第8話 愛しい人の名前


――――

 

 たまたま、同じ苗字なだけかもしれない。

 優秀で、人当たりの良い性格。いくら同じ名前でも、そんな人きっと他にもいる。

 それなのに、頭がどうしても彼に結び付ける。

 誰に対しても気さくで、明るく優しかった宰斗。けれどその裏の顔は、狡猾で、人を弄び愉しむような性格だった。

 海星のそばに、宰斗がいることが怖い。

 宰斗に近づかないでほしい。彼の、残酷な心に触れないでほしい。


――――


 海星との通話を切った後、暁那はベッドに腰かけたまま荒い呼吸を整える。

 来栖の名前を耳にした事で、意識せずとも過去のトラウマは鮮明に甦り、まるでループ動画のように再生された。


 それと同時に込み上げる吐き気。暁那は口を覆い洗面所に走る。

 口を漱ぎ、鏡を見上げると、伸びきった前髪からは病人のような青白い顔が覗いていた。


「……ひどい顔」


 暁那は力なく呟き、汚物でも洗い流すように何度も水で顔を擦った。

 

 ◇


 翌日、帰りのホームルームでは担任の馬場と宰斗が教壇に立つ。

 ほとんどの生徒が2人に注目して話を聞く中、海星は一人上の空で、頬杖をついて窓の外を眺めていた。 


「ということで、来週の水曜日には数学の小テストを行いたいと思います。基本的に僕の授業の内容になりますので、それまで皆さん、居眠りなどしないよう真面目に聞いてくださいね」


 短いホームルームで小テストの告知をし、宰斗は爽やかな笑顔でニッコリと微笑んだ。

「はぁい」とダルそうに返事をする男子生徒とは対照的に、女子生徒は黄色い歓声をあげて騒いでいた。


 宰斗はざっと教室内を見渡し、一人外を眺める海星を見つける。


「相沢さん、大丈夫ですか?」

「えっ……あ、すみません」

 突然声をかけられ、海星はハッとして謝り姿勢を正す。


「ふふ、早く帰りたいですよね。話が長くなってすみません。繰り返しますが、来週水曜日は数学の小テストを行いますので、皆さん頑張ってくださいね。それでは、馬場先生に代わります」

 宰斗は話を聞いていなかった海星のために、連絡事項を繰り返す。

 海星はその姿を訝しげな表情で見つめていた。


 (……昨日、アキは来栖先生の名前を聞いてから様子がおかしくなった。先生もアキも、ここの卒業生……年も同じだし、何か関わりがあったのか)


 難しい顔で見つめる海星の視線に気付き、宰斗は話をする馬場の隣からニッコリと微笑む。

 海星は一瞬目を丸くすると、あからさまに目線を逸らした。


 その後、ホームルームが終わり、海星は暁那のアパートへ向かうため急ぎ足で昇降口へ向かう。

 雑に靴を放り投げ出ていこうとした瞬間、ある声が海星を呼び止める。


「相沢さん、ちょっといい?」


 ピクッと体を強ばらせ、海星はゆっくりと振り返った。

「来栖先生……何か、用ですか?」

 海星の警戒するような表情を見て、宰斗は困ったような笑みを浮かべる。

 

「ごめん、急に声をかけて。今日、少し元気が無いように見えたから、ちょっと気になって」

「別に、何でも……ちょっと、バイトで疲れてただけです」

 海星は目を剃らし、誤魔化すように頭を掻いた。

 

「そっか、ここバイトOKになったんだっけ。学業との両立ってなかなか大変でしょ? あまり無理しないようにね」

「あ、はい」

「じゃあ、また明日。何かあれば、いつでも相談してね」

 それだけ言うと、宰斗は軽く手を振り去っていった。

 海星は呆気にとられたような表情で会釈を返し、しばらく彼の後ろ姿を目で追った。


「何だったんだろう……けど、案外悪い先生じゃない、のかも」


 授業の進行も上手く、すぐにクラスメイトの顔と名前を把握して、様子がおかしい生徒を気にかける。

 優秀ながら、それを鼻に掛けない気さくさ。

 初日から宰斗の態度に違和感を覚えていた海星だが、彼と接する中でその思いは揺らぎだしていた。


 ◇


 辺りがすっかり薄暗くなった頃、海星はスーパーの袋を手に暁那の部屋のインターホンを鳴らす。

 

