第9話 初めての魔術、失敗の痛み
朝の空気はひんやりとして澄み渡っていた。
まだ陽が高く昇りきる前、庭を抜けて鍛錬場へ向かうと、露に濡れた芝生の匂いが鼻をくすぐる。石畳は昨夜の冷気を残していて、靴底を通してじんわりとした冷たさが伝わってきた。
鍛錬場の中心には、昨夜から準備されていた魔法陣が大きく描かれていた。幾何学的な紋様が何重にも重なり、淡く青い光を帯びている。剣の訓練用に使う場と同じはずなのに、そこに漂う空気はまったく異なっていた。
剣戟の音や汗の臭いに満ちていた空間が、今日は静謐で張り詰めた魔の気配に支配されている。
「来たか、ライナー」
鍛錬場の端に立っていたのはガイウスだった。無骨な鎧姿ではなく、今日は簡素な修道士のような黒衣を纏い、腰には木の杖を佩いている。その背後には父が腕を組んで立ち、鋭い灰色の瞳をこちらに向けていた。
母の姿もあった。昨日に続き、彼女は俺の訓練を見守るためにここへ来ていたのだろう。淡いクリーム色のドレスに身を包み、少し不安げに両手を胸の前で組んでいた。
「若様。本日からは魔力の扱いを学んでいただきます」
ガイウスが一歩前に進み出る。低く落ち着いた声が石畳に響いた。
「昨日の試みで、すでに魔力を掌に集める感覚を掴まれましたね。ですが、それはほんの入口に過ぎません。本日は――流れを整え、形を与えることに挑戦していただきます」
「形を……与える」
自分で口にしてみると、その言葉の重みがのしかかる。
「はい。魔力はただ集めるだけでは煙のように散ってしまう。器に水を注ぐように、導くべき形を決めねばなりません。簡単なものからで結構です。光の球――《光珠》を顕現させるのです」
光の球。
子供でも扱える初歩の魔術だと聞いたことがある。けれど、無属性の俺にとっては、それがどれほど難しい挑戦になるのか、想像もつかなかった。
父の声が背後から飛ぶ。
「失敗を恐れるな。だが、甘えるな。全力で挑め」
その声音は鋼のように硬く、背筋を貫く。
母の視線は柔らかく、だがその奥には息子を案じる祈りの色が宿っていた。
両者の視線に挟まれながら、俺は深く息を吸い込む。
掌を前に突き出し、意識を丹田に集中させる。
(昨日と同じだ……体の奥にある灯火を探し、掌へ導く)
胸の奥から温かな流れが立ち上がる。血管を駆け巡る熱が、掌へと集まっていく。
指先がじんわりと熱を帯び、透明な光がじわじわと滲み始めた。
「そうだ……そのまま」
ガイウスの声が落ち着いた調子で響く。
「焦らず、しかし意志を明確に。光を、球として描けと念じなさい」
(球……丸く、輝く光……)
頭の中で必死にイメージを形づくる。
夜空に浮かぶ月を思い描く。
剣の稽古のあとに見上げた、澄んだ蒼天に白く輝くあの満月。
「……っ!」
掌の光が強くなった。
だが次の瞬間、球になりきらず、鋭い閃光が弾け飛んだ。
眩しさに思わず目を閉じる。
耳の奥で破裂音が響き、風が顔を打った。
鍛錬場の空気が一気に震え、母の短い悲鳴が耳に届く。
「ライナー!」
全身から力が抜け、石畳に膝をついた。
掌はじんじんと痺れ、煙のような焦げた匂いが漂う。
視界が戻ると、父の影が立っていた。
「……これが無属性の暴れようか」
低い声に、怒りと同時に、僅かな興味の色が混じっていた。
ガイウスが杖を振り、魔法陣を光らせて余波を封じる。
「大事には至りません。ただし若様、制御を怠れば、今のように暴発します」
(これが……俺の初めての魔術訓練……)
恐怖と失望が胸に広がる。
だが、その奥にかすかな興奮もあった。
確かに一瞬、光は生まれたのだ。
拳を握る。
(次は……必ず成功させる。剣も、礼も、そして魔術も。全部俺のものにする)
立ち上がる俺を、父の厳しい視線と、母の心配そうな瞳が同時に見つめていた。
暴発の余波が収まった鍛錬場には、まだ緊張の余韻が漂っていた。
石畳に散った光の残滓が消え、薄い煙が漂う。焦げた匂いが鼻を突き、失敗の現実をいやでも突きつけてくる。
俺は膝をついたまま、拳を握りしめていた。
掌に残る痺れが、さっきの失敗を繰り返し思い出させる。
「若様」
ガイウスが低い声で呼んだ。
「今のは恐れる必要はありません。無属性は強大であるがゆえに形を保ちにくい。暴発は、むしろ正しく力が集まっている証でもあるのです」
その言葉は慰めというより冷静な事実の指摘だった。
けれど、その冷静さがかえって胸を支えた。
父の声が鋭く響く。
「言い訳はいらん。失敗は失敗だ」
灰色の瞳が鋭く俺を射抜く。
「お前が扱うのは常人の属性ではない。制御を誤れば、己も他者も滅ぼす。……繰り返すな」
その一言は重く、胸を圧し潰す。
失敗が許されない――そんな恐怖が、全身に絡みつく。
視界の端で、母が小さく首を振っていた。
その瞳は「恐れないで」と訴えていた。
その眼差しに、辛うじて折れかけた心を繋ぎ止める。
ガイウスが杖を構え直し、促す。
「もう一度です、若様。呼吸を整え、先ほどと同じように魔力を丹田に集めてください」
震える息を整え、再び掌を前に突き出す。
だが胸の奥に広がるのは、先ほどの失敗の記憶だった。
光が爆ぜ、風が頬を打った瞬間の恐怖がよみがえる。
(……また失敗するかもしれない。いや、次はもっと大きく……)
想像が心を締め付け、汗が背を伝う。
「ライナー」
母の声が耳に届く。
「あなたは努力で乗り越えられる子。恐れないで」
その一言に、少しだけ呼吸が楽になった。
だが、不安は完全には消えない。
掌に意識を集中し、再び流れを掴もうとする。
胸の奥から湧き上がる熱が腕を走り、指先に集まる。
透明な光がじわじわと膨らんでいく。
(今度こそ……球に……!)
