十月になった。もうすぐ学祭がある。五月にもあったが僕は初めての大学生活に戸惑ってしっかり楽しめなかった。今度は落ち着いて楽しもうと思う。今日も講義後の教室で大瑠璃くんと斎藤くんで話していた。二人は哲学サークルに入っている。

「僕らは哲学カフェを運営するんだよねー」

「へえー、それ、どんなものなんですか」

「飲み物片手に参加する討論会さ。テーマを決めて進行をするんだぜ。勝吾は見てるだけだけど」

「僕は制の考えが好きだから。それでいいんだ」

「二人は本当に仲良しですねー」

「そうだよ、卒業したらルームシェアするって決めてるんだ」

 大瑠璃くんは元気いっぱいに言った。

「勝吾は実家で飲んだくれの父ちゃんの世話させられてるし、俺は兄弟が多くて家が狭いし、ちょうどいいと思ってさ」

「僕の兄貴ったら、家では横暴でさー。僕のことこき使いやがるんだよ。姉ちゃんとはいがみ合ってるし」

「それはそれは、いつもお疲れ様です」

 僕は微笑んだ。


 十一月になって、学祭一日目が始まった。僕はさっそく、大瑠璃くんたちの哲学カフェへ向かった。そこでは、ちょうど斎藤くんが話そうとしていた。

「みなさん、お忙しい中お集まりいただいてありがとうございます。僕が持ってきたテーマは『許しと無関心』です。今日は、これについて皆さんと話し合いましょう。その前に、僕に最初の意見を言わせてください。僕がこのようなことを考えた理由は、僕の病弱さにあります。僕は昔から体が弱くて、外で遊ぶことも夜更かしすることも制限されていました。小さいころから、したいことができない。僕は諦めることに慣れてしまいました。大人になると、妥協するようになるということがありますが、僕はそれを子供のころから、強制的にされていたのです。現実と折り合いをつけるのではなく、ただ、形式的に許せないことを許すのです。そうして、中学生になったころ、僕は理不尽な先生に怒られます。しかし、僕はそれに対して怒りを覚えるでもなく、無関心でした。自分がどうなろうがどうでもいいと思っていたのです。そのとき、僕は彼の理不尽を許していたと言えるでしょう。もし僕が校長先生で、彼が生徒に同じようなことをしても、怒ることはなかったでしょう。そこで僕は考えました。許しとは、無関心で構成されているのか。ということです。天使は無条件で人類を愛すると言われています。しかし、本当にそんなことはあり得るのでしょうか。もし天使がこの世にいるのだとしたら、愛を持って人を許すのではなく、無関心によって人を許すでしょう。彼らにとっては、善も悪もさほど変わらない。罪を犯した人間と祈った人間の違いになんて関心を持たないでしょう。これは、理不尽やトラウマへの対処に向いていると思いました。過去に犯した罪や、周りの人から受けた傷、それらに対して、どうせ自分は死んでしまうんだからと、無関心を貫くんです。そうすれば、僕らはこの憂鬱な社会を乗り越えられると思うのです。僕の話は終わりです。では、意見がある人は順番にお願いします」

 大瑠璃くんは目を輝かせていた。色々な人が意見を言っていく。僕は端っこでコーヒーを飲みながらそれを聞いていた。人々の話し合いと拍手が続く。隣の人が話し終わった後、僕も口を開いた。

