浅瀬の夢ー杙勝編
高校のころ、色々な部活をうろうろとしていたが、文芸部には専ら遊びに行っているようなものだった。過去の部誌を読んだり、藤沢の書いた新作を読んだり。藤沢明(ふじさわあきら)。彼は、なんというか、気違いの素質があった。上背は僕と同じくらい。でも痩せていた。痩せていたが着膨れしているのではっきりとはわからない。しかし、不健康な痩せ方である。前髪は切りそろえて横は姫カット、中性的な少々柄の悪い髪型。しかし、彼は卒業まで皆勤を維持していた。課題もしっかり出すし、試験はぎりぎり赤点を取らないくらいに調整していた。友達も少ないがいたようで、見た目以外は普通の学生と言ってよかった。あくまで教師たちの評価では。彼の狂気はその文学と思想にあった。僕はそれを一番に読んで、ほくそ笑むのであった。
「今日のはどうだった?」
「処女の女学生が書いたみたいな文章だね」
「そういう、総合評価じゃなくて、受け取ったメッセージとかさ」
「君はぬいぐるみで、月で生まれて、誰よりもかわいくて、美しいってことかい?」
「なんだ、伝わってるのか」
「でも、それを認めてくれる人がいない」
「そうだね」
「だから、戦って、昇りつめて、そいつら全員を愛して、君が神になるってことだね」
「そう」
「はははは、傑作だ」
「そうやって馬鹿にするー」
彼は悲しそうな顔をした。
「いや、藤沢、君は天才だよ。天才過ぎて理解できないだけさ」
「それならいいけど」
僕は、Wordが開かれたノートパソコンを彼に返した。
「このあとカラオケ行かない?」
「いや、僕は門限があるから」
「そうだったわ、お互い大変だねー」
「君はくれぐれも親殺しなんて起こすなよ」
「そんなことしないよ。人殺しなんてしたら美しくなれない」
「じゃあまた明日」
「じゃあね、杙さん」
僕の母は賢い。僕が欺瞞を使えないほどに。それだけでなく、家庭教師ともその哲学が合うようで、彼らは十年来の親友である。いや、もう親友という枠にはないのかもしれない。だからといって怪しい関係というわけでもない。まあ、これは家庭教師の気が弱いのと、母が彼に対して若干の嫌悪を抱いている故である。家は広いので、通いの手伝いがいる。母は、たまに祖父の経営に参加するときがある。その時は家を手伝いに任せている。母は、経営面でも敏腕なようで彼女が口出しをすると利益が上がるそうだ。僕は仕事をしている母を見たことはないが、たまに顔をのぞかせる祖父が教えてくれる。祖父は、僕を跡継ぎにしたいようだが、母が止めている。
「あの会社はもう時間の問題ね」
おそらくこの理由で。
僕は玄関にいた。
「おかえりなさい。勝さん」
手伝いが掃除をしながら挨拶をした。
「お荷物運びますよ」
「いや、いいです」
僕は自分の部屋に直行した。年を召した婦人は何か言いたげに僕の背中を目で追いかけていた。リュックを置いたら、洗面台まで行って手と顔を洗った。母に躾けられた習慣である。
「ちょっと勝」
「はい」
「あなた最近帰るのが遅いわ。完全下校の時間までずっと学校にいたでしょう」
「部活ですよ。なにかおかしいですか」
「部活・・・・ね、まあ、あなたのことだから、部活で勉強が疎かになる心配はしていないけれど。まさか、悪い友達でも作っていないでしょうね」
「あそこは、歴史ある伝統的な男子校ですよ。不良がいるなんてありえない」
「あなたが、内部進学をしないで受験するって言いだしたときから、お母さん心配なのよ。その・・・・あの・・・・。とにかくくれぐれも門限は破らないように」
「わかりましたよ」
母は、確実に懸念を残しつつもそれ以上は問い詰めないようにして去っていった。まあ、母の気持ちはわかる。今まで従順だった息子がちらりと反抗の兆しを示したのだ。そのままやくざにでもなったら、母の努力は水の泡である。母は、僕に自由に生きてほしいのか従順であってほしいのか曖昧である。つまり、ちょうどいい塩梅で生きてほしいということだろう。正直、母の尋問にはひやりとするところがある。その日の夕食は、手伝いの作り置きを温めて、一人で食べた。
「勝ー」
「・・・・」
「最近運動部に顔出さないと思ったら、そこにいたんすか」
「君は、暇なんですか?」
「俺は、忙しいっすよ、君を追いかけるので」
穂高である。一年の最初の方で隣の席になってから付きまとってくる。僕の部活も把握して同じようにふらふらしている。僕との違いといえば、よくしゃべって友達が多いところだろうか。
「穂高さん」
「こんちわっす藤沢さん。またなんか書いてるんすか」
「そうだよ、文化祭が近いからね。よかったら読む?」
「いや、いいっす」
穂高は即答した。
「そういえば、勝。勝のクラスは今年の文化祭、何を企画したんすか」
