〈前日譚〉邪恋の手招き②
あの日、宰斗と初めて生徒会室で過ごしてから、僕らはほとんど毎日のように会うようになった。
4限目が終わりに近づくといつもそわそわして、早くチャイムが鳴らないかと時計にばかり目が向いた。
(宰斗……今日は先にいるかな)
この日も授業が終わってすぐに、僕は生徒会室に向かおうとした。
「暁那、今日も勉強?」
「あ、うん。ごめんね」
隣の席の友人に聞かれても、適当に笑って誤魔化して教室を出た。
「なにあいつ、今日も調べものってやつ? 最近昼休みはいっつもいねぇな」
「あぁ……どうしたんだろ」
◇
生徒会室の鍵は開いていて、音がしないようにそっと扉を開ける。
隙間から覗き込むと、宰斗は窓辺に座ってスマホを見ていた。
気付いていないようだったので、僕は足音をさせないようにゆっくり彼に近づく。
「……宰斗!」
近くまでいって大きな声で声をかけると、宰斗はビクッと体を揺らした。
そして僕の方を見ると、じとっとした眼差しを向ける。
「あきなー? 俺を驚かせるなんていい度胸だねぇ」
「ふ、ふふっ……ごめん。気付かれたらやめようと思ってたんだよ?」
意地悪そうな笑みで睨む宰斗が面白くて、僕は吹き出す笑いを堪えながら弁解した。
「本当かな? まいいや、早くお昼食べよ。もう腹減った」
「うん。僕もお腹空いた」
僕は宰斗の隣に座り、お弁当の袋を開ける。
宰斗は今日もコンビニのお弁当を適当に広げ、特に表情を変えずに頬張っていた。
「……宰斗、いつもコンビニのやつだね」
食べながら何となく聞いてみると、宰斗は「あぁ」と感情の無い声で返事をする。
「お母さん、仕事とか忙しいの?」
両親共働きなら、お弁当を作る時間も無いのかもしれない。そう思って、何気なく聞いてしまった。
その問いかけに返事はなく、宰斗は無表情のまま箸を置いてペットボトルの水を飲む。
そして僕の食べかけのお弁当をチラリと見て、にっこり微笑んだ。
「暁那のは、母親の手作り? いつも美味しそうだよね」
「はは……うん。でも、冷凍食品が多いよ? まあ、作ってくれるだけ有り難いんだけど」
自分が聞かれると何故か急に恥ずかしくなって、僕は照れ隠しに頭を掻く。
「君は……何の苦悩もなく生きてきたんだろうね」
「……へ?」
突然聞こえた冷たい声に、僕は笑顔のまま固まった。
「……暁那」
ガタッと言う音と共に、宰斗は机に手をついて僕の方へ身を乗り出す。
低く甘い声で囁かれ、思わず避けるように背もたれに体を押し付けた。
「ご、ゴメン! 僕……何か気に障ること」
怒らせてしまったと、僕は慌てて謝罪の言葉を口にする。
それでも、宰斗は更に体を寄せてくる。
「暁那はさ、いつまでこんな友達ごっこするつもりなの?」
(友達、ごっこ?……そっか……宰斗は、ほんとは僕のこと友達とも思ってなかったのか)
冷たく嘲笑うような言葉に、自然と目に涙が溜まった。
「ふふ、泣かないでよ……本当は違うんでしょ?」
「……え?」
質問の意図が理解できずに宰斗を見ると、彼は熱っぽい瞳で僕の目を見つめていた。
「ほら……どう思ってるの? 俺のこと。言ってみなよ……ほら」
まるで悪魔の囁きのような言葉と、同じ歳とは思えない色気のある表情。
激しい動揺と胸の高鳴りを感じて、僕は混乱の中、ボロボロと溢れる涙を止められなかった。
「……す、好き……僕は、宰斗の事が……好きです」
もうわけがわからなくて、涙と共に言葉が溢れ出る。
すると宰斗は嬉しそうに口角を上げ、僕の体を強く抱き締めた。
「良く頑張ったね、暁那……俺も、同じ気持ちだよ」
ゆっくりと髪を撫でるように囁かれ、胸の鼓動は爆発しそうなほどに速く、締め付けるような甘い痛みが走る。
目が眩むような事態に、僕はただ夢中で彼の背中にしがみついていた。
◇
だんだんと夏服の生徒が増えて、汗ばむ日が続き始める。
夏の始まりを感じる頃、僕と宰斗は付き合うことになった。
女の子に興味が無いのかは、自分でもまだわからない。
けれど、こんな風に誰かの事を想って、胸が苦しくなるのは初めての事だった。
いつから彼の事を好きになっていたんだろう。
優等生の彼を認知した時、初めて話をした時、それとも……彼に触れられた時?
