嘘つきな僕らの、ほんとの言葉

図書館の、高い天井に吸い込まれていく雨音。古びた紙の匂い。そして、目の前に立つ、一条蓮の、真摯な瞳。私の「はい」という小さな返事は、その静寂の中に、確かに落ちた。


私たちは、どちらからともなく、図書館を後にした。行き先は、決まっていなかった。ただ、彼が「……あそこに行かないか」と、躊躇いがちに指さしたのは、図書館の裏手へと続く、あの小道だった。


雨はすっかり上がっていた。濡れた土と、若葉の匂いが混じり合った、湿度の高い空気が、私たちの周りを包み込んでいる。中庭には、もちろん誰の姿もなかった。あの時と同じ、少し錆びついた木製のベンチが、雨に濡れて、濃い色になっている。


ここが、私たちの始まりの場所だった。

私が、時給十五万円のシンデレラになるという、奇妙で、そして愚かな契約を結んだ場所。ここから、私の人生の歯車は、大きく、そして激しく狂い出したのだ。


私たちは、そのベンチに、少しだけ距離を空けて、並んで腰を下ろした。濡れた座面から伝わる冷たさが、現実感を伴って、私の肌に染みた。

何を話せばいいのか、分からなかった。半年以上という時間は、私たちの間に、気まずい沈黙の谷を作っていた。


その沈黙を、先に破ったのは、彼だった。


「……あの後、大学、休学してたんだ」


彼は、正面の植え込みを見つめたまま、静かに語り始めた。


「学園祭が終わって、実家に戻って……初めて、親父と、本気で話をした」

「……お父様と」

「ああ。今まで、ずっと逃げてたからな。決められたレールの上を走るのが、長男としての義務だって、自分に言い聞かせて。でも、もう無理だった。……君と出会って、分かったんだ。俺は、誰かのための操り人形じゃなくて、俺自身の人生を生きたいんだって」


彼の声は、穏やかだった。けれど、その奥には、嵐のような葛藤を乗り越えてきた者だけが持つ、揺るぎない強さが宿っていた。


「会社を継ぐのは、少し考えさせてほしいって言った。大学を卒業するまでの二年間、俺の好きなようにさせてくれって。もちろん、最初は激怒されたよ。勘当だ、とまで言われた。でも、初めてだったんだ。俺が、親父に逆らったのは。……最後は、呆れられたみたいだけどな。『それだけ言うなら、勝手にしろ。ただし、卒業したらどうするのか、その時までに答えを出せ』って」


彼はそこで一度、言葉を切り、ふっと、自嘲するように笑った。


「それで、親父に言ったんだ。俺には、どうしても守りたい、大切な人がいるって。でも、その子に、俺は人生で一番盛大にフラれたんだってな。……笑えるだろ?」


笑えるはずが、なかった。私の胸は、彼の言葉の一つ一つに、締め付けられるように痛んだ。彼が、私の知らない場所で、たった一人で、自分の人生を懸けて戦っていたなんて。


「君の、『好きな人がいる』って言葉が、ずっと、頭から離れなかった。新津さん……だっけ。優しそうで、誠実な人だった。君がお似合いだって思うくらいには、いい人だった。……だから、諦めなきゃって、何度も思った。でも、どうしても、信じられなかったんだ。信じたく、なかった」


彼は、そこで初めて、私の顔を、まっすぐに見た。

その瞳の奥で、抑えきれないほどの強い想いが、炎のように揺らめいている。


「だから、戻ってきた。もう一度、君に会って、自分の目で確かめるために。……なあ、さくら」


彼は、私の名前を呼んだ。あの夜、私のアパートの前で、悲痛な声で叫んだ時とは違う、慈しむような、優しい響きで。


「俺は、まだ、君のことが、どうしようもなく好きなんだ。この半年間、忘れようとすればするほど、君の顔が、声が、笑顔が、鮮明に思い出されるだけだった。……だから、もう一度だけ、チャンスをくれないか。これが、最後にするから」