「……カイ、いらっしゃい」

「へへ、お邪魔します」


 暁那は伏し目がちにゆっくりと玄関を開け、海星を迎え入れた。

「てゆーか寒っ! アキ、暖房くらいつけなって、風邪引くよ?」

 まるで外と変わらない寒さの部屋に文句を言いつつ、海星はエアコンのスイッチを入れる。

「ご、ごめん」

 いつものよれたスウェット姿で申し訳なさそうに立ち尽くす暁那に、海星は困り顔でため息をもらす。


「もう、俺の心配はするくせに、アキも風邪引かないようにしなきゃダメじゃん。しかも、裸足だし……」

 ジトッとした目で足元を見られ、暁那はいたたまれなくなってペタンとその場に座り込んだ。


「ふっ、まいいや。今日も鍋だけどいいよね? 母さん夜勤だからさ、俺も一緒に食べてくよ」

「ありがと……あ、僕も手伝う」

 袋から野菜を取り出し、台所に立つ海星の背中を見て、暁那は誘われるように立ち上がる。

 一度口にしたせいか、「手伝う」と言う言葉は意外にもすんなりと出るようになった。

 海星はそんな彼を見て、嬉しそうに微笑んでいた。

 

「うん! じゃあ、アキは長ネギ切ってよ。キッチンバサミでやると簡単だから」

「う、うん。やってみる」

 海星にハサミと長ネギを渡され、暁那は慣れない手付きで下準備を手伝い始めた。


 静かな部屋に、トントンと心地いい音が響く。

 包丁を持つ手付きもすっかり様になってきた海星は、手際よく白菜や人参などを刻んでいく。

 暁那は思わず自分の手を止め、それに見惚れていた。


「よし! あとは蓋して待つだけだ……ってアキ、まだやってたの?」  

「へ? あ、ごめん……カイ、切るの上手いから見惚れちゃって」

「そ、そう? へへ、照れるな」

 突然褒められたことで、海星は顔を赤くし、包丁を持ったまま頭を掻こうとする。

 

「カイっ、危ないよ?」

「え? あ、ヤベ!」

 あたふたした暁那に声をかけられ、海星は慌てて包丁を置いて苦笑いを浮かべた。

 その慌てた姿を見て、暁那はクスクスと小さく笑った。


 ◇


「……はぁ、食った食った。この豆乳鍋の素って美味しいよねぇ。ハマりそうかも」

「うん、美味しかった」

 満足そうにお腹を擦る海星を、暁那は温かい目で見つめる。


 海星はドスンと横になり、クッションを抱えて体を丸めた。

 まるで子供のような姿に、暁那は昔の事を思い出していた。


「……カイ、昔もよくそうやって、僕のベッドに寝転がってたね」

 話をする暁那の顔は穏やかで、いつもの暗い雰囲気はなかった。

「はは、そうかも。せっかくアキの部屋にいたのに、ゲームばっかして……もったいない事したな」

「え?」

 小さな声で呟いた最後の言葉が聞こえず、暁那は不思議そうに海星を見つめる。

 海星はキョトンとした表情の暁那をじっと見つめ返し、寝転がったまま暁那の元へにじり寄る。


「ちょ、ちょっとっ、カイ?」

「ふふん、膝枕……あの頃も、ゲームばっかしてないで、もっとこうしてれば良かった」

 海星の大きな瞳に見つめられ、暁那は困惑したように両手を挙げて固まっていた。

 すると海星は、ふと寂しそうに目を逸らす。

 

「……ごめん、嫌だった?」

「や、そうじゃ、ないけど」

「けど?」

「は、恥ずかしい」


 耳まで赤くした暁那の顔を、海星は目を細めて幸せそうに見つめた。

「顔、真っ赤か……ふふ、もう少しこのままでいよーっと」

「もぉ……カイってば」

 海星は暁那の太ももに頭を置いたまま、赤ん坊のように体を丸めた。

 暁那は顔を赤くしたまま、困ったように小さく微笑んでいた。


 そして数分後。

 そのまま動くことも出来ず、しばらく海星を見つめていた暁那の耳に、スースーと寝息のような息遣いが聞こえ始める。

「え、もしかして……寝てる?」

 海星の顔を覗き込むと、目を閉じて時折モゴモゴと口を動かしていた。

 寝息と共にコリコリと歯の音も聞こえだし、完全に眠ってしまった海星に、暁那は驚きと困惑の色を浮かべる。


「うぅ……動けない」

 暁那は額に手を当て、天井を見上げ深いため息を吐いた。

「ん……アキ……」

 モゾッと体を動かし、海星は甘ったるい声で呟く。

 その声に応じるように、暁那は海星の寝顔を熱を帯びた瞳で見つめた。

 

「寝てるときまで、僕の事考えてくれてるの?」

 愛おしそうに頬にかかる髪を撫でると、海星はその手にすり寄るように顔を動かした。

 その反応に、暁那の心臓は跳ね上がるように脈打つ。


「……カイ……カイは、いつまでそばにいてくれるの?……ずっと、そのままでいてくれるの?」


 消え入りそうな声で呟きながら、暁那はゆっくりと海星の髪を撫で続けていた。

  

 

 

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