風呂から上がった先輩は、カセットコンロに置かれた鍋を見て目を輝かせた。豆腐と鱈だけでは物足りないかと思って、野菜の他に先輩の好きな牡蠣を入れてみたのだが、正解だったらしい。濡れた髪を乾かしもせず、タオルだけ肩に引っ掛けて食卓に着き、頂きますと手を合わせた。


 美味しそうに牡蠣を頬張る先輩を見て、あと何度こうして先輩と食卓を囲めるだろう、と考える。社会人と大学生の時間の流れは、あまりにも違う。私が学生の間は都合をつけて会えるかもしれないが、それだって残り約一年間しか期間がない。私がどれだけ努力しようと疎遠になってしまう時が、もうすぐ来る。


 せっかく浮上していた気持ちが再び沈むのを自覚しつつ水菜をつついていたら、先輩にひょいとお椀を取り上げられた。


「ぜんぜん減ってないじゃん。お前が作ったんだから、遠慮なくお食べよ」

「別に遠慮してる訳じゃないっすから。あ、ちょ、よそい過ぎ!」

「良いから良いから。ちゃんと食べないと成長期延長戦に勝てないよ」

「なんすかそれ……」


 先輩は鍋の具をこんもりと盛って寄越すと、上機嫌で雑炊の作成に取り掛かった。いつも思うがマイペースが過ぎる。ちなみに、つい去年まで身長が伸びていたらしい先輩と違って、残念ながら私の成長期は高校二年生で終わっている。


 何食べて育ったらそんなデカくなれるんですか。とか、今更どうでも良いようなことを駄弁りながら、食事と後片付けを終える。


 先輩が買ってきてくれたケーキをつつきながら夜のニュースを見ていたら、大雪で電車が運休になったと鉄道会社からの発表が流れてきた。首都圏でここまでの大雪が降るのは十年ぶりだという。 


「ありゃ、帰れなくなっちゃったね。泊まっていきなよ」


 ありがとうございます。と返事をした私の声は、いつも通りだっただろうか。

 退路を塞がれた気持ちだった。ほんの数時間前までならまだ、この場から逃げられたかもしれない。電車が止まるといけないんで帰りますと言って、次に会う時には何事も無かったかのように振る舞えたのかもしれないのに。


 今更だ。そんなことは。

 分かっている。元々手遅れだ。


 頭を冷やしたくて、先輩に許可をとってベランダに出た。

 牡丹雪、と呼ぶのだろうか。大きな雪片が、暗い街に降り注いでいる。まだそう遅い時間ではないのに、夜は深い静けさの中にあった。


 ふとスマホの通知を見ると、弟から誕生日祝いのメッセージが届いていた。大学入学以来、ほとんど帰らない兄の誕生日などよく覚えているものだと感心する。


 いや、本当は母につつかれて送ったのかもしれない。考えてみれば、ここ最近は医大のパンフレットを送り付けてこなくなっていた。いい加減、愚息が医学部入学どころか仮面浪人さえ出来ないことに気が付いたのかもしれない。


『誕生日おめでとう。最近どう?』


 元気?とは訊かない。こちらが言いたいことだけ送れば済むような文面。優しさを気遣いでラッピングしたかのような弟からのメッセージに何と返せば良いのか分からない。


 吐き出した溜息に、白い氷の華が咲く。

 少し迷って、メッセージの礼と、受験生なんだから身体に気をつけるようにとだけ返事をした。それだけで酷く消耗した気がする。


 キン、と冷えた手摺りに手を置くと、手の甲に雪が乗る。体温で溶けたそれは、雫となって手首へと伝い、落ちた。触れた瞬間は痛いほどに冷たいのに、何の痕も残らない。

 あぁ、やはり、痛みだけでは意味がない。


「風邪ひくよ」


 振り返ると、先輩が窓を開けて、室内から呆れた様子でこちらを見ていた。


「お前、雪とか降るとはしゃいじゃう方?」

「……子供っぽいですかね」

「犬っぽいって言おうとしてた」


 喜んでなりますよ。貴方の犬なら。


「ほら、もう入んな。寒いよ」   


 先輩が私の手を引く。冷えた皮膚に、彼の体温が重なる。熱くて、痛い。けれど、どんなに欲しくても、彼の体温は私の肌には焼き付いてくれない。


 痛みだけでは意味がない。三たびそう思う。  




 

 部屋に連れ戻された私は、先輩の言いつけ通りにぬるま湯で手を洗った。


「昼間の話だけどさぁ」


 閉めたばかりの蛇口を捻りたくなるのを堪えて、はい、と返事をする。今までの会話が普段通りすぎて、ひょっとしたら有耶無耶にされるのではないかと思っていたのだが。


「お前、俺のこと好きなの?」


 ずいぶん白々しいことを聞くんだな。と、私は思わず笑ってしまった。他者の視線や好意を感じ取ることに長けた貴方なら、とっくの昔に気が付いていたでしょうに。


「そうですよ」

「いつから?」

「先輩が、ボランティアに興味ある?って誘ってくれたときから」

「サークル勧誘のときの第一声じゃんかそれ〜」

 流石に一目惚れだったとは思っていなかったようで、先輩は目をぱちくりさせた。

 


