長い長い冬
一条蓮という嵐が、私の人生から過ぎ去った後。そこには、まるで台風一過のような、がらんとした静寂だけが残されていた。秋は、駆け足で過ぎていった。学園祭の華やかな熱気も、ステージの上で交わされた残酷な言葉も、まるで遠い夏の夜の夢だったかのように、急速に色褪せていく。
けれど、私の日常に刻まれた爪痕は、生々しく、そして痛々しいままだった。
大学という場所は、私にとって再び、息を潜めて過ごすだけの空間に戻っていた。学園祭での暴露事件は、尾ひれどころか巨大な翼までつけて、あっという間にキャンパス中に知れ渡った。「月十五万で恋人のフリをしていた、哀れでプライドのない女」。それが、衣川さくらに与えられた新しい肩書きだった。
廊下を歩けば、ひそひそと囁く声が聞こえる。学食で一人ランチを食べていれば、遠巻きに指を差して笑われる。その視線のナイフから身を守るために、私は再び、分厚い本の影に隠れ、誰とも目を合わせない、透明人間になることを選んだ。
何よりも辛かったのは、キャンパスの至る所に、彼の残像がちらつくことだった。
講義室の、少し後ろの席。私がいつも彼の横顔を盗み見ていた、あの場所。
図書館の、窓際の閲覧席。彼が、私の貸したミステリー小説を、真剣な顔で読んでいた、あの場所。
芸術学部棟のアトリエ。彼が、「君といると、世界が色づいて見える」と言ってくれた、あの場所。
そして、二人でぎこちないランチを食べた、学食のテーブル。
彼と過ごした思い出のすべてが、今は鋭いガラスの破片となって、私の足元に散らばっていた。一歩踏み出すたびに、その破片が心の奥深くに突き刺さり、鈍い痛みを呼び起こす。だから私は、彼との思い出が染み付いた場所を、地雷原のように、慎重に、慎重に避けて通るようになった。
彼自身の姿を、大学で見かけることは、ほとんどなかった。
「一条くん、最近ぜんぜん大学に来てないみたいだよ」
ある日、私を心配して声をかけてくれた友人の美咲が、申し訳なさそうにそう教えてくれた。
「サークルの代表も、学園祭が終わってすぐに辞めちゃったんだって。橘くんたちが心配してた。なんか、まるで魂が抜けちゃったみたいだって……」
その言葉は、重い鉛のように、私の胃の底に沈んだ。
私のせいだ。
私が、彼の心を殺してしまったのだ。彼が情熱を注いでいたサークルも、彼が築き上げてきた友人関係も、私の存在が、すべてをめちゃくちゃにしてしまった。その罪の意識が、冷たい鉄枷のように、私の心に重くのしかかった。
時間は、無慈悲なほど正確に流れていった。イチョウ並木が黄金色の葉をすべて落とし、キャンパスに冷たい木枯らしが吹き荒れる頃、季節は容赦なく冬へと姿を変えた。
私の唯一の避難場所は、アルバイト先の書店だった。そこだけが、一条蓮のいない、私だけの聖域だった。
新津さんは、あの日以降も、何も変わらない態度で私に接してくれた。学園祭での出来事について、彼は一言も尋ねなかった。ただ、私が落ち込んでいると見れば、「温かいココアでも飲む?」とバックヤードで淹れてくれたし、私が無理に笑顔を作っていると、「疲れたら、無理しなくていいんだよ」と、優しく頭を撫でてくれた。
その底なしの優しさに、私は何度も救われ、そして同時に、苦しめられた。
私が、蓮を振るための口実として、彼の名前を使ってしまったこと。その事実が、罪悪感となって、彼の優しさを受け取るたびに、私の胸をちくちくと刺した。だから、私は彼に対して、決して一線以上は踏み込ませなかったし、彼もまた、それを敏感に察して、静かに見守るという距離を保ち続けてくれた。