「僕、残念ですけど賛成できません。でも、その考えに至る人の気持ちは痛いほどわかります。僕たちの暮らす国では、義理と人情という言葉がありますが、僕はまるっきりそれを信頼しています。男はつらいよってドラマ、見たことありますか? 僕は寅さんの、あの情に寄り添ってやる性格がたまらなく好きなんです。現代の人が見たら、無駄だとか、正しくないとか、思うかもしれません。寅さん自身がテキ屋ですからね、でも、僕、それでいいと思っているんです。この国には数十年前まで、そのような心があったんです。ここから赦しの話に移りましょう。寅さんの世界の赦しっていうのは、我慢とかじゃないんです。全くしょうがないなあって、むしろ喜んでいるんですよ。最後には泣いて笑って。過去や他人のことは自分ではどうにもなりません、どうにもならないことに無関心になるのは一種の防御本能としては認めます。でもそれは一時の気休めにしかなりません、無関心で得た安心には自由がないんです。自分から目と耳を塞いで、どうやって歩くのでしょう。人間には苦しいと思っても見なければいけない、聞かなければいけないことがある。僕は、それに対して喜びを感じているんです。いいえ、確かに、情けないなあとか馬鹿みたいだとか、思いますよ。でもいつもそこには誇りが付随しているんです。反転しているんじゃありません。付随です。自分は苦しみを自覚している、自分の罪をよくわかっているって。僕は、他人に対する赦しはそのまま自分に対する赦しになると思っています、他人に対して怒れば怒るほど、それは自分の罪になるんです。一度立ち止まって考えてください。自分には本当に怒る資格があるのかと。そして無関心は赦しさえ放棄した状態です。無関心になるくらいなら怒った方がましですよ。その方が自分の心がよくわかりますからね。自分の心がわからなくなったらどうなるでしょう。そうです。全てが許されるようになるんです。さっき無関心は赦しを放棄していると言ったはずではと思うかもしれません。ゆるしには二つの意味があります。一つは前者の全てを受け入れて、愛することです。二つは後者の目を逸らして、どうとも思わないということです。どうとも思わない状態。寅さんの赦しが前者で、無関心が後者です。つまり心が活動を辞めた状態では、人は感覚を失います。感覚と言葉、どちらが大切かといえば、圧倒的に感覚ですね。感覚を失うくらいなら物言わぬ体になった方がましです。そして、それを失った人間はどうなるでしょう。優しさを失うんです。そして、どんな醜悪なこともできるようになります。人を傷つけることに戸惑いがなくなるんです。そしてある時、自分さえ失おうとするんです。理由は好奇心でも背徳でも、なんでも。感覚を失った心から湧き出る感情なんて、本当に小さな、蛍火のような力しか持っていない。だから、ほとんどの場合は意欲がなくなって何もしないんですけれど、ある時、たった一瞬の衝動で全てを失うんですよ。怖いって思うのも、苦しいって思うのも、必要なんです。ある時本で読んだのですが、人間に病気があるのは、病気をするデメリットよりも、病気をしないように進化した場合のデメリットの方が多いからだとか言っていました。つまり、人が苦しみを感じるのは、苦しみを感じるように進化した方が結果的に長生きしやすいということですね。こんなに長くなってすみません。僕の話は終わりです。」

 沈黙が流れた。顔が熱くなる。自分の意見を大勢の人の前で言うのは恥ずかしいな。言葉が抽象的すぎたかな。そう思って下を向いていたら、大瑠璃くんと斎藤くんが頷いてくれた。僕はそれを見て嬉しくなった。

「聖書を読んでるみたいだった!」

 後で大瑠璃くんが言ってくれた言葉だ。

一日目は穏やかに終了した。


 二日目、突然穂高さんからLINEが来た。

『今どこにいるっすか』

『三号館の玄関前です』

『そこで待っててほしいっす』

 しばらくして、穂高さんが走ってきた。

「ついてきてっす。急いで!」

 手を引っ張られて走ると、そこはライブ会場だった。ステージの横で、紗乃さん以外のサークルのメンバーがいた。

「勝がボーカル、文屋がキーボード、俺はドラムっす。小泉クンはベースの振りをしててほしいっす」

「え、え、何するんですか⁉」

「とにかく、詳しいことはすべてが終わった後っす!」

 すると、皆でステージに上がった。僕は何が何だかわからないままギターを首にかけていた。観客が大勢いる。何人かが、杙さんに気付いて困惑した声を上げていた。

 カンカンとドラムのスティックをたたく音が聞こえる。その瞬間隣の杙さんがギターに指をかけて歌いだした。

“私の恋を悲劇のジュリエットにしないで”

