発展への第一歩

山賊撃退から一ヶ月後、村に初めての見張り台が完成した。

「本当にできた……」


村人たちは木組みの簡素な櫓を見上げて感嘆の声を上げた。高さは三間(約5.5メートル)ほどで、村を一望できる小高い丘に建てられている。


「玲央さん、これで本当に遠くまで見えるのですかな?」


村長が心配そうに尋ねた。建設には丸太を組み合わせ、村の男たちが総出で作業にあたったが、完成まで何度も「本当に意味があるのか」「木材がもったいないのでは」といった声が上がっていた。


「登ってみてください」玲央は微笑んだ。

村長が恐る恐る梯子を上っていく。頂上に着くと、驚きの声が響いた。

「おお……これは……」


普段は山に阻まれて見えない谷の向こう側まで、手に取るように見渡せる。街道を行く商人の姿、隣村から立ち上る煙、そして——


「あれは……人が大勢……」


「どちらの方角ですか?」玲央が下から声をかけた。

「東の谷じゃ!武装した者が……十人以上おる!」


玲央は表情を引き締めた。また山賊の可能性がある。

「皆さん、配置につけ!」


今度は村人たちの動きが違った。一ヶ月の間に何度か避難訓練を行っていたおかげで、混乱することなく持ち場に着く。


「でも、まだ遠いようですが……」


「だからこそ準備ができるのです」玲央は説明した。「相手が村に着くまでに、女子供を安全な場所に避難させ、男たちは武器を用意し、戦いの心構えを整える。これが見張り台の価値です」