 先輩と初めて会ったのは、大学二年生の春、新入生歓迎祭の日のことだった。

 昨年に引き続き、特にどこのサークルに所属する気もなかった私は、新入生だと勘違いして群がってくるチラシ配りの学生達を躱しながら、バス停に続く坂を下っていた。


 親が勧める大学に受からなかった私は、奨学金を借りて進学していた。それだけでは賄いきれない学費や生活費を稼ぐために空いた時間をすべてバイトで埋めていた私にとって、新歓祭は煩わしいイベントでしかない。野外ステージで音楽を演奏している軽音サークルの爆音から逃げるように歩いていた私は、人混みの中で、ぽっかりと空いているスペースを見つけた。


 どうやらそこはボランティア系のサークルのブース島のようで、他のサークルの異様な盛り上がりからすると物寂しい感じの空間だ。


 それでもチラホラと一年生が話を聞きに来ているようだったが、一人だけ誰の相手もせず、気怠げに頬杖をついている男子学生が目に止まった。


 綺麗な人だと思った。

 白い肌に、ゆるくパーマがかかった黒髪。高い鼻梁。全体的に彫りが深くて体格も良いが、不思議と嫋やかな印象を受ける。

 カラーコンタクトをしているのだろうか。蒼みがかった銀色の瞳は、ひらひらと舞う桜を無感動に眺めていた。


 気が付いたときには明らかに用事が有ると思われるような距離にまで近付いてしまっていて、当然のことながら彼と目があった。


『こんにちは。ボランティアに興味があるのかな』


 私はこくりと頷いていた。


『二年生?うちは途中加入も歓迎するよ』

『え……どうして分かったんですか』

『一年はだいたい生協の袋下げてるし、まともな三年はこれから進級オリエンテーションだから』


 ほら座んなよ、とマトモじゃない先輩に促されるまま席についた私は、あれよあれよという間に先輩と同じ大学ボランティアセンターの学生スタッフに加入していた。


 実際に一緒に過ごしていく中で見えてきた先輩の人物像は、誰にでも平等で、物腰が柔らかくて、頭の回転が早くて、熱心にサークル活動に取り組む好青年。後輩達からの信頼も篤く、ボランティアセンターの職員からも頼りにされている。


 そして、そのキャラクターと決して対峙することなく調和し、時折裾を翻すサディスティックな精神性に、私はドツボに嵌まってしまったのだ。




「じゃあさ、何で今?」

「先輩と、もうそんなに会えなくなるから、嫌だなって最近ずっと思ってて。そしたら今日先輩が、あんなこと言うから……つい、口が滑った感じです」

「う〜ん。思考の過程は可愛いのに、そこで『抱いて下さい』とか、そういうんじゃないんだねぇ、お前は」


 先輩が苦笑いしながら発した言葉に目を瞠る。先輩への想いがプラトニックなものだと言ったら嘘になるが、その発想は無かった。


「先輩がしたくなさそうなことは、流石にお願いできないので」

「ちょっとぉ。それじゃあまるで、俺が人に根性焼きしたがってるみたいじゃん」

「違うんですか?」


 私の返答に表情を無くした先輩が、すっと目を細める。

 たぶんこれは、どうぞ続けて?の意だ。


「先輩、煙草の火を揉み消すとき、いつも愉しそうな顔でじっと手元を見てるじゃないですか」


 いつも見ていたから知っている。短くなった煙草を、灰皿に擦り付けて温度を移すように、ゆっくり消していく様を。そしてそれを眺める貴方の口元が、微かに孤を描くのを。隣でずっと、見ていた。

 あの視線が、私を射抜くことを夢想しながら。


「そんなに熱心に見られていたとは知らなかったな」

「嘘つき。私が見ていることに気が付いてたのも知ってますよ。目が合ったときに笑いかけてくれる顔が、途中から全然違ってましたもん」

「そう?どんな顔してた?」

「自分が世界で一番魅力的なのを分かってる顔」

「涼しい顔して熱烈だねぇ」

「もう、これが最後の機会かも知れないので」


 苦笑した私に、先輩が笑い返すことはなかった。思いの外真剣な表情を向けられ、居心地悪く姿勢を正す。


「ねぇ、お前は俺を買い被りすぎだよ。そりゃあ、お前に好かれていることは気がついていたけれど、それは恋愛感情とか、それに付随する性欲とかだと思ってた。俺の領分……ああ、SMのことね?そこまで手を伸ばしてくるとは思ってなかった」