 あ、これ、知ってる。

“ここから連れ出して・・・”

 ロミオとジュリエットだ‼

 文屋さんがキーボードに指を滑らす。文屋さん、ピアノ弾けたんだ・・。

“あなたにならば見せてあげる私の――”

 のびやかで透き通った歌声、それでいて力強い。彼は歌声まで魅力的なのか。その虚無の瞳からは想像もできないくらい、いかにも感情がこもったような歌い方をする。でも僕は感動していた。観客はその色っぽい声にメロメロになっていた。杙さんは僕のほうを向いてうつくしい微笑を浮かべた。僕もつられて笑った。思い出していた。彼との思い出を。


 ライブが終わって、ステージ裏に集まっていた。

「これ、どういうことですか?」

「軽音サークルを乗っ取ったんっす!」

「え! 大丈夫なんですか⁉」

「詳しくは、サークルクラッシャーで崩壊した抜け殻をちょっとお借りしただけっす!」

「せっかくだから、小泉クン世代の曲がいいと思って!」

「皆でこっそり練習したんです。小泉さんにはサプライズで。穂高が、小泉さんに青春の思い出を作ってやりたいというのでね」

 穂高さんってそんな気遣いできたんだと思った。

「穂高さん・・・・」

 僕は感動の目を穂高さんに向けた。

「ちょっ、文屋余計なこと言うなよ・・」

 文屋さんは無表情だった。

「ありがとうございます! 僕このサークル大好きです!」

 そう言うと、穂高さんは自慢げに胸を張った。杙さんは微笑を浮かべていた。

 こうして、学祭二日目は僕史上最大の盛り上がりで終わったのだった。


 学祭が終わり、数日たった後。構内の野良猫と戯れていた。するとそこに、男女の二人組が来た。

「ねえ見て、かわいい~」

 女性がそういうと、隣にいた男性が僕に気付いた。

「あ、小泉」

「紗乃さん。こんにちは」

「知り合い?」

「サークルの後輩」

「へえ、恵ちゃんのサークル。人くるんだね」

 恵ちゃんとは、二人はどんな関係なのだろう。

「あの・・お二人は・・?」

 すると、二人は顔を見合わせてしばらく沈黙した。紗乃さんから話し始めた。

「この人は、紫亜之真里(しあのまり)。同じ社会学部のゼミで・・恋人だ。これ、絶対ほかのサークルの奴には言うなよ。特に杙には」

「分かりました」

 すると誰かが近づく気配がした。

「げっ杙」

 紗乃さんは紫亜之さんを引っ張って逃げてしまった。紫亜之さんは困惑していた。すると目の前が突然何かに塞がれた。

「誰でしょう」

「はは、分かりますよ。杙さんですよね」

 視界を解放された。振り返ると。美丈夫な男が一人いた。

「こんにちは。師」

 うつくしい微笑だった。僕のそばにいた猫が音もなく杙さんの足元に近づいて愛想を振りまいた。杙さんはその白い体を持ち上げて、顔に近づけた。猫はその白い肌を舐めまわす。