結果的に、その一団は商人の護衛だった。しかし、事前に準備ができていたおかげで、警戒を解くのも早かった。


「素晴らしい……」村長は感動していた。「これまでは突然現れる者に、いつもびくびくしておりました」


「今度は山道の要所にも、簡単な柵を作りましょう」

「柵?」


「敵の進行を遅らせる障害物です。完全に止める必要はありません。少し時間を稼げれば十分です」


村人たちは玲央の提案に素直に従うようになっていた。見張り台の効果を実感したからだ。



防衛設備の次に、玲央が取り組んだのは農業の改良だった。


「畑を見せていただけませんか?」


村長に案内されて田畑を回る。稲作が中心だが、野菜畑も点在している。ただし、現代の基準から見ると非効率な部分が目についた。


「この区画の境界が曖昧ですね」


「ええ、まあ……代々そうやってきたもので」


「水はどこから引いていますか?」


「あの小川からです。雨が少ないと水不足になることも……」


玲央は頭の中で改良案を組み立てていく。しかし、ここでも慎重なアプローチが必要だった。


「少しずつ改良してみませんか?まずは一つの畑で試してみて、効果があれば他にも広げる」

「どのような?」


「区画をはっきりと区切り、用水路を整備します。それと……」玲央は土を手に取った。「肥料を工夫してみましょう」


「肥料?」

「はい。堆肥の作り方を改良すれば、収穫量を増やせるはずです」


村の男たちが集まって相談が始まった。

「玲央さんの言う通りやってみるか?」


「でも、うまくいかなかったら……」

「一つの畑だけなら、大した損にはならんだろう」


「そうじゃな。試してみるか」


こうして、村初の農業改革が小規模ながら始まった。



玲央は村人たちに堆肥作りを指導した。現代の知識を戦国時代の技術レベルに合わせて応用する。


「まず、藁と落ち葉を集めます」


「それは普通にやっておりますが……」


「そこに、台所の残滓と家畜の糞を混ぜます。ただし、積み方に工夫が必要です」


玲央は実演してみせた。層状に積み重ね、定期的にかき混ぜる方法を教える。


「なぜ、そんなことを?」

「こうすることで、より良い肥料ができるのです。西の国では一般的な方法でして」


村人たちは半信半疑だったが、指示に従った。数日後、堆肥の発酵が進んでいることが確認できた。


「おお、確かに以前より良い匂いがする」


「これが本当に効果があるのじゃろうか?」


「来年の春になればわかりますよ」玲央は自信を持って答えた。


しかし、結果を待つ間にも、他の改良を進めることはできる。


「用水路の整備もしましょう」

「用水路?」


「水の流れを効率良くするための溝です。これによって、畑全体に均等に水を行き渡らせることができます」


この提案も最初は理解されなかった。


「川からそのまま水を汲んでくればよいのでは?」


「雨が降れば天からも水がくる」


「もちろんそれでも作物は育ちます」玲央は辛抱強く説明した。「しかし、もっと効率良く、安定して水を供給できれば、収穫量も増えるのです」


「収穫量が増える?」


この言葉に、村人たちの関心が高まった。食べ物に余裕ができることは、貧しい農村にとって何より魅力的だった。



用水路の建設は、村人総出の大工事となった。


「まず、水の流れを観察しましょう」

玲央は小川の上流から下流まで歩き、地形を詳しく調べた。村人たちも一緒についてくる。


「この辺りから水を引いて……」玲央は地面に線を引いた。「この角度で流せば、三つの畑に効率良く水を届けられます」


「しかし、そんな長い溝を掘るのは……」

「みんなで少しずつやれば大丈夫です。一日に一間ずつでも、一月もあれば完成します」


工事は村人たちの協力で順調に進んだ。男たちが土を掘り、女たちが石を運び、子供たちも小さな石を集めて手伝った。


「なんだか、村全体が一つになったようじゃ」

村長が嬉しそうに呟いた。確かに、共同作業を通じて村人同士の結束も深まっていた。


玲央は作業の合間に、村人たちと会話を重ねた。彼らの考え方、価値観、そして悩みを理解しようとした。


「玲央さんは、なぜそんなに我らのことを気にかけてくださるのですか?」

ある日、若い男性がそう尋ねた。


「皆さんに親切にしていただいたからです」玲央は素直に答えた。「困っていた私を助けてくれた。その恩返しをしたいのです」

「でも、こんなにいろいろと……我らには過ぎた恩恵です」


「そんなことはありません。皆さんは勤勉で優しい。そんな人たちがもっと豊かになれば、きっと良いことだと思います」


この言葉に、村人たちは深く感動した。身分の高そうな若者が、自分たちのような農民を対等に扱ってくれる。こんな経験は生まれて初めてだった。



用水路工事が進む中、玲央は近隣の村についても情報を集めていた。特に気になるのは、馬を飼育している隣村だった。


「隣の谷の村とは、どのような関係ですか?」

「まあ、普通の付き合いですかな」村長が答えた。「時々、野菜と馬の毛を交換したり……」


「馬の毛?」

「はい。あちらは馬を飼っておりまして。毛を織って縄にしたり、筆を作ったり……」


玲央の目が輝いた。馬を飼育している村との関係を深めることができれば、将来的に大きなメリットがある。