彼の、剥き出しの、本当の言葉。

その言葉の前に、私が今まで必死に築き上げてきた、罪悪感と自己嫌悪の壁は、もろくも、音を立てて崩れ去っていった。


涙が、頬を伝うのが分かった。

私は、震える手で、ずっと肩にかけていたトートバッグの中に手を入れた。そして、ビニールカバーをかけた、一冊の文庫本を取り出した。あの、因縁のミステリー小説。


「……これを、ずっと、返したかったんです」


彼に、その本を差し出す。彼は、驚いたように、それと私の顔を交互に見た。


「さくら……?」

「ごめんなさい……」


涙で、声が、しゃくりあげるように震える。もう、嘘はつけなかった。


「好きな人がいるなんて……嘘、なんです。全部、私がついた、嘘……」


言ってしまった。

その瞬間、彼の瞳が、信じられないという色に、大きく見開かれた。


私は、もう、彼の顔を見ることができず、俯いたまま、堰を切ったように、すべてを話し始めた。


「あなたと私は、住む世界が違うから……私なんかが隣にいたら、あなたを不幸にしてしまうって、勝手に思い込んでたんです。あなたの友人を心配させて、あなたの後輩を傷つけて……私が、あなたの世界を、めちゃくちゃにしてるんだって。……だから、あなたに、諦めてもらうしかないって。それが、あなたのために私にできる、唯一のことなんだって……本当に、馬鹿みたいですよね……」


自分の身勝手さが、愚かさが、恥ずかしくて、情けなくて、涙が止まらなかった。


「あなたを、深く傷つけました。最低な嘘で、あなたの誠実な気持ちを、踏みにじりました。本当に、本当に、ごめんなさい……。でも……」


私は、意を決して、顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった、みっともない顔を、彼の前に晒す。そして、涙に濡れた瞳で、まっすぐに、彼の瞳を見つめ返した。


「でも、本当は……私も、ずっと、あなたのことが、好きでした。偽物の恋人なんかじゃなく、本当に……一条蓮という一人の人間が、どうしようもなく、好きでした……っ」


私の、生まれて初めての、本当の告白。

その言葉を聞いた蓮は、一瞬、時が止まったかのように、固まっていた。

そして、次の瞬間。その整った顔を、ぐしゃりと歪ませ、彼の大きな瞳から、一筋、また一筋と、静かに涙がこぼれ落ちた。


彼は、何も言わなかった。

ただ、その長い腕を伸ばし、私の体を、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、優しく、優しく、抱きしめた。


「……馬鹿だな、お前は……」


私の耳元で聞こえた彼の声は、安堵と、どうしようもない愛おしさで、震えていた。


「俺が……俺が幸せになれるのは……お前が、隣にいてくれる時だけなのに……」


その言葉に、私の涙腺は、完全に決壊した。

私は、彼の胸に顔を埋め、子供のように、声を上げて泣いた。長い間、心の奥底に溜め込んでいた、悲しみも、苦しみも、後悔も、そして、彼への愛しさも、全てが涙となって、溢れ出してくる。彼が、私の背中を、優しく、何度も、何度も撫でてくれた。


どれくらいの時間、そうしていただろうか。

やがて、蓮はそっと体を離すと、私の涙で濡れた頬を、その大きな手のひらで、優しく包み込んだ。そして、親指で、そっと、涙の跡を拭ってくれる。


「……もう、嘘は、なしだ」

「……うん」

「俺から、離れていこうとするな」

「……しない」

「俺のそばに、ずっといろ」

「……はい」


彼は、一つ一つ確かめるように、そう言った。そして、ゆっくりと、ゆっくりと、その顔を近づけてくる。私は、そっと、目を閉じた。


二人の唇は、今度こそ、確かめ合うように、優しく重なった。

あの夜の、事故のようなキスではない。これは、たくさんの嘘と、すれ違いと、涙の果てにたどり着いた、私たちの、本当の始まりを告げるキスだった。


雨上がりの空から、雲の切れ間を通して、柔らかな西日が、私たちの上に差し込んできた。それは、まるで、嘘つきだった二人の、長い、長い夜が明けたことを告げる、祝福の光のようだった。


唇が離れた後、彼が、初めて、私の名前を呼んだ。

「さくら」

その響きが、たまらなく甘く、私の心に溶けていく。


「これから、本当の恋を、始めよう。俺たち二人で」


嘘つきな僕らの、ほんとの言葉。

その言葉を胸に、私は、涙で濡れたまま、今、この世界で一番幸せな笑顔で、彼に、力強く頷いた。

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