「はは、ザラザラしてる」

 猫さえもメロメロにしてしまうなんて。

「杙さんって結構モテますよね」

 杙さんは猫を解放して、僕と同じ目線になるように座った。

「噂される前はそうでしたね」

「やっぱり。高校のころはすごかったでしょうね」

「いえ、高校は男子校でした」

「ほう」

「まあ、男子校でもそういう人はいました。僕はそのころは大人しかったので、断りましたがね」

「今は違うと・・?」

「画一的なものは飽きました。今は少し興味があります。他人の大切なものってどんな味がするんだろうかと」

 すると彼はまた微笑を僕に向けた。

「ん? 食べ物の話ですか?」

 彼が一瞬目を見開いた後、ぷっと噴き出した。

「はははは、食べ物って、あははは」

 何か変なこと言ったかな。彼はお腹を抱えていた。

「僕・・師のこと・・ちょっと好きかもしれないです・・」

 この出来事から、杙さんは僕に心を開くようになった。めでたい。


 一週間後、いつもの猫がいる場所には人だかりができていた。何が起こったのか、覗いてみると。血まみれの猫の惨殺死体が見つかった。なんてことだ。こんなひどいことをするなんて。周りの人は明らかな動物虐待事件だと言っていた。監視カメラからは死角にあるので、証拠はなく、犯人はわからない。猫は小さな刃物で何度も刺されたようで、その白い毛並みは真っ赤に染まっていた。僕は気分が悪くなって、大学を出た。近くの公園のベンチで座り込んでいた。地面に黒い革靴が二つ並んでいた。見上げると、杙さんだった。

「何かあったんですか」

「・・・・あなたが・・やったんですか」

「・・・・」

 杙さんはあの微笑を浮かべた。

「僕がやったと言ったら?」

 僕と杙さんはしばらく見つめ合っていた。そして、杙さんは驚いたような顔をした。

「・・・・師?」

 僕は泣いていた。両頬から大きな二つの雫がこぼれる。もう日は暮れていた。彼は僕の顔に手を伸ばす。涙を拭おうとしたのだ。僕は手を振り払って立ち上がった。そのまま公園を出ようとする。

「待って」

 腕を掴まれた。

「やめてください」

 振り払おうとしても、万力のような力で離さない。体格差で明らかに不利である。

「なんで泣いているんですか」

「あなたが可哀想だからです」

「それは、嫌悪ですか。諦めですか」

「いいえ、猫を殺しているときのあなたの心を想像したんです」

 一瞬力が緩んだ。僕はその間に腕を振り払って。走り出した。

「待って、お願い。待って」

 後ろから抱き着かれた。僕は驚いて足を止めた。

「ごめんなさい・・ごめんなさい。あれは嘘です。でも半分本当です」

 僕は首だけ後ろへ向けた。

「どういうことですか」

「僕は、猫が殺される前、不審な男が猫がいるところに向かうのを見ていました。でも僕は見逃しました。だから、半分は僕のせいです」

「あなたは、分かっていたんですね・・」

「はい。僕は分かってて見逃しました」

「あなたは・・醜悪に心を支配されているんですね」

「はい、だからごめんなさい。あなたといると、心がわかる気がします。お願いだから、行かないで」

 僕は、回された腕を離した。僕は振り返って、彼の手を両手で包んだ。

「あなたは・・美しい人ですよ」

 彼の目は輝いていた。暗くても目立つその瞳は、まるで熱にでも浮かされたようだった。その勢いで喋りだした。

「僕ら、友達になりませんか。ただの先輩後輩じゃなくって」

「ええ、いいですよ。名前で呼んでもいいですか」

「もちろん」

「じゃあ、勝くん。これからよろしくお願いしますね」

 僕らは硬く手を握った。


 平日の休み。両親は仕事でいない。すると、LINEが来た。

『今いるか?』

 宗ちゃんだ。

『家にいるよ。来るの?』

『うん、待ってて』

 しばらくして、インターホンが鳴った。扉を開けると、仕事帰りで浮かない顔をした黒縁メガネの男がいた。

「ごめんな、突然」

「いいよ。上がって」

 二人で、自室のベッドの上に座った。

「・・・・何かあったの?」

「今日、母さんから聞かされたんだけど」

「うん」

「昔、死産になった弟がいたって話しただろ?」

「そういえば、そうだね」

「生きてるらしいんだ」

「え」

「今も」

「どうして今日・・?」

「産院から盗まれたらしいんだ。小さいところだから監視カメラもないし、犯人はわからない。父さんが口止めしてたんだ。亡くなって暫く経ったから、もういいと思ったらしい。ああ・・そういえばあの頃から母さんの癲狂がひどくなったんだ・・・・そういうことだったのか・・」