「一度、挨拶に伺ってみませんか?」

「挨拶?」


「私が来てから、この村も少しずつ変化しています。近隣の村とも良い関係を築ければ、お互いにとって良いことがあるかもしれません」

村長は考え込んだ。


「そうですな……確かに、もう少し交流があっても良いかもしれん」


「では、近いうちに伺ってみましょう。私も一緒に行かせていただければ」

「もちろんです」


こうして、玲央の外交活動が始まった。まずは小さな一歩からだが、これが後に大きな展開につながることになる。



数日後、玲央は村長と数人の村人と共に隣村を訪れた。


谷を一つ越えた先にある村は、玲央の村よりもやや大きく、確かに馬の姿が目に付いた。茶色や黒の馬が放牧されており、その中には足が速そうな良馬も混じっている。


「おお、これはこれは」


隣村の村長——年配の温厚そうな男性——が出迎えてくれた。


「突然の訪問で失礼いたします」

「いえいえ、滅多にないことです。どうぞ、お上がりください」


隣村の村長の家も質素だが、馬飼いのおかげか玲央の村よりも若干余裕がある様子だった。


「こちらは玲央さん」玲央の村長が紹介した。「最近、我が村にお世話になっている南蛮の方です」


「南蛮の?これは珍しい」隣村の村長が興味深そうに玲央を見る。「日本語がお上手ですな」


「ありがとうございます。日本の文化に憧れて学びました」


「それは嬉しいことです。しかし、なぜまたこのような山奥に?」


玲央は用意していた説明をした。故郷を離れる事情があったこと、旅の途中でこの村に助けられたこと、恩返しのつもりで村の手伝いをしていること——。


「なるほど、義理堅い方ですな」

隣村の村長は好意的な反応を示した。


「ところで」玲央は本題を切り出した。「お村の馬を見せていただくことは可能でしょうか?西の国でも馬は重要な動物でして、とても興味があります」


「もちろんです。自慢の馬たちですよ」



隣村の村長に案内され、放牧地を見学した。


「素晴らしい馬ですね」

玲央は感嘆した。戦国時代の馬は現代のサラブレッドほど大型ではないが、足が速く持久力もありそうだ。


「この茶色の馬は特に立派ですが……」

「ああ、あれは『風丸』と呼んでおります。村一番の俊足でして」


玲央は馬の体格、脚の形、全体のバランスを観察した。現代の知識で見ても、確かに優秀な馬だと判断できる。


「普段はどのような世話を?」

「朝夕に草を与え、時々川で水浴びをさせます。病気の時は薬草を煎じて飲ませることも」

「薬草?どのような?」


隣村の村長は詳しく説明してくれた。馬の病気とその治療法について、彼らなりの経験と知識を持っている。


玲央は内心で驚いていた。現代の獣医学と比べれば原始的だが、経験に基づいた実用的な知識が蓄積されている。


「もし可能でしたら」玲央は慎重に切り出した「我が村との間で、何か交流を深められればと思うのですが」


「交流?」

「例えば、馬の世話について教えていただく代わりに、我が村で行っている農業の改良法をお伝えするとか……」


隣村の村長は興味を示した。

「農業の改良?」


「はい。最近、収穫量を増やす方法を試しているのです。うまくいけば、お分けできる野菜も増えるかもしれません」


「それは興味深い話ですな」


こうして、二つの村の間で技術交流が始まることになった。玲央にとっては馬術の知識を得る機会であり、相手にとっては農業技術を学ぶ機会だった。



それから数週間、二つの村の間で頻繁に人の往来が始まった。


玲央は週に一度、隣村を訪れて馬の世話を学んだ。餌のやり方、手入れの方法、馬の気持ちの読み方——実用的な技術を次々と吸収していく。


「玲央さんは覚えが早いですな」


隣村の若者が感心した。「まるで生まれた時から馬と接していたみたい」


実際、玲央は現代の知識と観察力で、短期間のうちに基本的な馬術を身につけていた。馬に乗ることも、最初はふらつきながらも、すぐに安定した騎乗ができるようになった。


一方で、隣村からも何人かが玲央の村を訪れ、農業技術を学んでいった。


「この堆肥の作り方は目からうろこです」


「用水路も、確かに効率が良い」


「来年の春が楽しみですな」


技術交流は両村にとって有益だったが、それ以上に重要だったのは人間関係の構築だった。互いの村の事情を理解し、信頼関係が生まれていく。


「玲央さんのおかげで、隣村との仲が深まりました」


玲央の村の村長が感謝した。


「良いことです」玲央は微笑んだ。「一つの村だけで全てを解決するのは限界があります。近隣と協力すれば、もっと多くのことができるはずです」



しかし、平穏な日々は長く続かなかった。


「玲央さん、大変です!」


見張り台から慌てた声が響いた。


「どうしました?」


「大勢の武装した者が!今度は本当の武者のようです!」


玲央は急いで見張り台に上った。確かに、本格的に武装した一団が村に向かってくる。人数は三十人ほど。前回の山賊とは明らかに格が違う。


「これは……」


玲央は状況を分析した。統制の取れた動き、きちんとした武具、そして何より隊列を組んで行進している。これは正規の軍勢だ。