「今年の二年一組はお化け屋敷ですよ」
「へえ~、杙さんって企画やってんの。すごいね」
「企画になれば、好き放題できるからね」
「勝は相変わらずホラーが好きっすね」
「バイオハザードのオマージュですよ。今年の新作は感動的でした」
「俺もそれ、実況で見た。プレイしたの?」
「いや、僕も実況さ。プレイしたいけど、ああいうゲームを買ったら・・・・ね?」
藤沢は納得した。穂高はきょとんとしていた。
「じゃあ俺、オカ研に用があるんで、じゃ」
部室を出て行った。
「仲いいよね」
「一方的な感情だよ。僕が美しいとかなんとか言ってさ」
「へえ~、随分お熱いね」
彼は、あまり僕の顔に興味がなかった。だから何となく楽である。いつからだろうか、彼の目が情欲の色を孕むようになったのは。
「健康的な肌してるね」
僕にファンデーションを塗りたくる。
「ならいらないんじゃないのかい」
「そうじゃないよ。地雷メイクは色白が肝心なの」
「君はいつもこれを?」
「出掛ける時はね。見つかったら馬鹿にされるから家ではメイク道具隠してる」
彼は真っ赤なアイシャドウを僕の目の周りに泳がせた。
「はは、髪型が髪型だから合わないな。おろしてみてよ」
「じゃあ櫛貸して」
僕は分けられた髪を下ろした。
「ああ、いい感じ。ちょっといい?」
彼は櫛を受け取って僕の前髪をいじった。
「おー、最高。メロいかも。これで中華系の服着たら、とんでもないことになる」
「それってマフィアじゃないか」
「ほんとはマニキュアもしたいけどねー持ってけなかったわ。あなたなら黒色とか似合いそうなのに」
アイラインとリップをつけて、完成した。
「はあ~、このままプリクラ行きたい。写真撮っていい?」
「誰にも見せないでくれるかい」
「もちろん」
パシャリとスマホの音が鳴った。
「へへ、このまま原宿とか行けたらな」
「ごめんね」
「いや、責めてるわけじゃないんだよ。高校は無理でも、大学生になったら行けるでしょ。いい加減大人だし」
「早く大人になりたい?」
「そりゃ」
「大学生になっても会えるのかな」
「会いたいよ。俺は」
隣の彼は愛おしそうに僕の目を見つめた。僕はその瞳に嫌悪を覚えない程度には、彼に絆されていた。小さな部室はもうだいぶ涼しくなっていた。
「見て」
「なにこれ」
「母さんが仕事先でもらったクソマズグミだよ。ゴムタイヤみたいな味する」
「捨てればいいじゃないか」
「その前にあなたに食べさせたいと思って」
「しょうがないな」
真っ黒なそれをつかんで口に放り込んだ。途端に化学物質じみたにおいがする。
「ふふ、薬みたいな食べ方するね」
「まずい。最悪。本当にゴムタイヤみたいな味する」
「でしょう?」
彼は笑っていた。もう三年の秋である。
「今日も手伝ってくれるの?」
「うん。僕は勉強しなくても平気さ」
「羨ましい頭しやがって」
彼は最近、推薦入試の練習をしていた。彼が目指す図書館学部は、入試の際に自分の好きな本をプレゼンする必要があるそうだ。
「司書になりたいの?」
「表向きはね。本当は今の学校も退学して、バンドと小説家やって生きていきたい」
「そっちのほうが似合ってる」
「でしょ? 俺ってやっぱ退廃的な生活のほうが似合ってるよね」
「でも嫌なんでしょう? 根はまじめだから」
「うん。やっぱ将来に対する危機感は拭えないよ」
「君は退廃的になるには、根本的に気高いじゃないか」
僕はいい加減彼の思想というものを理解していた。
「そう、やっぱ許せないの。誇りがあるから」
二人で図書館に行った。彼は司書と仲が良くて、入試の手伝いもしてもらっていた。司書室は割と広い。防水カバーをつける前の新品の本が積んである。
「杙さんまた来てくれたんだ。受験大丈夫なの?」
「風岡先生こんにちは」
「彼、余裕なんですって。最後の駿台もA判定だったとか」
「あなたどこ受けるの?」
「○○大です」
「へえ~。がんばるねえ。藤沢さん、あなた筆記試験のほうは大丈夫なの?」
「先生たちに添削してもらってます」
「それならいいけど。今日は八時までここ使えるから」
「はい。ありがとうございます」
彼のプレゼンでは、僕らは聞き役だけでなく、質問係もする。主に本に関する質問だ。五分間の質問に、本のあらすじ、感想、作者の情報まで詰めなければいけない。しかし、彼はプレゼン慣れしているようで、四回目の練習の時点ではもうセリフは完成されていた。時間もぴったりである。
「すごいじゃん」
「でしょ?」
彼は親指を顔の前で立ててみせた。
「試験いつだっけ」
「十一月の二十六です」
「で、発表は」
「十二月の十日です。その次の日が僕の誕生日です」
「じゃあ、結果次第で最悪の誕生日になるわけだ」
「・・・・そ、そうですね」
「共通テストはどうするの」
「落ちたら受けます」