「うん。どう思ったか、正直に話してごらん」

「俺は、苦しい。どうして言ってくれなかったんだと思ったし、俺がのうのうと生きている間、弟はずっと苦しんでいたかもしれないのに」

 うなだれた様子で話し続ける。

「今は見つける手立てもない。本当なら今すぐ見つけ出して、抱きしめてやりたい。でもできないんだ」

「宗ちゃんはいつも一生懸命生きてるよ。知らない弟の幸せを願ってやれる。それだけで十分だよ」

「でも・・願うだけじゃ無力じゃないか」

「願うことには意味があるよ。宗ちゃんは他人のことばかり考えすぎだよ。自分のことも大切にしなきゃ」

「それは、お前にも言えることだろ・・・・お前は良心で簡単に愛を振りまいてしまう・・命さえも・・。俺は、お前がまた誰かに心を奪われやしないかと心配なんだよ。お前のその無私の愛は、一個人が独占していいものじゃない。俺は、お前みたいなやつが幸せになれない世界が憎い・・」

「ふふ」

「なんだよ」

「いつも言うよね。それ」

 僕は彼の頭をめちゃくちゃに撫でながら、続けた。

「大丈夫だよ。もう、人のために命を投げ出したりしない。宗ちゃんが悲しむからね。僕はちゃんと宗ちゃんのことも想ってるよ。僕は愛すために死ぬんじゃなくて、愛すために生きるよ。生きてるときに救われなきゃ意味ないもんね」

「・・はは・・・・やめろよ」

 彼がやっと笑った。

「弟のことは、きっと大丈夫。何かの偶然で見つかるかもしれない。ちなみに、産院から盗まれたのって、いつ?」 

「俺が十歳のころだから、十九年前だ」

「じゃあ、今頃大学一年生か。働いてるかもしれない・・・・あ」

「なんだ?」

「そういえば、僕の友達に、施設育ちの男の子がいたよ。お兄さんと生き別れたらしい。でも違うか。お兄さんとは途中まで一緒だったんだもんなぁ。でも、宗ちゃんのお母さんにそっくりだったよ」

「その話詳しく!」

「僕はそれ以上はわからないよ。今度会ったら聞いてみる」

 すぐ連絡してくれと言って宗ちゃんは帰った。もし黒野くんが弟だったら、彼の生き別れの兄とは血がつながっていないことになるんじゃないか・・? そんなこと伝えたら、母親が犯罪者かもしれないと伝えたら、彼はショックを受けるかもしれない。でも宗ちゃんが探してるし、彼なら、本当の兄も、育ての兄も両方愛せると思う。彼は強い。優しくて思いやりがあって、まるで修道士みたいな青年だ。


 そんなことを黒野くんに伝えた。

「僕に兄が二人・・・・?」

 彼は驚いていた。

「ショックじゃないんですか?」

「いいえ、とんでもありません! 血がつながっていたっていなくたって、家族が一人だけじゃないかもしれないなんて、素敵です! ・・でも、ぼくの母が産院からぼくを盗み出すなんて・・いったい何が目的だったんでしょう。ぼくには母の記憶がないので、地方にいる兄なら何か知っているのでしょうか」

「宗ちゃんに会ってみますか?」

「はい! ぜひ! そちらが会いたいとおっしゃっているなら!」


 日曜日、僕と黒野くんと宗ちゃんは街中のカフェで落ち合った。まず僕から二人を紹介して、二人がお互いに自己紹介をした。しばらく三人で話し合って打ち解けた後、

「ぼくが、咲さんのお母さんの若い頃に似てるって、本当ですか?」

「ああ、見てみて」

 宗ちゃんがスマホを見せた。

「わあ! ほんとにそっくりですね!」

「会ってみると本当にそう思うよ。護くん、すごい苦労してるのに、心優しくて、君みたいな人が弟だったらいいなって俺は思う」

「ぼくも、咲さんみたいな理知的な人が兄かもしれなかったら、嬉しいです!」

 二人はそのあともお互い昔のことについて話していた。

「地方に生き別れの兄がいるのか」

「はい、ぼくが赤ちゃんの頃に別々の施設に預けられてから、それっきりで・・。顔は覚えていないんです。でも、そこの自動車工場にエンジニアとして就職したって情報だけはあります。名前は黒野大地(くろのだいち)です」