「村長!」玲央は急いで下りてきた。「すぐに隣村に使いを出してください。こちらの状況を知らせ、もし可能なら援助を求めます」


「援助?」


「はい。今度の相手は山賊ではありません。恐らく、どこかの領主の軍勢です」


村人たちに緊張が走った。山賊なら何とかなっても、正規軍相手では分が悪い。


「他に逃げ道は……」


「いえ、逃げても無駄でしょう」玲央は冷静だった。「向こうは騎馬も持っている。逃げ切れません」


「では、どうすれば……」


「交渉です」


玲央は決断した。

「私が直接話し合います。相手の目的を確認し、できれば平和的に解決しましょう」


「危険すぎます!」


「大丈夫です。まず相手が何を求めているかを知らなければ、対処のしようがありません」


玲央は村の入り口に向かった。人生で初めて、戦国時代の武者と直接対峙することになる。



武者の一団は、予想通り村の入り口で停止した。

先頭に立つのは三十代と思われる男性で、立派な具足に身を包んでいる。恐らく、近隣の小領主だろう。


「この村の長は誰か?」

男性が大声で呼びかけた。

玲央は村長と共に前に出た。


「村長はこちらです。私は玲央と申します」

武者は玲央を見て眉をひそめた。


「南蛮人か?何故このような山奥に?」


「事情があって、こちらでお世話になっております」


「ふむ……」男性は興味を示した。「私は松平家の家臣、本多正信と申す」


玲央は内心で驚いた。本多正信——後に徳川家康の重臣となる人物の名前だ。ということは、これは松平家(後の徳川家)の軍勢ということになる。


「本多様、何の御用で?」


「この辺りで山賊が暴れているという報告があった。討伐に来たのだが……」


「山賊でしたら、すでに処理いたしました」


「何?」本多正信は驚いた。「お前たち農民が?」


「はい。一ヶ月ほど前のことです」


玲央は山賊との戦いについて簡潔に報告した。正信は興味深そうに聞いていたが、やがて疑念を口にした。


「しかし、農民だけでそんなことが可能だろうか?」

「幸い、事前に気づくことができましたので」


「事前に?」


玲央は見張り台を指差した。

「あちらから敵の接近を確認し、準備を整えることができました」


正信は見張り台を見上げ、その構造を観察した。

「なるほど……これは良い考えだ。誰が作らせた?」


「皆で相談して作りました」


正信は玲央をじっと見つめた。


「南蛮人、お前の発案か?」


玲央は頷いた。嘘をついても仕方がない。


「素晴らしい」正信は感心した。「このような山間の村で、これほどの工夫をするとは思わなかった」


「ありがとうございます」


「ところで」正信は話題を変えた「我々は近々、今川との戦に備えねばならない。もしお前たちが本当に山賊を撃退したなら、戦の才があるかもしれん」


玲央は緊張した。これは徴兵の話だろうか?

「松平様にお仕えするという意味でしょうか?」


「そうだ。特に、お前のような知恵者なら重宝するだろう」


玲央は慎重に答えた。


「光栄なお話ですが、私はこの村の皆さんのお世話になっており……」


「心配するな。村も保護する。むしろ、松平様の庇護下に入った方が安全だろう」


これは重要な分岐点だった。松平家に従属するか、独立を保つか——玲央の判断が求められている。



「少し、お時間をいただけませんでしょうか?」

玲央は慎重に答えた。

「村の皆さんと相談してからお返事したいのです」


正信は頷いた。

「もっともだ。明日の昼までに返事を聞かせろ」


武者の一団は村の外で野営することになった。


その夜、村では緊急の会議が開かれた。

「どうすべきじゃろうか……」

村長が頭を抱えている。


「松平様は有力な大名と聞く」


「しかし、戦に巻き込まれるかもしれん」


「断れば、今度は敵になってしまうのでは?」

村人たちは不安そうに議論を交わした。


玲央は静かに考えていた。歴史の知識では、松平家(後の徳川家)は最終的に天下を取る。しかし、今はまだ小大名に過ぎない。今川義元の支配下にあり、独立への道のりは険しい。


一方で、完全に独立を保つのも現実的ではない。小さな村では、やがて限界が来るだろう。


「玲央さん、どう思われますか?」

村長が尋ねた。


「難しい選択ですね」玲央は正直に答えた。「しかし、私たちだけの力では限界があるのも事実です」


「では、従った方が良いということですか?」


「条件次第だと思います」


玲央は提案した。

「明日、もう一度交渉してみましょう。村の自治を認めてもらい、過度な負担をかけないよう約束していただければ……」


「そんなことが可能でしょうか?」


「やってみる価値はあります」


翌日の交渉が、玲央と村の運命を決することになる。


そして、これが玲央にとって戦国の政治世界への第一歩となることを、この時はまだ誰も知らなかった。



次回予告:第三章「松平家との盟約」

本多正信との交渉の結果は?玲央の外交手腕が試される中、村の運命と共に、より大きな歴史の流れに巻き込まれていくことになる。そして、ついに松平家康その人との邂逅が——。

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