出口の見えない問い

あの夜、一条蓮が私の前で流した涙は、私たちの間にあった最後の壁を溶かしてしまったようだった。それ以来、彼は私に対して、まるで長年連れ添った共犯者に秘密を打ち明けるように、些細な弱音や愚痴をこぼすようになった。私たちは偽物の恋人でありながら、誰よりも互いの本音を知る、唯一無二の存在になりつつあった。


十月に入り、間近に迫った学園祭の準備で、キャンパスは日に日に熱気を帯びていく。蓮はフリーペーパー特別号の編集長として、連日猫の手も借りたいほど忙しそうだったが、それでも時間を見つけては、講義終わりの私を捕まえて「五分だけ」と言って他愛のない話をした。


「お前ら、ほんとラブラブだな」


共通の友人にからかわれても、彼は「だろ?」と悪びれもせずに私の肩を抱き、私は顔を赤くして俯く。そんなやり取りも、いつしか日常の風景になっていた。周囲も私たちの関係をすっかり公認の事実として受け入れ、高坂華の嫌がらせも、いつの間にか鳴りを潜めていた。


この嘘で固められた平穏が、心地よかった。このまま、学園祭が終わるまで、いや、卒業するまで、時が止まってしまえばいい。そんな、ありえない願望が胸をよぎるほどに、私はこの偽りの日々に、深く、深く依存し始めていた。


しかし、穏やかな水面のすぐ下では、新たな流れが渦を巻き始めていた。私たちの関係に「疑惑」を抱く者たちの、静かな波紋が。


その日、私は蓮に頼まれた資料を届けるため、放課後、彼のサークルの部室へと向かっていた。ドアの前まで来て、中から話し声が聞こえたので、ノックしようとした手を止める。蓮と、もう一人、快活な男性の声。蓮の親友で、同じ経営学部の橘圭吾さんの声だった。


「だから、蓮。お前、最近マジで付き合い悪いって。この前の飲み会も来なかっただろ。全部、衣川さんのせいか?」


圭吾さんの、からかうような、けれどどこか心配の滲む声。私の名前が出て、心臓がどきりと跳ねた。


「そういうわけじゃねえよ。ただ忙しいだけだ」

「ふーん……。なあ、蓮。俺、お前のことだから言うけどさ、本気なのか? ああいう、今までお前が絶対選ばなかったタイプの子だろ。悪い子だとは思わないけど……なんていうか、お前が無理してるように見える時があるんだよ」


息が、止まった。私はドアノブにかけたままだった手を、そっと下ろす。


「……無理なんかしてねえよ」

「そうか? お前の家のこととか、お前の親父さんのこととか、俺は知ってるからさ。だから、心配なんだよ。今度のお前の彼女、お前の世界と、あまりにも違いすぎる。お前が本当に守ってやれるのかって、余計なお世話かもしれないけど、思っちまうんだよ」


橘圭吾さんの言葉は、どこまでも誠実で、蓮を心から思う友情に満ちていた。だからこそ、その一つ一つが、鋭いナイフのように私の胸に突き刺さった。


その通りだ。私は、一条蓮の世界の人間じゃない。彼が背負うものも、彼の苦しみも、本当の意味では理解できていないのかもしれない。そんな私が彼の隣にいることは、彼の親友にまで、こんな風に心配をかけている。


私は、彼らの友情の間に立つ、邪魔者なのだ。


ドアを開ける勇気は、もうなかった。私は胸に突き刺さった見えないナイフに耐えながら、音を立てないように、その場から静かに踵を返した。


疑惑の影は、別の場所から、嫉妬の棘となって、より直接的に私を攻撃してきた。

圭吾さんとの一件から数日後。私は蓮に「簡単な作業だから、少しだけ手伝ってくれ」と頼まれ、再びサークルの部室にいた。学園祭で配布するフリーペーパーを、ひたすら二つ折りにするという単純作業。邪魔にならないよう、部屋の隅で黙々と作業を進めていた。


「あれ、さくらさんも来てるんですね」


背後からかけられた、鈴の鳴るような可愛らしい声。振り返ると、そこに立っていたのは、サークルの一年生で、マスコット的存在の遠藤あかりさんだった。大きな瞳に、ふわりとしたボブカット。誰からも愛される、絵に描いたような女の子だ。彼女が、蓮に淡い恋心を抱いていることは、誰の目にも明らかだった。


「こんにちは、遠藤さん。少しだけ、お邪魔してます」

「ふーん……」


彼女は私を値踏みするように見つめた後、わざとらしく大きな声で、他の部員に話しかけた。

「ねえ、蓮先輩、最近私たちと全然話してくれないですよねー。さくらさんがいると、なんだかピリピリしてて、話しかけづらいっていうかあ」


その場にいた数人の部員の視線が、一斉に私に集まる。あかりさんの言葉は、無邪気な響きとは裏腹に、明確な毒を含んでいた。私が、このサークルの和やかな雰囲気を壊しているのだ、と。


「おい、あかり。言い方には気をつけろよ」


パソコンに向かっていた蓮が、低い声で彼女を諌めた。しかし、彼女は怯まなかった。


「だって、本当のことですもん。それに、さくらさんって文学部なんですよね? こういう編集作業とか、分かるんですか? ちょっと、私たちとは住む世界が違うっていうか……」


彼女の言葉は、悪意のナイフだ。私が、ここにいるべきではない異物だと、何度も何度も突きつけてくる。私が作業の手を止め、俯いていると、蓮が椅子から立ち上がり、私の隣にやってきた。


「あかり、さくらは俺が呼んだんだ。それに、この作業は誰にでもできる。お前こそ、自分の仕事は終わったのか?」


蓮の、私を庇う言葉。その優しさが、今は逆に私を追い詰めた。彼が私を庇えば庇うほど、私はサークルの中で孤立し、遠藤あかりさんの瞳の中の嫉妬の炎は、ますます燃え盛るのが分かった。


ほら、まただ。私がいるせいで、蓮は後輩と気まずくなっている。私がいるせいで、この場所の空気が悪くなっている。


針の筵とは、まさにこのことだった。私は「すみません、そろそろ失礼します」と、逃げるように立ち上がった。蓮が「おい、さくら」と引き留める声が聞こえたが、私は振り返らずに部室を飛び出した。


その夜、蓮から『今日、あかりが本当にごめんな。あいつには俺から言っておくから』という謝罪のメッセージが届いた。私は、ベッドの上で膝を抱えながら、『気にしないでください。私が邪魔しちゃっただけだから』と返信した。


本当に、そう思った。

橘圭吾さんの心からの心配も、遠藤あかりさんの剥き出しの嫉妬も、どちらも、もっともな感情だ。間違っているのは、偽物の関係を続け、分不相応にも彼の隣に居座っている、私自身なのだ。


蓮との心の距離が近づけば近づくほど、この「嘘」は、より多くの人を巻き込み、傷つけていく。その事実に、私は今更ながら気づいて、慄然とした。


窓の外から、学園祭の準備で盛り上がる学生たちの、楽しげな声が聞こえてくる。その喧騒が、まるで遠い、別の世界の出来事のように感じられた。


この偽りの関係の、本当の終わりは、どこにあるのだろう。

出口の見えない問いが、学園祭がもたらす華やかな光とは裏腹に、私の心に、暗く、重い影を落としていた。

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