第30話 世界樹の乙女

 黄昏時の執務室。


 西日が高窓から差し込み、書棚に影を描いていた。


 ヴァリスは机に肘をつき、孤独の記録者ソリタリウス・スクリプタを起動させると、淡い魔力で巻紙が一枚ずつ吐き出されていく。その筆跡は整っており、半年に及ぶ国家の動きが淡々と記録されていった。


「……分散補助要石計画の稼働から半年。石灰精霊炉による生産体制は安定。特に水と土による精霊抽出による石灰岩生成……これは完全に想定外だったな」


 ヴァリスは巻紙を捲りながら、ふと口元を緩める。


 石灰石の入手問題が解決したことで、火と風で組まれた石灰炉が、生成された原料を安定的に処理し、かつて課題とされていた石灰供給が完全に解消されたこと。さらにその副産物として、各地の衛生環境や農業も飛躍的に向上したことは、単なるインフラ整備を超えた成果だった。


「……水と火の合わせ技で配湯。分散式から供給式へ。理想は描いていたが、ここまで整うとは……」


 ふと目を上げると、壁にかかる地図が目に映った。そこにはシルヴァ=ハルナを含めた“精霊の円環”——十二の補助要石と世界樹、王都を繋ぐ光のラインが記されている。


 ただ国家の歴史の時計を、下手すると数十年以上早めてしまった改革。しかし……


 * * *


「現在の精霊供給網は世界樹およびアモンへの依存度が著しく高い。代替案がなければ、一撃で国土機能が麻痺する構造だ」


 先日の御前会議で、その指摘を真っ先に挙げたのはバルムート公だった。


「わしなら、真っ先に狙う。防衛の主眼をそこに据えぬなら、守る意味もあるまい」


 現在、シルヴァ=ハルナに近いリューイの村は急ピッチで城塞化が進行中だ。責任者はエヴァレット伯クラウス。軍務と土木の調和を熟知した彼の采配のもと、“防衛と供給”を兼ねる新たな拠点としてその姿を変えつつあった。


 一方、シルヴァ=ハルナ側。


 アモン——かつて精霊暴走の象徴であったその存在は、今や世界樹の根元にその巨体のまま静かに伏して眠っている。


 その制御に当たるのは、エルフの姫・マリー。


 彼女によれば、歴代の神子ですら顕現できなかったアモンを、フェリルは“最初から”顕現の素養を持っていたという。


「教えたのは導きだけ。あの方は最初から、アモンに触れられる存在だったのです」


 そう語るマリーの眼差しには、同族以上の誇りと驚きが入り混じっていた。


 さらに顕現しているアモンの力は、全体の半分に過ぎず、もう半分は未だフェリルの中に眠っており、精霊力を暴走させることもなく、完全制御されているという。


 その“半分”だけで世界樹を介した供給網が動いている現実は、ヴァリスに恐れすら抱かせる。


 そのアモンと世界樹の管理については、シルヴァ=ハルナ王族としてミシェルとマリーが継続して担当することが正式に決まった。


 収益についても、アルヴェリアが得る利益の半分を“利用料”としてシルヴァ=ハルナに支払う盟約が交わされ、国家間の契約として法と魔印によって固められた。そしてその日、国交樹立と、合わせて軍事を含む同盟関係が正式に調印された。


 その筆頭に名を連ねたのはヴァリス自身。記録者により盟約文書の原案を練り、王印と精霊印が添えられた巻紙が、今も机上に置かれている。


 フェリル・エヴァレット。


 彼女はマリーの教えを超え、四大精霊すべてを自在に操る精霊魔法スピリットアーツの使い手となった。


 とりわけ彼女の特異性は、“精霊の媒介”としての能力にある。彼女が十二の補助要石いずれかに力を注げば、世界樹に匹敵する精霊の円環を再構築することが可能であり、それはつまり、“動く世界樹”を意味していた。


 当然、その存在をどうするかはアルヴェリアの重要な議題となった。


 本来であれば、シルヴァ=ハルナとの国交樹立を盤石なものとする為に彼女をミシェルのもとへ嫁がせるのが理に適っていた。


 だが——フェリルは人間。ミシェルはエルフ。


 生まれる子は、必ず人間になる。かの王家の血脈は、断たれてしまう。


 それに……ヴァリスはかのエルフの兄妹を思い浮かべる。


 王家として血を繋いでいかなくてはならないミシェルと子を持たずにアモン封印の為の犠牲となることを運命づけられていたマリー。


 この二人は、兄妹と名乗っていたが実際には同族であるというだけで父と母は異なり、この度、正式に婚姻、エルフたちの言う「番(つがい)」として、血を繋ぐ責務を果たす形となった。


 愛し合いながらも結ばれることを諦めていた二人が、今ようやく未来を共に歩める——そのことを、ヴァリスは心から祝福していた。


 フェリルは、王国貴族たちの強い推挙とレイナの采配により、第一王妃に次ぐ第二王妃候補として迎えられる運びとなった。


 王の裁可のもと、それは一代限りの特例として公に認められた。執務の合間に届けられたその報せを受けて、ヴァリスは呆れ顔の父・アルスの「おまえさぁ、ちゃんと責任とれよ」という無言の口の動きを、今もはっきりと思い出せる。


 そして何より——そのすべての段取りを整えたのが、第一王妃レイナであった。


 * * *


 執務室の扉が、ひとつノックされた。


「どうぞ」


 ヴァリスの言葉に従って入ってきたのは、銀髪を揺らしたフェリルだった。


「お帰り、フェリル。領から?」


「ああ、それはそうだけど……」


 フェリルはむっとした顔のままヴァリスの机に歩み寄る。


「……ちょっと聞きたいことがあるの」


「どうぞ?」


「“こんなに想ってるのに、ずっと放っておくつもりだったの?”」


「……え?」


 問いの意味を理解するより早く、フェリルは机越しに身を乗り出した。


「……本当に、知らないふりをするつもりだったの?」


 その瞳には、困ったような怒りと、切なさと——そしてほんの少しの期待が滲んでいた。


「レイナ姉様にね、“自分の魅力で言わせてこい”って言われたの」


「……ああ、やっぱりレイナか」


 ヴァリスは小さくため息をついた。


「……でも、そうだな。言わなければな」


 そう言って立ち上がると、彼はそっとフェリルの手を取り、彼女の前で片膝をつく。


「フェリル・エヴァレット。貴女一人だけを……と言うことは、私にはできません。でも、私は貴女を心から愛しています。どうか、私と共に生きてくれますか?」


 フェリルの目が潤んだように揺れた。けれどその代わりに、晴れやかな笑顔が咲く。


「……はい。私フェリルは、ヴァリス殿下を愛しています。そして、レイナ姉様、ミリア様と共に……あなたのそばに在りたい」


 そう言って、フェリルはヴァリスを抱きしめた。その胸に包まれたヴァリスは、ただそっと目を閉じた。

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