十二月になり、街がクリスマスイルミネーションの、偽りの光で彩られ始めると、私の孤独は、いよいよその深さを増していった。きらきらと点滅する光は、私の心の闇を、かえって色濃く照らし出すだけだった。一人で見上げた冬の夜空は、どこまでも冷たく、そして広かった。
年が明け、一月が過ぎ、二月になった。厳しい寒さが続く、長い、長い冬。私は、ただひたすらに、目の前のやるべきことに没頭した。講義、レポート、アルバイト。まるで、思考を停止させるための苦行のように、無心でそれらを繰り返した。
悲しみに暮れるだけの毎日に、ある日、ふと、嫌気がさしたのだ。
私がこんな風に、過去の亡霊に囚われて、立ち止まっていることを、彼はきっと望んでいないだろう。彼が好きだと言ってくれた「衣川さくら」は、こんなにも弱くて、惨めな人間だっただろうか。
違う。
自分の足で、ちゃんと立たなければ。
蓮と出会う前の、ただ真面目だけが取り柄だった自分に戻るだけでは、だめだ。彼と出会い、恋をし、そして失ったこの経験を、無意味なものにしてはいけない。何か、新しい目標を見つけなければ。
その思いは、私を自然と、図書館へと向かわせた。
あの日以来、避けていた場所。けれど、今ならもう、大丈夫な気がした。
外国文学の書架を、あてもなく眺めていた時だった。一冊の、分厚い専門書が目に留まった。『翻訳という創造』。そのタイトルに、なぜか強く惹きつけられた。蓮に貸した、あのミステリー小説のことを、ふと思い出したからかもしれない。
その本を手に取り、窓際の、彼がかつて座っていた席とは違う席に座って、ページをめくり始めた。
そこには、私の知らない、広大な世界が広がっていた。
一つの物語が、国境を越え、言語の壁を越え、違う文化を持つ人々の心に届くまで。そこには、翻訳家という、もう一人の「作者」の、創造的な苦悩と喜びがあること。単語を置き換えるだけではない。文化を、感情を、物語の魂そのものを、自分の言葉で再構築していく仕事。
私は、夢中になってその本を読んだ。
違う言語で書かれた物語を、私の言葉で、日本の読者に届ける。その仕事に、暗闇の中にいた私の心に、一条の光が差し込んだかのような、強い、強い憧れを抱き始めた。
具体的な目標ができたことで、私の灰色だった日常に、ほんの少しだけ、色が戻り始めた。翻訳家になるために、まずは語学力を磨かなければ。私は、大学の国際交流センターに通い、留学生との会話プログラムに申し込んだ。関連する書籍を、片っ端から読み漁った。
彼はもう、私の隣にはいない。
けれど、彼と出会ったことで、私の世界は、間違いなく、以前よりもずっと広がっていたのだ。芸術に触れる喜びも、誰かを本気で想う痛みも、そのすべてを、彼が教えてくれた。この胸に深く刻まれた痛みさえも、私がこれから生きていくための、大切な道標なのだと思えるようになっていた。
三月になり、凍てついていた地面が、少しずつ春の温かい雨に濡れ始めた頃。キャンパスの桜並木の、硬く閉ざされていた蕾が、日に日に、ふっくらと膨らんでいくのが分かった。
ある晴れた日の午後。私は、アパートの窓から差し込む柔らかな日差しの中で、新しいノートを開いていた。そこへ、翻訳の勉強のために書き写した、外国の詩の一節を、ゆっくりとペンで記していく。
もう、彼のいない季節に、ただ泣いてばかりいるのはやめよう。
いつか、どこかで、胸を張って彼と再会できる日が来るのかは、分からない。
でも、もしそんな日が来るとしたら。その時、私は、彼の知らない私に、彼が惚れ直すくらいの、強くて、素敵な女性になっていたい。
硬く閉ざされていた私の心も、あの桜の蕾のように、もう一度、春の光に向かって、ゆっくりと開き始めている。
長い冬が、ようやく終わろうとしていた。
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