第7話

Ep.7


それからなんともない日常を繰り返した。毎日布団に入る頃には、今朝のことなんて昔のように感じてしまうのだ。

君はいつ私の前からいなくなってしまうのだろう。君がいなくなる日までカウントダウンも惜しいくらいに時間が刻一刻となくなっていくのだ。

タンクトップを着ていた君は夜にはもう既に鳥肌を立ててパーカーを羽織るようになった。半ズボンから見えていた白い足も気がつくとスウェットで見えなくなっていて、私はエアコンを強めてこの季節が変わる瞬間をないことにしようとしている。

「寒いよ、サラ。」

わかってるよ。異常気象の夏だった今年でさえ秋が近づいてきている。緑でうるさかったほどの葉っぱも哀愁が漂い、そして何よりも君が寂しく笑うのだ。

「もう、お別れだね。」

言うつもりは全くなく、前みたいに勝手に朝起きれば君のいない日常を過ごすはずだったのに、気がつくと口走っていたその言葉は私たちを沈黙へと持っていく。

「うん、だからさ」

少し言葉を詰まらせて言うのをためらった君の次の言葉を私は言うしかなかったのだ。

「弾くよ。ソナタ。」

君のためのソナタ。君が大好きな旋律と大好きな音符たちで作った君しか知らない私の最初で最後の自信作。グランドピアノには及ばない電子ピアノの電源をつけ、椅子に置かれた選抜された楽譜を床に置くと椅子に座った。自然と鍵盤に手がセッティングされて、私はもう一生弾かないと言っていたのになぁ、と少し笑ってしまうのだ。

「そういえば今日が最初で最後だよ、この曲を誰かに聞いてもらうの。」

小学生の頃、楽譜ができて喜んでつけた表紙には大きく、sonataと覚えたてのアルファベットで書かれている。

ページを捲ると、あの頃の何度も書き直した楽譜が幼くて、美しい。

「音は悪いかも。それにあの時ぶりにピアノ弾くから間違えちゃうかもよ。」

私の言い訳にわかってるよと言わんばかりの顔をして優しく頷く。

スッと息を吸って、鍵盤に手を置く。少しだけ目を瞑るだけであの頃の私たちに戻れるのだ。

久しぶりに弾いているはずなのに、勝手に私の手は動き続ける。いつか君に聞かせてあげたいと思い、君がいなくなってから私の毎朝のルーティーンはドビュッシーでもなく、この曲になった。小学生のあの頃から、君を思い出さない日はこの曲のおかげで一度もなかった。過去の私に賞賛する。ここまで心地のいい旋律と音色はこれから先も一生作り上げることはできないだろう。パタっと弾き終わると君の頬に綺麗な雫が流れ落ちた。そして思うのだ。あぁ、ピアノを弾けるようになれててよかった。まるでピアノが私と君を繋げてくれたようで。

「これ、サラにあげる。」

そう言って君がつけてくれたのはパールがひとつついた儚くて、今にも壊れてしまいそうなネックレスだった。

「つけてよ。」

そういうと君は私を抱きしめるように覆い被さりネックレスをつける。

「ずっとピアノ続けててくれてありがとう。」

サラがニュースになる度近くにいるような気がしたから。と続けて言う君の目は真っ赤で、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。

それから何を話したわけでもなく、ただずっと夕日が落ちるまで河川敷を何往復もした。

「じゃあ。またね。」

確かにいつも聞いているはずの言葉だった重みがいつもより感じる。私たちにもう明日は存在しない。気がしていたわけではなく、確信していた。明日、君からの連絡も、君が来ることもない。

「うん。また。」

明日ね、と言うことはもうないのだ。君がまたいなくなることがわかったあの日から君は私と一緒にいてくれたじゃない。君に背を向けて、涙を拭って君の背中を見つめるしかないのだ。

「じゃあね。翔太。」

君には聞こえない声で静かに呟いて歩き出した。その時、君の柔軟剤にふわっと包まれた私がいた。

「ありがとう。サラ。」

泣き崩れた後振り返った時、もう私の視界に君が映ることはなかった。

いなくなった君を思い出そうと私は来る日も来る日も飛行機を数えた。もう日本にいないことなんてわかっていたはずなのに、その癖は数週間経った今でも変わらず、私はまた、色のない世界を生きていくのだ。

数日たったある日、また私は君を思い出してピアノを開いた。一枚の付箋がヒラっと落ちる。

“俺だけの音でいて。”

そう書かれた君の少し達筆で硬そうな字。ピアノを始めた頃はママに褒められたくて。小学生の頃は舞台上から見える微笑む君をみたくて。大人になるにつれ自分がなぜピアノを弾いているかなんてわからなかったが、私は君を、翔太を探したかっただけなのかもしれない。

この付箋が私の世界の色を少しだけ鮮やかにした。

いつか、私の音で君が帰ってくることを願っていた気がした。私がピアノを弾いている限り、君に生きていることを知ってもらえていそうな気がしたから。

表舞台に立たなくても、私がピアノを、音楽を続けたい理由は今も昔も変わらず君だったのだ。

椅子に座り、少し重たい電子ピアノの鍵盤を押した。

初夏とともに私の元に来た君は、私の元を幻想のように消えていくのだった。


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