咲宗也編
「先生こんにちは」
「宗也くん、いつもありがとうね。師も喜んでるよ」
先生とは師の父親である。俺はこの人を尊敬して、いつもこう呼んでいる。優しい顔と、まだ四十くらいなのに、もっさり生えた白い髭がサンタクロースみたいだった。病室には俺の親友が眠っていた。別々の中学に行っても、親交を失わないでいたが、まさか、こんなことになるなんて思わなかった。師は何も言ってくれなかったし。こっちから話せば相談してくれただろうか。
「そういえば美幸ちゃんも中学生か。同じところなの?」
「ゆきは女子校です」
「そう。うちのお母さんもね、女子校だったんだよ」
俺が先生と出会ったのは遥か昔、幼稚園生の時、師は両親が忙しいのでよく俺たちのうちに預けられていた。いつもは母親が迎えにきていたけれど、その時は先生が迎えにきていた。その時に、彼が精神科医だと知った。その時はどんな医者かわからなかった。しかし、俺が十歳の時、弟が死産になった。産院から帰ってきた母親は、毎日泣き叫ぶようになり、家のことができなくなり、日常生活も送れなくなった。元からそのような発作は抱えていたけれど、あの時は特に酷かった。堪りかねた父親が先生に相談したのだ。先生は母の話をよく聞いて、大学病院の精神科に紹介状を書いてくれた。その時まで俺たちは、母が病気なのかすら分からないでいた。治療を受けた母はみるみるうちに回復して、平穏を取り戻した。結婚してから辞めていた仕事もできるようになった。俺はそれを見て、先生を慕うようになったのだ。
親友は数日前に事故を起こした。学校の家庭科室で”彼”と一緒に卓上醤油を一気飲みして、意識不明の重体で運ばれてきた。隣のベッドは空だ。今は師だけがこの病室で眠っている。学校では行きすぎた悪ふざけとして処理されているらしい。これから学校では、親友は悪ふざけで人を殺したということになるのだろう。師がそんなことをする人間じゃないのは俺がよく分かっている。先生だって分かっている。師は馬鹿みたいに優しいから、優しすぎて身を滅ぼす可能性は十分にあった。これが事故じゃなくて、心中ということくらい、俺には嫌というほど分かる。俺はその時、”取られた”と思った。そして、師が命を賭して救おうとした”彼”を、激しく恨んだ。幸いなことに、親友は峠を乗り越えて今は穏やかに眠っている。
「師は・・・・」
「・・・・」
ベッドの向こう側にいる先生がこちらに顔を起こした
「彼がそんなに大切だったんでしょうか」
「・・・・う〜ん・・・・」
先生はしばらく考え込んでいた。そしてまた顔を起こした。
「誰にでもこんな感じだと思うな」
しばらく瞬きが止まった。先生は落ち着いた口調で話していた。適当なことを言っている様子ではなかった。
「多分、宗也くんが相手でも同じことをしたよ」
「いいんですか。そんなこと・・・・」
「少なくとも、この子にとってはそうなんだよ」
俺は親友を挟んで先生の向かい側に座った。顔を覗き込んだ。それならずっと、このままで良いのに。通った高い鼻、丸みのある口角、目を開くと、くりくりと潤いを持った二つの瞳が並ぶ。ボーダーコリーみたいな愛らしい顔を見れなくなったとしても。
「生きてさえいればよかったんだよ」
今度は俺が顔を上げた。
「子供は、食べて遊んで寝ることが仕事だって、うちのお母さんが言ってたけど」
先生がそっと親友の頬を裏手で撫でる。
「この子には道徳を教えすぎたかな」
その手は本当に愛おしそうに動かされた。
「お母さんにもね、怒られたんだよ」
穏やかに、俺を安心させたいのか少しだけ調子を崩してみせた。
「まさか、この子が、本物の、天使になるとは、思わなかったんだよ」
少しだけ後悔の念を込めて一言一言区切って言っていた。
「きっと師は大人になっても天使のままですよ」
言葉がついと出た。先生はそれを見つめて、穏やかに笑った。
「宗也くんは、心と頭で揺らめいているね」
心と頭、突然言われた言葉だが、俺はその意味がすぐに分かった。
「ええ、きっと師がいなかったら頭だけになっていたでしょう」
「宗也くんの心は今なんて言っているの?」
「憎らしいって言っています」
先生の前ではどうしても嘘をつけなかった。俺は向こうのもぬけの殻になったベッドを見た。