「あそこの自動車工場なら一つしかないよな。一緒に探そうか?」

「いえ、まだ会いません・・・・きっと今会ったら、苦労を掛けてしまうかもしれません。兄は赤ちゃんの頃のぼくの世話をしていたんです。だから、次会うときは、立派になった姿を見せたいんです」

「・・・・そうなのか」

「何か困ったことがあったら、連絡してくれ。いつでも駆けつける」

「そんな・・いいんですよ」

「いやだめだ。君みたいな子が苦しんでほしくないんだ」

「・・はい・・ありがとうございます」

 彼はにっこりと微笑んだ。


「ねえ? 黒野くん、すごく愛らしいでしょう?」

「ああ、あれは天使だな」

 二人で帰りながら話していた。

「お前以外にもいるなんて」

「僕は彼のこと大好きだよ」

「そりゃあそうだろうな。お前が好きそうな性格だ。ああいう人にまた出会えるなんて、希望だよ」

 宗ちゃんは穏やかな笑顔を見せていた。彼の性格に癒されたのだろう。


 文屋さんの家に来た。土曜日の昼間だ。夜は空いてると言っていたから、昼間はいないかな。不安になりながらもインターホンを押そうとしたとき、中から文屋さんが出てきた。手には花束を持っている。

「ごめんなさい、お出かけでしたか・・」

「はい。良かったらついていきますか?」

 電車で二駅乗った先には、霊園があった。文屋さんについてきて砂利の道を進んでいると。とある墓の前で足を止めた。お墓に水をかけた後、手際よく線香に火をつけて花を供える。

「私の兄です」

「・・お兄さんがいたんですか」

「はい。私と同じく建築会社に勤めていました。妻と娘がいます・・・・」

 手を合わせた後、続けた。

「兄は、過労死しました。労働基準を大きく逸脱した長時間労働、上司からもパワハラを受けていました。心と体を大きく壊して、四年前に家で首を吊りました。まだ三十になったばかりでした・・・・」

「まあ、なんてこと・・・・」

「私はその時、小さな建築会社にいました。あそこは大企業です。私が大学で建築学を学ぶのは、そこに入るためです」

「そんなことしてしまったら、お兄さんと同じ目に遭ってしまうんじゃないですか・・?」

「いいんです。そのような目に遭っても、兄を死なせた会社の実態を少しでもこの目で見てみたい。最初はそう思っていました」

「最初は・・・・?」

「杙さんに言われたんです。本当にそれだけでいいのかと。命を懸けて復讐をしてみたくはないかと」

「それで・・?」

「あの会社に入って、兄を死なせた原因の証拠を集めます。それを告発して、私は死にます」

「え・・・・」

「だから、杙さんには感謝しています。私にきっかけを与えてくれた」

「そんなっ、告発はしても、死ぬ必要はないじゃないですか!」

「この国では告発者に居場所はありません。あちらが奪うなら、奪われる前にこちらから捨ててやります」

「・・・・考え直す気はないんですか・・?」

「ありません」

 彼は真っ黒な瞳を僕に向けた。彼の今までの穏やかさや優しさは、強い死の覚悟の上にあったのか。

「・・・・自殺とは、弱い人間が出せる最大の暴力です。私はこのひと振りに全てを懸けています」

 落ち着いた口調で話していた。彼は自分の思いのために命を懸けられる。愛情深い人間だ。

「あなたを大切に思っている人のことはどうするんですか? 穂高さんとか、仲良かったじゃないですか」

「穂高は杙さん以外に特別興味があるわけではありません。しかし、紗乃は違うでしょう。彼とは部屋が隣同士なので。しかし、彼が悲しむのも、穂高がなんとも思わないのも。素晴らしいことです。あなたが心を痛めても、それは素晴らしい。痛めなくても、それもまた素晴らしい。事の成り行きを気に留めたりしませんよ」