「お嫌でしたか」

「ううん、全然。むしろ仲間が出来たみたいでちょっと嬉しかったよ。だってホラ、いつもやってるのはお仕事であって、結局はお客さんへのサービスだから」


 金銭の授受があるとこも含めて、あれはあれで芸術性があると思うけどね。と、先輩は肩をすくめた。


「プライベートで好きにやるにしても趣味の合う子はそうそう居ないし、最初から性癖ありきの場所で相手を探すのも好きじゃない。偶然出会った子がたまたま素質があって、俺が一から少しずつ開花させていけるのが理想」

「我が儘ですね」

「ロマンチストと言ってくれよ。誰だって一度は運命の出会いとか憧れるでしょ?」


 また嘘臭いことを……と呆れつつ、食卓の向かいに腰掛ける。このまま煙に巻かれてしまいそうな気もするが、先輩の頭の中の世界がどんな姿をしているのかが垣間見えそうで、好奇心が勝った。


「でもさ、俺って大学ではお茶目で可愛い上にめっちゃ頼りになるお兄さんじゃん?」

「自分で言いますか」

「だってそう見えるように努力してんだもん。だから、大学での俺を好きになってくれる人は、金貰ってSMやってるような俺を受け入れられないかも知れない。逆に、完璧なご主人様を演じている俺を好きになってくれる人は、家でのずぼらで自堕落な俺をきっと許せない。その辺上手く折り合い付けて楽しくやってる人は周りに沢山いるけどさ、俺はあんまり器用じゃないみたい。難しいや」

「……俺は、どんな貴方でも好きになりたいと思いますよ」

「『好き』じゃなくて『好きになりたい』、か。相変わらず誠実だねぇ……でも、本当にそう思えるかな」


 先輩は煙草を一本取り出して火を付けると、赤く焼けた部分を指さした。


「煙草の火ってさ、どれくらいの温度か知ってる?吸ってるときの火の中心は八百度以上って言われてるんだけど、火の粉が飛んだだけでも火傷するし、ちょっと触れただけでビニールに穴が開いちゃうような温度。当然まともに触ったら『痛い』なんて言葉じゃ済まないくらい苦痛だろうね」


 細く吐き出された煙が、テーブルに跳ね返ってくるりくるりと旋回する。


「そんな危ないものを、愛しいから、可愛がりたいからって自分の大切な人に向けるような男だよ?もちろん煙草だけじゃない。言葉で、手足で、時には道具を使って、俺に出会う前の人生全てを罪として罰して、自分の所有する物として扱って、俺が飽きるまで、飽きなければ永遠に甚振り続けるのが愛情表現だと思ってる……こんな頭のおかしい人間を、本当に好きになりたいと思う?」


 今まで見たことがないような悪い顔で先輩が問う。そこに微かな怯えが混じるのを見て、私はますます彼を愛おしいと思った。


「好きになりたいです。今はまだ見たことがない先輩の姿も、全部」

「…………」

「だから試してみて下さいよ」

「強がり。本当の本当に、とーっても痛いよ?」

「痛くして下さい」

「んふふ。可愛いお返事だけど、俺が見たいのは痛みを望んだ同じ口で、お前が『もう止めて下さい』って泣いて縋るところだよ?分かってる?」

「それが先輩の悦びなら、受け入れるのが俺の悦びです」


 先輩は一瞬動きを止めると、今までの艶然とした表情を台無しにしてテーブルに突っ伏して叫んだ。


「脅し甲斐のない子だな〜!本当にちゃんと分かってて言ってるの⁉︎」

「理解してますよ。今まで先輩が望んでも、他の人間とじゃ出来なかったことを俺で試してくれるんでしょう?たぶん俺、すごく幸せです」


 先輩は変な呻き声を出しながら長い脚をジタバタさせて私の足を蹴ってきた。まるで子供の癇癪だが、こんなにも感情を露わにする先輩が珍しく、ついつい煽る言葉が止められない。


「なんか今日の先輩可愛いっすね」

「お黙りよ!ってか、そもそもコレお前への誕プレのはずじゃん!なんで俺がしたいことに付き合おうとしてんのさ〜」

「あ、それはご心配なく。これはだいぶ前からしてもらいたかったことなので」

「も〜ヤダこの子。ああ言えばこう言う」


 先輩は最後の悪足掻きとばかりに煙草を一気に吸い込むと、ため息と共に吐き出した。


「……はぁ、負けた。もういいよ分かったよ、やるよぉ〜もう。どうなっても知らないからね!待ってて!準備してくるから!」


 そう言い残し、先輩は寝室へ引っ込んだ。煙草もライターも灰皿も揃っているのに、何の準備が必要なのだろう、と落ち着かない気持ちで待っていると、先輩はものの数分で戻ってきた。




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