「でも先生が、師は誰にでもそういう事をするっておっしゃってくれてから、変わりました」
俺は毅然とした態度で先生を見つめた。先生の穏やかな顔は変わらなかった。ちゃんと伝わってないな。
「俺、先生みたいになりたいです」
「・・・・・・」
先生は黙って俺を見つめていた。俺の心臓はなぜか落ち着いていた。しばらくの沈黙の後、先生が口を開いた。
「精神科医はね、思想を持っちゃいけないんだ」
思想・・・・。俺は黙って先生の言葉に耳を傾けた。
「もともと医者というものは、たくさんの人と話す。そこで、たくさんの人の主義思想にぶつかる。でもそれを正そうなんて思っちゃいけないんだよ。確かに、患者が自らを傷つけようとしているときには止めなくちゃいけない。でもそれはあくまで病気によって認知が歪んでいるのであって、患者の本心じゃないんだ。精神科医が手をかけるのはあくまでその歪みだけ、それ以外で患者を縛ってはいけないんだよ」
先生は自分の心に言い聞かせるかのように俺に話していた。
「他人の縄でも自分の縄でもそれが絡まったら身動きが取れなくなるだろう。それを解いて、自由にしてやるんだ。自由っていうのはね、本当に素晴らしいものだよ。自由はいつだって苦しみを携えているけれど、でもね、絶対に守らなくちゃいけないんだ。頭が自由になったって、心が自由じゃなきゃ意味ないんだ。頭の自由が心の自由を締め付ける時がある。人はどうしたって心を乗り越えることはできないんだよ。心こそ、僕たちが日々祈るその何かなんだよ。心こそ神様なんだ。神様を縛り付けるなんて罰当たりだろう? 心が指し示すものを選択することこそ、本当の自由なんだ。それじゃあ、心に縛られていることになるじゃないかと思うかもしれない。でも違うんだよ。その縄は、命そのものなんだ。絶対に解いちゃいけない、解けるはずもないものなんだ。最近、精神病は心の病気じゃなくて脳の病気だと言われているけれど、僕はそうは思わない。僕はね自分のことを心のお医者さんだと思っているよ。ふふ、医者が神様なんて言葉を使うのはおかしいかな」
「いえ、おかしくありません!」
俺は椅子から身を乗り出していた。
「俺は・・俺は・・。ゆきや母さんを守りたい。師だって。だから、そのためなら、閉じ込めたっていいと思ってた。でも、それじゃダメなんだ。ゆきや母さんたちの中にも神様がいる。俺はそれを見つけて、ゆきたちがそれを見失った時に、ここにいるよって、教えてあげたい。でも、師は自分の神様を信じて、勝手にどこかへ行っちゃう。俺は、それが怖い。師の神様を縛り付けたくなんかないけど、でも・・」
「それが宗也くんの心なんだよ」
俺ははっとした。先生は相変わらず穏やかだった。
「神様を縛ることはできない、でも、手を繋ぐことはできるよ。お互いの心を思い合えば、きっと・・」
「俺の・・神様・・」
俺は自分の胸に手を当てた。鼓動が高く波打っている。全身が熱くなった。
「先生」
俺は椅子から立ち上がって先生を見つめた。先生が目を合わせてくれた。
「俺、まだ別の心があるんです」
俺は親友の左手を取った。先生が不思議そうな顔をしてその光景を見る。
俺はそのまま前に屈んで、薬指に口を付けた。口を離して先生の方を見ると、先生は目を見開いて驚いた表情をしていた。
「俺、きっと、やってみせますからね」
「・・・・・」
俺は意気込んだ顔で先生を見つめていた。先生はしばらく黙った後、にっこりと微笑んだ。
「宗也くんなら安心だなぁ」
俺は病院から出た後、堤防の上にあるアスファルトの道を走りに走った。言っちゃった! 言っちゃった! ゆきにも母さんにも、父さんにさえ言ってないのに! こんなに心臓がバクバクするのは、走っているせいなのか、さっきの出来事のせいなのか分からなかった。明日も病院に行こう。そして、師が目覚めたら、またゆきたちと一緒に遊んで、お祭りにも行って、大人になってもずっと、手を繋いでいようって、いつか言ってやる。川は秋の夕暮れを反射して真っ赤に輝いていた。まるで紅葉が浮かんだ龍田川のようだった。
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