第20話 ローレルの手記と重い真実

 書庫の扉が音もなく閉じられ、薄暗かった空間の名残が廊下にまで引きずってきたように思えた。


「レイナ」


「はい、殿下」


「近衛への通達を。出立準備に入る」


「かしこまりました」


 レイナが静かに身を翻し、外套を翻しながら足早に遠ざかっていく。その姿は背筋が伸び、どこまでも凛としていた。


「ミリア、レイナを手伝ってくれ」


「うん。装備品の確認と薬草の準備もね。任せて」


 ミリアは軽やかな笑みを残して後を追い、二人の足音が角の向こうに消えていく。そこにフェリルが戻ってきた。


 フェリルはわずかに息を整えてから歩み寄り、そっと報告する。


「御父様への伝令はお願いしました」


「ありがとう」


 そのやりとりの間に、フェリルは周囲へと目を巡らせる。人の気配がないのを確かめると、声を落として問いかけた。


「……本当は、何が書かれてたの? ひいおばあちゃんがエルフの姫だったって、それだけじゃないでしょう?」


 ヴァリスは視線を正面に向けながら、足音を響かせずにゆっくりと窓際へと歩く。ステンドグラス越しの光が床に模様を描き、風が少しだけカーテンを揺らしていた。


「話す前に、ひとつだけ。確認させてほしい」


「確認……?」


 フェリルが数歩近づくと、ヴァリスはその視線を受け止める。


「君はさっき、俺の魔法を見て“チート能力”と呟いた。なぜ、そう思った?」


 フェリルはわずかに驚いたように目を見開く。


「……王子には言うつもりではいたんだけど」


 静かにそう言うと、彼女は右手を肩の高さまで持ち上げ、空気を払うようにひと撫でする。その手の動きに呼応するように、空間が波紋のように揺れた。


 掌の中心に、小さな風の渦が生まれる。ほのかな光を含んだ空気の流れが、柔らかく彼女の髪を揺らす。無音のまま、淡く、そこにあるものの気配だけが空間に広がっていた。


「……これ、見える?」


 フェリルの声は、まるで何かを試すように、息よりも細い。ヴァリスは目を細め、手元の渦をじっと見つめた。


「風は、見える。でもそれ以上のものは――」


 フェリルは肩を落とし、少しだけ寂しそうに微笑む。


「やっぱり。わたしにしか見えない。これは魔法じゃない。――この子を呼べる力は」


「この子?」


 ヴァリスの問いに、フェリルは掌を見つめたまま頷いた。


「石の狛犬の姿で出てくるからコマちゃんって、私が勝手に名付けただけなんだけど……お願いすれば、火を灯したり、水を呼んだりもしてくれるの。姿もこうやって……って見えないか。力を使わせるね」


 風は静かに彼女の指先にまとわり、くるくると螺旋を描きながら流れている。


 少なくとも超自然的な現象が起きていることは確か。そして彼女の話から間違いはないだろう。


 だが、それでも……ヴァリスは目を閉じ、ひとつ息を整え、期待を込めて詠唱をする。


古代魔法アーカイブアーツ……魔力感知センスオーラ


 詠唱の終わりと共に、ヴァリスの視界に薄い霧膜のような光が差し込んだ。フェリルの掌のあたりに、わずかに煌めく“何か”が視えた。


 はっきりとした姿ではない。ただ、そこに在ることだけが確かで、風が踊るような気配がある。


「……魔力の性質が、見える」


 フェリルがえっ?と声を上げる。


「これって……あなたからは魔法に見えるの?」


 ヴァリスは静かに頷いた。


「そうだ。少なくとも、精霊魔法スピリットアーツ古代魔法アーカイブアーツと同じこの世界の“理”に沿った力として、ここに在る」


 ヴァリスは静かに力強く告げる。


「つまり、これは君の思うようなチート能力ではなく、この世界の能力。ちなみにさっき俺が見せたものもこの世界の古代魔法アーカイブアーツの一つだ」


「……!」


 フェリルの困惑を踏み越えて、ヴァリスは口をひらく。


「これで合点がいった。ローレルの手記に、“アモン”という名前が出てきた。それは複数の属性を束ね、姿を変える、原初の精霊の名だとされている。複数の変化を起こすという君のコマちゃんとやらの話とも合致する……」