受けたくない受けたくないと隣の僕に囁いた。
「受かったらどうするの」
「学校に内緒でバイトします」
「あらそう」
司書は校則については無頓着だった。
「ねえねえねえねえ!」
ぴょこぴょこと廊下を走ってくる大きな男。
「どうだった?」
「受かった! 受かったよ! 四月から△△生!」
「おめでとう」
「この後絶対カラオケ行く! 三か月封印してたから。あなたも行く?」
彼は僕の目を見つめていた。そのあと、気まずそうに目をそらした。
「あ、だめだよね・・・・ごめん」
「いいよ」
彼がこっちを見て目を見開いた。
「大丈夫なの⁉」
「うん。今日は土曜だし、位置情報に関しては・・・・スマホを置いていけばいいよ。母には放課後も勉強してたって言えばいいし」
「やった! やった! 行こ!」
彼は本当に嬉しそうににはしゃいだ。二人で駅前のカラオケバンバンに行った。
「時間は?」
「もちろん、三時間コースでしょ!」
小さなカラオケルームは、電気をつけても薄暗かった。
「カラオケってこんな感じなのか」
「ん、初めて?」
「うん」
「これがタッチパネルで、マイクはここで電源入れるの」
「流石にわかるよ。それくらい」
僕は笑った。彼はそれをニコニコと見つめていた。その色はまだ消えていなかった。
一時間ぐらい経って、少し息切れがしてきたあたり、彼が話した。
「大学生になってもこうして遊べるかな」
「できるさ」
「俺は寮に行くけど、あなたは?」
「僕、一人暮らしするよ。母に頼み込んだんだ。○○大なら実家からでも通えるじゃないと言われたけど。何とか許可を貰えた」
「・・・・すごい」
「これからは原宿も行けるよ」
僕が笑いかけると、彼は目をキラキラさせて頷いた。
「それと君」
「なに?」
「僕のこと好きでしょう」
「へ・・・・」
彼は固まった。わかりやすい男である。
「三分だけ」
「僕のこと好きにしていいよ」
「え・・・・」
彼は目を見開いた。
「三分だけ恋人になってあげる。やるの? やらないの?」
「やります」
彼は即答した。
彼は恐る恐る僕のすぐ隣へ近づいたのち、手を取って、そこにキスをした。その後、額、頬、首、お腹、腰、脛、の順にどんどん口をつけていった。足にもしようとしたが、流石に汚いと思ったのか止めた。口にしないのはわかっていた。彼は僕を恋人にしたくても、愛人にはしたくないからだ。次に、耳元に顔を近づけて、耳の上部分を甘噛みした。最後に、また手を取って、僕の袖を下ろした。手首があらわになる。彼はそこに強く噛みついた。しかし、跡が付くほどではなかった。動機は男性由来の加害欲と言ったところだろうか。彼にもそんなものがあったのか。しかし、流石だ。本当は血がにじむまで噛みつきたかったはずなのに。我慢強い男である。彼のそれは、想像を絶する自助努力の上にあると、僕ははっきりと理解していた。彼は手首に口をつけながら、熱を持った激しい情欲の色で僕の目ををちらりと見た。垂れた目だな・・・・。弾丸に撃たれたようだった。弾丸といっても、砂糖菓子でできた弾丸である。何も言ってくれなくて助かった。この瞳と、いつもの甘ったるい声で、名前を呼ばれでもしたら、頭が熔けるところだった。
静かに僕を抱きしめる。ぎゅうと。力を込め過ぎないように。僕は、抱き返しもしないでされるがままだった。色白な体にしては温かいと思った。たった三分なんだ、それくらいなら監視カメラの先にいる人だって許してくれるだろう。三分間の沈黙は一瞬で過ぎ去った。彼がぱっと手を離すと、おどけたように、
「次の曲行こうか」
と笑ってみせた。もうその瞳に過去の色は消えていた。
「一緒に歌おうよ」
そうして僕らは、“ペリカン号でどこまでも”と“butterfly addiction”を歌った。
「あれ、もう終わり」
彼がスマホの時計を確認した。
「片付けようか」
僕らはマイクとタッチパネルの位置を戻して、コップを持って部屋を出た。
「僕、置いていったスマホを取りに行くから」
「え、一緒に行く!」
そうして二人で、坂道を登っていた。
「俺らって似てるよね」
「そうだね。背は同じくらいだし、本読むし、そしてお互い――」
「「レズが好き」」
顔を見合わせた後笑った。
「でも君は、看護師じゃないし、看護師を必要としないね」
「どういうこと?」
「本当に月の生まれなんだなってこと」
「そうでしょ。俺は月で生まれたし、俺の体はえびてんちゃんなの」
彼はリュックに下がっているえび天の姿をしたぬいぐるみを揺らした。彼は完全に独立した生命体である。彼が信じているのは月の神なのだ。彼のことは本当に友達だと思っている。今でも。
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