 彼は斎藤くんのような無関心の心得を持っていた。穂高さんの身勝手を許していたのは、そういうことだったのか。霊園を出て、彼の家に帰った後、温かいお茶をいただいた。香ばしい玄米茶だった。


 構内で勝くんと会った。

「こんにちは、師」

「こんにちは、勝くん」

「今度の三連休の日曜日、空いてますか」

「はい、空いてますよ」

「良ければ、僕と海に行きませんか。車は出します」

「いいですね。行きましょう」

 日曜、レンタカーの助手席に乗って僕たちは出発した。一時間の運転中。僕らは無言だった。僕はずっと窓の外の景色を見ていた。彼の運転は教科書通りの無感情なものだった。

「あ、見えた」

 青色の水平線が見えてきた。冬が近いので、空気が澄んでいる。向こうの島も見えるくらいだ。海水浴場は閉鎖されてるが、駐車場は空いている。寒いからか、人はほとんどいなかった。

 駐車場から降りた後、浜辺に向かった。僕は、波打ち際の先に触れた。冷たかった。振り返ると、勝くんは真顔で押しては返す波を見つめていた。

「どうして僕を誘ったんですか」

「君と来たかったからです」

 すると、勝くんは何処かへ歩いていった。僕もついていった。歩いた先の階段を上っていく。そこは海食崖だった。崖の先を覗き込むと、真下には吸い込まれるように真っ暗な水面が揺れていた。

「僕に突き落とされるかもしれないと、警戒しないんですか」

 後ろから、勝くんが話しかけた。

「あなたは殺人はしませんよ。そこは信頼しています」

 僕は振り返って続けた。

「でもあなたは、死を伝染させます。あなたが文屋さんをたぶらかしたんですね」

「たぶらかすなんて、文屋は感謝していますよ」

「文屋さんは、元々そんな人ではありません。ただの愛情深い人です。あなたはそんな人をこの世から失わせるんですか」

「彼の末路は、彼の決断です。僕は種を与えただけで、芽を出したのは彼です」

「芽吹いた後の責任は取らないんですか」

「僕がそういう性ではないことは君もお判りでしょう。それとも、あなたが代わりに責任を取ってくれるんですか」

「僕は、何とかして文屋さんを止めたいと思っています」

 彼は、沈黙していた。あざけるような微笑を浮かべながら。しばらくしたのち、口を開いた。

「僕にはね、非人情の心があるんです。美しいものを見たときの、我を忘れたような心。僕の心には、今波の音が流れています。とても穏やかなんです。苦しみのない、無我の世界。でもたまにそれが音を鳴らすときがあるんです。僕はその音に従っているだけです、このようにね」

 彼はずんずんと崖の先へ進んだ。僕はあわてて彼の腕をつかんだ。

「だめです!」

「なぜだめなんですか。僕は理性をもってこれを選択しているんですよ」

「生きなきゃだめなんです。あなたは、生きているうちに救われなきゃいけない。あなたのそれは病です」

「あなたは、僕が病に耐えることを望むんですか。あなたは一緒に行ってはくれないんですか」

「昔の僕なら、そうしたでしょうね。でも、生きなきゃだめなんです。生きていれば、物語は続きます。文字のない世界でも、書き続けなければいけないんです」

「・・・・そうですか」

 彼は、真顔のまま振り返って、力なく言った。

「・・・・帰りましょう」

「その前に、お腹がすきましたね、何か食べてから帰りましょう」

 彼の顔は元の微笑に戻った。あの後、僕らは海辺の近くの店で海鮮丼を食べて帰った。お互い何もしゃべらなかった。

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