理由はどうあれ、こうして付き合うようになったからには、僕は男の人が好きなんだと思う。
彼に会うことで興奮する心と体を感じる度に、それを強く自覚していった。
「どうしたの? ボーッとして」
ある日の昼休み。
僕と宰斗は机を挟んで座り、いつものように生徒会室で過ごす。
ご飯の後、分厚い本のページをめくる宰斗の手を、僕はぼんやり見つめていた。
「え? ううん、何でも……今日暑いなーって」
本に目をやりながら話す宰斗に驚いて、僕は適当な事を言って誤魔化した。
「……ほんとだ、汗かいてる」
宰斗はじっと僕を見ると、手を伸ばして首筋の汗を拭う。
「やっ……」
突然の事に体がびくつき、宰斗に触れられたところが熱くなっていく。
「俺に触られるの、嫌?」
宰斗は妖しく微笑みながら、僕の首や頬に指を滑らせる。
「そ、そうじゃない、けど……」
身体中が熱くゾワゾワとする感覚に耐えきれず、僕は固く目を瞑った。
「ふふ、暁那はこういうの慣れないねぇ。ま、反応してくれる方が楽しいけど」
そう言って面白そうに笑いながら、宰斗は触れていた手をパッと離した。
さっきまで落ち着かなかったのに、宰斗の手が離れた途端、急に心がヒヤリと寒くなるような淋しさが襲う。
そして気がつくと、また本をめくろうとする宰斗の手に自分の手を重ねていた。
「ごめん宰斗……ほんとに、嫌じゃないんだ」
繋ぎ止めるように宰斗を見つめると、彼は一瞬真顔でこっちを見返し、ニヤリと悪そうな顔で微笑んだ。
「……ねぇ、もうちょっとこっち来て」
人差し指をくいっと動かし、宰斗はまるでペットみたいに僕を呼ぶ。
こういう時の宰斗の瞳は、まるで獲物を狙うライオンの様で、僕はそれに抗うことが出来なくなる。
目を逸らしながら身を乗り出すと、宰斗は僕の頭を強く寄せて唇を重ねた。
「ん……」
緊張で息が止まりそうな時、鼻をくすぐるのは宰斗の香水のような匂い。
じんわりと蒸し暑い室内で、それはくらくらと僕の心と頭の中を支配していった。
宰斗は、誰にでも優しい。
けれど時々意地悪で、冷たい顔をするんだ。
その日の夜、スマホにメッセージが届いた。
『明日から、しばらく生徒会室に行けなくなった。テスト前だから、クラスのやつが勉強教えて欲しいって』
『そっか。残念だけど、わかった。大変そうだけど、頑張ってね』
返信を終えて、机の上にだらりと倒れこむ。
僕はじっとスマホを見つめたまま、長いため息を吐いた。
「……テストが終われば、また会えるよね」
メッセージに打てなかった言葉を呟くと、なんだかとても虚しくなった。
◇
ここ1ヶ月程、生徒会室に入り浸っていたせいか、昼休みをクラスで過ごすのに抵抗があった。
友人と一緒に過ごそうと思ったけれど、何となく言い出しづらくて、僕はいつものようにお弁当を持って教室を出た。
屋上に行こうと階段を昇ると、扉には立ち入り禁止の札がかかっている。
もしかしてと思ったけれど、やっぱり鍵はかかっていた。
仕方なく階段に腰掛けて、僕はそこで休憩することにした。
少し埃っぽい匂いだけど、人気もなく意外と静かで落ち着く。
けれどやっぱり宰斗の事が恋しくて、僕はスマホを手にメッセージを送る。
『やっぱり、会いたいな』
忙しいのか、宰斗からの返事はなかった。
それから宰斗からのメッセージは徐々に減っていき、テスト期間が終わっても、昼休みに会うことはなくなった。
しかしたまに唐突に連絡が来て、夜に近所の公園へ誘われるようになる。
◇
最初は喜んで会いに行ったけれど、行為が終わるとすぐに別れるのがパターン化して、だんだん嫌でもそのために呼ばれている事は理解できた。
「おかえり。あれ? コンビニ行ったんじゃないの?」
「あ……買いたのが無くて。汗かいたから、シャワーだけ浴びて良い?」
「えぇ、いいけど」
不思議そうな顔の母さんを尻目に、僕は急いで浴室に逃げ込んだ。
頭からシャワーを浴びると、理由もなく苦しくて涙が出る。
(どうして……こんなに息苦しいんだろう)
うっすらと青くうっ血した手首は、今はほとんど痛みを感じない。
けれどそこに触れると、胸がチクリと痛くなった。
◇
夏休みまであと数日になった頃、僕は放課後に宰斗のクラスへ足を運ぶ。
たまには、自分から誘ってみよう。
一緒に帰ろうって声をかければ、また前みたいに穏やかな日々が戻ってくるかもしれない。
うじうじと悩む日々の中、それが僕の出した結論だった。
けれどそれが間違いだったと、すぐに気付かされることになる。
『あいつマジ重いわー!』
『まさかあの優等生が男が好きなんてよ。話のネタにサイコーじゃん』
『面白いから付き合ったけど、チャットも鬼多いし、女と遊べねぇし。そろそろ切ろっかなー』
教室から洩れる聞きなれた声は、紛れもなく宰斗の声。
けれど、どの言葉も彼から想像できないほどに汚く、卑劣な内容だった。
僕はドアにかけていた手をそっと外し、ふらふらと教室を後にした。
「暁那ー、晩御飯は?」
階段の下から母さんの声が聞こえたけれど、とても返事は出来なかった。
こんな泣き腫らした顔で、母さんの前に行けるはずがない。
帰ってから部屋に籠り、僕はベッドの上に丸まっていた。
もう、彼に会うのが怖い。
あの優しい笑顔の裏で、あんなことを思っていたなんて。
どうして……気付けなかったんだろう。
宰斗の本心を知ってから、思い出の中の彼の笑顔すらも恐ろしく、怖くなった。
自分の気持ちの限界に気付いて、僕はスマホを手にし、震える指でメッセージを打つ。
『ごめん、もう別れて欲しい』
たった一言。それが精一杯だった。
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