第五話 カンニングの暗号①

「――尚、近頃、合否連絡を請け負う業者がいると聞いておりますが、本学とは一切の関係がありません。ご承知おきください」


 一日目の入試は終わる。牧田先生の声が響き渡ると同時に、徐々に教室の空気が柔らかくなっていくのが肌で感じられた。

 僕は気付かれないようにふっと息をついた。何事もなく――、一日目は終わりを迎えたと言っていい。トラブルはあった。謎もあった。しかし、やり遂げることはできた。

 答案用紙を回収していき、枚数を数えた。牧田先生が最終確認を終えると、一日目の監督補助としての役割は終わった。

 教室から出た瞬間、凍えた空気が身体を吹き抜けた。少しだけ鳥肌が立った。

 行きと帰りに比べて、荷物の量はぐっと減った。腕にのしかかる重さもどこか物足りない。僕と喜多は六号館までの道のりを歩く。

 僕は喜多を横目で見た。凛とした姿に隠れる凄惨な事件。落とし込むような影に僕は意識を奪われていた。

 かつて起きたという女子高生殺人事件。その被害者、喜多春乃。それほど話したわけではない。それでも僕は感じ取れてしまう。喜多と妹の間には言い知れぬ因縁があったのではないか。

 六号館にて、牧田先生と別れた。


「今日はご苦労様です。明日もまた頑張ってくださいね」


 どうやら牧田先生は二日目に参加する予定ではないようだった。僕達は軽いやり取りを交わし、牧田先生のもとを離れた。

 エレベータに乗り、五階へと上がっていく。どこからか、ほっと息をつく音が生まれる。


「……終わったね」


 喜多の言葉に僕は頷いた。


「はい、終わりました」


 五階に到着する。僕は開閉ボタンを押し、喜多に先を促した。喜多はふっと笑みを綻ばせ、言った。


「お疲れ様、比嘉君」


 待機室には監督補助や見回りがぞろぞろと集まり始めていた。

 僕は喜多から離れ、ニシと合流した。ニシはくたびれ果てたかのように椅子に座り込んでいる。僕に気付くと、おぉ、と手を挙げた。


「お疲れさん」

「お疲れ。ペアの子……四方さんはどうだった?」


 ニシはくくっ、と苦笑いを浮かべた。曖昧に首をひねる。


「まあ不貞腐れてはいたね。キタさんの話が効いたのか、真面目にやっちゃあいたけど」

「そう」


 僕は四方香苗の姿を探そうとしたが辞めた。詮無きことだ。ニシにはニシなりに苦労したことがあったらしい。僕達は互いに愚痴をこぼしながら時間を過ごした。

 受験生が捌けた後に、一日目の最後の仕事が残っている。スタッフが待機室に姿を現すと指示を出し始めた。


「これから片付けと二日目の準備を行います。ひとまず、アルバイトの方達は一号館に向かってください」


 僕とニシは重い腰を上げた。待機室に流れていく人混みに僕達は紛れていく。スタッフの顔がよく見えた。疲労の色も濃い。僕自身もそうだったに違いない。明日も似たようなことが続くのか、と思うと辟易する気持ちも正直あった。

 似たようなこと。入試だからこそ起きてしまった数々の事件。あれは、二日目にも起きてしまうのだろうか。

 この入試アルバイトを経て、僕は僕自身に問いかけられているように思えた。M大学を一年間過ごし、いつから受験生の時だった気持ちを、記憶を、熱を忘れてしまったのだろうか。積もる雪に対して目を向けなくなったのか。

