第二章 1
1
しとしとと雨が降る、梅雨の時期である。
槇は机の上の医学書を読みながら、窓を叩く雨滴を見ていた。
植え込みの紫陽花の葉の上に、かたつむりが這っている。
それにしても、よく降るな。
雨が降ると人も外出が億劫になるのか、患者もやって来ない。いいことである。しかしこうも肌寒いと、また別の問題も起こるのだ。
その母親は一歳くらいの子供を連れてやってきた。
「熱があって、鼻水が出て、咳も出て……」
「何日くらい前からですか」
「一昨日からです」
風邪だろう、と思って、薬を出しておいた。
ところがその母親は、三日経ってまたやってきたのである。
「なんだか具合がどんどん悪くなっていくみたいで、ぜいぜい言ってるんです」
槇は聴診器で子供の胸の音を聴いた。喘鳴が聞こえる。それに、多呼吸の兆候も見られる。
「これは、RSウイルス感染症ですね」
「RS……?」
「呼吸器の感染症です。今の状態は急性細気管支炎を起こしているので、そのための薬を出しておきます」
RSウイルスは、感染後まずは上気道炎を引き起こす。風邪症候群である。その症状が二、三日続いた後、三十から四十パーセントが急性細気管支炎などの下気道炎や肺炎に進行するのだ。
その母親が帰っていった後しばらくすると、また子供を連れた母親がやってきた。
「気持ちが悪いと言って、ひどく吐くんです」
「朝食はなにを食べさせましたか」
「納豆と、ごはんと、漬け物。あと足りないというので磯辺焼きと目玉焼きも」
「熱は測りましたか」
「まだです」
「ちょっと測ってみましょう」
体温計で熱を測っている間、子供に体調を聞いてみた。
「身体の具合、どう?」
「おなかいたい」
「おなかいたいか。そうか。うんちはどうだ」
「おみずみたいのがでた」
体温計が鳴った。三十九度とある。子供が母親の袖を引いた。
「トイレ行きたい」
「お借りしていいですか」
「あ、お母さん。これに便を取ってきてくださいますか。菌を見ます」
子供が手洗いに行っている間に、色々と考えた。
「取りました」
それを受け取ると、槇は母親に尋ねた。
「お宅では、なにかペットは飼われてますかな。犬とか、ミドリガメとか」
「カメ、飼ってます」
槇は子供に目をやって、聞いた。
「朝ごはん食べる前に、カメ触った?」
「うん」
「触った手でごはん、食べた?」
「うん」
なるほどな。
「お母さん、これはサルモネラかもしれません」
「え?」
「菌を確定していないのでまだ診断は下せませんが、ちょっとお待ちください」
槇は受け取った便を部分的に取って、顕微鏡で見てみた。やっぱりな。
診察室で待つ母親の元へ行くと、椅子に座った。
「間違いありません。サルモネラ症ですね」
「どうすればいいんでしょうか」
「大部分は、自然治癒する病気です。ですが脱水がひどいでしょうから、ポカリスウェットなどをよく飲ませてください。ミドリガメを触った手で、食事をさせないこと。生卵には要注意です。症状は三、四日続きますが、もし血便が出るならもう一度来てください」
子供の患者が続いたな。寒いからかな。
昼になって、傘を差して蓮花がやってきた。
「先生、お昼よ」
「蓮花、お前ちっちゃい頃病気したか」
「え? うん、それなりに。風邪とかはよくひいてたけど、それくらいかなあ。あ、でも一回肺炎になったことがあるよ」
「丈夫な子だったんだなあ」
共に三階に行きながら、そんなことを話す。
「先生の小さい頃は?」
「俺か。俺は今でこそでかいがガキの頃は背もちっちゃくてひ弱だった。しょっちゅう医者の世話になってて、それで医者になろうと思ったんだよ」
「へえー意外」
「意外とはなんだ」
「もっとエリートな道を突き進んできたのかと思ってた」
「そんなこたない。挫折ばっかりの人生だったよ」
「ふうん……」
あんなことは、医者をやっていれば大なり小なり出合うことなのだろう。自分は若く、そして青かった。だが今でもあそこを辞めたことは間違っていたとは思っていない。
ああして清濁併せのんだままあの場所にいたならば、自分は自分を見失って、なんのために人を救っているのかわからなくなっていただろう。
「そういえば昨日、一階にねずみがいたよ」
「なに、ねずみ?」
いきなり現実に引き戻されて、槇は目を剥いた。
「困るなあ。医院だから清潔にしておかないと。退治しなくちゃ」
「どうやるんだろうね」
「それはそうと、あれはいいのか、あの、生類憐みの令みたいなやつ」
「……鳥獣保護法のこと言ってる?」
「なんだ鳥獣戯画って」
「先生ほんとに医大出たの?」
「とにかく、ねずみ退治大作戦だ蓮花。どうすればいいか、対策会議をするぞ」
「捕まえたらどうするの。殺すのやだなあ」
そうして、ああでもないこうでもないと話し合った結果、捕獲用の檻を設置することになり、槇と蓮花の粘りの結果、一週間後にねずみは無事捕まった。
どうしても殺すのは忍びないという蓮花の言葉を受けて、槇は檻を街の外れまで持って行って、そこでねずみを放した。
「ここまで来れば戻ってこられないだろ」
そう言って彼は帰っていった。
「先生はやさしいね」
「そんなことないさ」
「ううん、やっぱりやさしいよ。誰にでも」
誰にでも、ね。
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