


「沙羅。帰ってきたら、一緒にご飯食べよう」

「……絶対だからね」


 沙羅の小さな声を背に受け、蓮は渋谷へ向かった。



 ゲート前には、すでに多くの討伐者が集まっていた。

 制服姿のギルド職員が慌ただしく走り回り、駆けつけた警察が周囲を封鎖している。


 蓮が到着すると、ひときわ落ち着いた声が耳に入った。


「――ああ、君が神谷蓮君か。よろしく頼む」


 声の主は、今回のチームリーダーであるベテラン討伐者、佐伯誠一。

 五十代半ば、歴戦をくぐり抜けてきたCランク討伐者。白髪交じりの頭に穏やかな目を持ち、常に周囲を気遣う姿勢を崩さない人物だった。


「は、はい。よろしくお願いします」

「気負わなくていい。私たちは仲間だ。……安全第一でいこう」


 柔らかな笑みに、蓮の緊張はほんの少しだけ和らいだ。


 他のメンバーは、BランクからCランクが中心。

 その中に、小柄な女性討伐者――小田桐美沙がいた。

 彼女はCランクながら気弱な性格で、場の空気に呑まれてうつむいていたが、蓮が到着したときだけは小さく会釈を返した。


(……僕と同じで、場に馴染めない人なのかもしれない)


 そう思った瞬間、美沙の視線がわずかに揺れた。

 彼女は心の奥で――「私が庇ってあげなきゃ」とでも思うかのように、蓮を見つめていた。



 そして、ゲートの中へ。


 内部は禍々しい異界だった。

 黒い石でできた壁、鋭利なトゲが突き出し、空気には鉄錆びのような匂いが充満している。

 普通のダンジョンとは明らかに違う。全員がそれを直感した。


「……これは、まずいな」

「二重……かもしれん」


 佐伯が眉をひそめる。

 二重ダンジョン――ダンジョンの内部でさらに別のゲートが発生し、通常の構造が歪められた“最悪のケース”。

 これまで幾度となく討伐隊を全滅させてきた危険な存在だった。



 探索を進める一行の前に、突如としてトラップが発動した。

 床が沈み込み、無数の槍が壁から飛び出す。

 咄嗟に回避できなかった討伐者が一人、串刺しにされ絶命した。


「くっ……罠か!」

「落ち着け! まだ数はいる、前へ進むぞ!」


 次々に襲いかかるギミック。炎が噴き出す通路、轟音と共に落ちる岩盤。

 蓮は必死に仲間の後を追い、声を上げることもできなかった。


 やがて辿り着いたのは、巨大な空間。

 そこで待ち受けていたのは――異形のボスだった。


 四本の腕を持ち、全身が鋭い鱗で覆われた巨躯。

 目は血のように赤く輝き、咆哮が空間を震わせる。


「……終わったな」

 誰かが呟いた。



 戦闘は混乱を極めた。

 次々に仲間が倒れ、小田桐美沙も脚を負傷して動けなくなる。


「小田桐さん!」

「……ごめんなさい、動けない……」


 彼女を庇うように蓮は立ち塞がった。

 仲間たちの視線が、一瞬彼に集まる。


「僕が囮になります。その間に皆さんは退いてください!」


「なっ……お前、正気か!」

「僕なんかじゃあ、長くは持ちません。でも……それで誰かが生き残れるなら」


 その声は震えていた。

 だが、芯の強さが宿っていた。


 佐伯は一瞬、言葉を失った。

 気弱で、凡庸で、最弱のはずの青年が――命を投げ打って仲間を救おうとしている。


 そして、その咄嗟の判断が、確かに状況を動かした。


 仲間たちは決死の撤退を開始し、美沙は蓮の背中越しに涙を流した。


(どうして……どうしてあなたが、そんな顔をするの……)


 渋谷の二重ダンジョンでの戦いは、こうして新たな局面へと突入していった。

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