 喜多の鋭い推理力は時に僕を揺るがした。僕自身の向き合い方。僕はそれを、推理しているのかもしれない。

 多分、僕は。

 もっと本気で何かに向き合いたいのだ。

 エレベータを待っている間、一人思考の海に潜り込んでいた。そのためか、ニシが僕の耳元に近づけていたことに気付けなかった。


「なあ、ヒガシ」


 唐突の声にびくりと肩を揺らす。変に吐息が耳に当たり気持ち悪い。


「お、わりいわりい」


 全く悪びれていない口調で彼は笑う。そのまま秘密ごとを口にした。


「このまま片付け、サボらね?」

「もう一踏ん張りだけどね」


 エレベータが来たことで一度密会は中断する。窮屈な箱は降る中、ニシは期待の目を僕に向けていた。

 一階に到着し、僕達は外に出る。彼はすかさず話を再開した。


「流石に怠いし、これくらいのにんずうがいるんだ。サボってもバレないだろ。――ほら、四号館とか行って時間を潰すのもアリだ」

「流石に周りに申し訳ないよ」

「なぁに、ちょっとのことだ。男は度胸だ。赤信号は皆で渡れば怖くないぜ」

「けどなぁ……」

「――あら、二人ともサボるの?」


 僕達に割って入ったのは喜多だった。僕は咄嗟に苦笑いを浮かべ、ニシは露骨にうおっ、と声を上げた。


「あ、ああ。キタさん」

「仁志君。サボるのは感心しないよ」

「い、いやだなぁ。もちろん、働く気満々でしたよ」

「そう? じゃあたくさん働いてもらおうかな」


 ニシの表情が引き攣った。墓穴を掘ったな、助けはしないけど。ニシは大袈裟気味に肩を落とし、一号館へ向かった。


  ◇

 

 入試の片付けと準備、とは言っても掃除をするわけではない。M大学は掃除に関しては業者を手配している。

 主な片付けとは、試験教室の整備である。落とし物はないか。机に落書きはないか。備品は壊れていないか。そういった細かな点を一つ一つずつ確認していく。

 確認をし終えた机には消毒をしていく。各教室に分けられたスタッフはそれぞれの役割のもと、仕事を行っていく。偶然ではあろう、僕とニシ、喜多は同じ教室に割り振られることになった。

 大教室である。

 正面から見た大教室はずらりと机が並んでいる。大教室は構造上、勾配になっているので山のように机が積み重なるように映る。


「うへぇ……」


 ニシは仕事内容に呻いた。彼の手にはチリ紙が握られている。確認を終えた備品をひたすら拭く作業を当てられていた。同情はしない。

 対する僕は机にある消しカスをひたすら床に捨てる役割だ。この消しカス自体は業者が掃除してくれるので問題ない。


「喜多さんはなんでした?」


 僕が尋ねると彼女は手にしたものを上げた。消毒用スプレーだ。


「ひたすら机に蒔く係」

「なるほど」


 僕が消しカスを払った後、喜多は消毒をかけることになる。仕事を分割し、限りなく効率化を図るのがM大学の方針だった。

 机は三列分ある。僕は窓側の一列を任された。早速最前列の机を確認した。こうして見ると、机中に散乱していたり、一箇所にまとめられていたり、個々の性格が出ていた。小さな隙間に挟まっている消しカスを取り出すのはひと手間がかかる。案外、楽な仕事ではなかった。

 ここで仕事としての楽しみを見い出す必要はない。歯車の一部として確認、払う、時には取り出すを繰り返すだけ。僕は無心に机を払い続けた。その後、喜多がスプレーを机にかける。

 払い続けていくと手がヒリヒリとしてきた。掌の表面が擦れて熱を帯びている。鉛筆の粉が手を黒くした。

 サッ、……シュッ、サッ、……シュッ。定期的な音が連なっていく。

 それを見つけたのは、大教室の半分を過ぎた頃だったか。払った後にやって来るスプレーの音が聞こえなかった。僕は喜多に目を向けていた。喜多は僕へ……、いや、机に視線を落としていた。


「……それ?」

「ん?」


 机の表面にあった点々とした黒点。払い残り、僕達に不安感を掻き立てた。喜多はぽつりと洩らした。


「なんだろう、それ?」

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