 フェリルは小さく頷いた。


「……じゃあ、この子はアモンって名前なの?いえ、それよりも……ひいおじいさまの手記に書いてあったってこと?」


 ヴァリスは、頷く。


「神子姫シルファリアは、複合精霊アモンと契約し、世界樹と結びつけ、森全体に循環させる“要石”となっていたらしい」


 フェリルが、そっと掌の上の風を見る。その視線には微かな不安が滲んでいた。


「そして……手記には、こうもあった。彼女は百年前、ローレルと子を成したあと、複合精霊アモンの力を失った。それ故に世界樹を維持できなくなり、自らを贄に世界樹と“同化”した。以降は人としての姿を捨てて、精霊力の源として森を支え続けている……いた、とのことだ」


「……同化……」


 フェリルが小さく息をのむ。


「彼女は、元々が完全なる不老のエルフ――特別な存在だったようだ。だが、“例外”が起きた。ローレルとの子を産んだことで、急速に老いが進み、死を迎えるほかなくなったと書いてある。そして、最後に自身を世界樹へと重ね、同化したのだと……」


 ヴァリスは言葉を一つずつ慎重に選びながら続けた。


「詳しい仕組みはわからない。ただ、彼女の死後もその“同化”は精霊力を巡らせる仕組みとして機能し続けるように設計されていたようだ。だが――その永続性に、綻びが生じた」


 視線をまっすぐフェリルに向ける。


「君が……シルファリアの子孫がアモンの力を持っていること。それ自体が、手記に記されていたローレルの懸念になっているんだ」


 フェリルは黙って頷いた。風が彼女の銀髪を揺らす。


「ローレルの知識だからか、詳しくは書かれていない……だが、推測するとアモンの力が子孫に発現すると、そこで継承が為されたこととなり、現在、贄となっているシルファリアの要石としての意味は、急速に失われて、その子孫が要石、つまり世界樹の贄とならなくては維持できなくなる」


 ヴァリスは言葉選びを間違えないように続ける。


「そして、子孫にアモンが継承されないように、何らかの封印を施していたのだとあるが、何百年か、千年後かの後に封印は解けるかもしれない、と。だが、君の中には“園田優子”という別の魂が、転生という事態が起きてしまったことで恐らくローレルやシルファリアの想定よりも遥かに早く、封印を狂わせ、継承されてしまった」


 フェリルは息を飲む。


「君が“コマ”、”アモン”を扱えるようになった時期と、前世の記憶が戻った時期が一致することからも"転生"という現象の影響があった、そう考えるのが自然だ」


 フェリルはわずかに俯き、長い睫毛の影が頬を濡らす。


「……じゃあ、私が新しい“要石”として……?」


 ヴァリスは一拍置き、目を伏せた。


「ここで結論を出すつもりはない。これは王国として考えるべきことだ」


 口にした言葉の重さが、喉の奥に残る。ヴァリス自身の意志ではなく、国の意志へと委ねることでしか、この場での答えは導けない。


 フェリルの表情は静かだったが、その沈黙の奥に揺れるものを、ヴァリスは確かに感じ取っていた。


 ローレルが西方の辺境に移った理由は、おそらく“その時”のためだったのだろう。


 だが、今や“遠い未来”は現実となり、フェリルの中にアモンの力が宿っている。


 世界樹の劣化はすでに始まっているのか、それともまだ兆しにすぎないのか。封じていた力が解かれたことで、何が引き起こされるのか。ヴァリスにはまだ判断がつかなかった。


 そして、なぜエルフたちが今まで沈黙を守っていたのかも。


 だが、それも長くは続かない予感がある。


 いずれ、彼らは動くだろう。


 その時、アルヴェリアとしてどのような決断を下すのか。フェリルを守るのか、差し出すのか。その判断は、国家の命運を左右する。


「……はい」


 フェリルの声が、わずかに震えながらも、はっきりとヴァリスの耳に届いた。


 そのとき、廊下の角から足音が近づき、レイナの声が届く。


「殿下、近衛への伝達完了しました。出立準備は整いつつあります」


「補給も完了。馬もすぐ出せるよ」


 ミリアの声が続き、二人が並んで姿を現す。フェリルの顔色を見て、レイナがそっと彼女の背に手を添える。


「大丈夫ですか?」


「……ええ。少し、考え込んでしまっただけです」


 ヴァリスは短く頷き、三人に向き直る。


「まずはエヴァレット伯が戻られるのを待って、手記の内容を話した上で、早馬で王都へ戻る」


「了解しました」


 柔らかな風が吹き抜け、コマと彼女が呼んだアモンの気配がフェリルの裾をそっと揺らす。その小さな風は、まだ見ぬ先の決断に、静かに寄り添うようだった。

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