必死にイメージを重ねた瞬間――
ドン、と重い衝撃が掌から弾けた。
閃光が走り、風圧が鍛錬場を揺らす。
前よりも大きな爆ぜ方だった。
俺は弾かれたように後方へ倒れ、石畳に背を打ちつけた。
息が詰まり、視界が白に染まる。
「ライナー!」
母が駆け寄り、抱き起こす。
耳の奥で父の声が響く。
「……この程度か」
冷たい言葉が、胸の奥に突き刺さった。
(また失敗した……。俺には、やっぱり……)
震える指先を見つめる。
そこには、光の欠片すら残っていなかった。
恐怖と不安が膨れ上がり、心を呑み込もうとしていた。
胸が締め付けられるように痛かった。
掌に残る痺れは、ただの肉体の感覚ではない。心そのものをえぐるように、俺を苛んでいた。
(二度も……失敗した。球どころか、形を持たせることさえできない……)
石畳に倒れたまま、情けなく呼吸を繰り返す。
頭の中で、父の言葉が何度も反響していた。
「……この程度か」
短く吐き捨てるような声音。
その冷たさは刃のようで、胸の奥を深く斬り裂いた。
父の足音が近づき、影が俺を覆った。
「ライナー。力は人を守るためにある。だが制御できぬ力は、守るどころか害をなすだけだ」
低く響く声。
その奥にあるのは失望か、それとも期待の裏返しか。
今の俺には、判断する余裕すらなかった。
(怪物……父上はそう言った。もし俺がこのまま制御できなければ、本当に……)
胸の奥で、不安が暗闇のように広がっていく。
ガイウスが口を開いた。
「旦那様。確かに失敗は致しましたが、若様は魔力を確かに掌へ集められていました。暴発は、その流れが強すぎたために形を保てなかった結果です」
「……言いたいことは何だ」
父の声が鋭くなる。
「兆しはあります。むしろ、ここまで強く魔力を引き出せる子は滅多におりません。繰り返せば、必ず形に変えることができるでしょう」
老練な声は落ち着き払っていて、鍛錬場の緊張を少し和らげた。
父は黙り込み、ただ腕を組んで俺を見下ろす。
母が膝をつき、俺の肩を抱いた。
「ライナー。怖かったでしょう。でも、大丈夫。失敗は、次に進むための一歩なの」
その声は柔らかく、心の奥に染み込んでいく。
厳しい父の言葉で固まった胸が、少しずつ解けていくようだった。
「……母上」
絞り出すように声を漏らすと、母は優しく微笑んだ。
「あなたは何度も立ち上がれる子。剣のときも、礼のときも、そうだったでしょう?」
その言葉に、記憶が蘇る。
兄に何度も打ち倒されても立ち上がった稽古の日々。
姉に叱られながらも、何度も礼を繰り返した時間。
(そうだ……俺は何度も挑んできた。だから、今回も……)
ゆっくりと膝に力を込める。
石畳に手をつき、震える足で立ち上がった。
息は荒く、身体は重い。だが、拳を握ったとき、胸の奥に微かな灯火が再び揺らめいた。
「……やります。もう一度」
父の目が細められた。
「よかろう。だが、次も同じならば……」
そこで言葉は途切れた。
だが、その続きを言わなくても分かった。次も失敗すれば、父は容赦なく突き放すだろう。
恐怖が背筋を這い上がる。
だが、それ以上に「絶対に成功させたい」という思いが勝っていた。
ガイウスが静かに頷き、杖を構える。
「若様。三度目こそが真の挑戦です。心を澄ませ、流れに呑まれぬよう……」
深く息を吸い込む。
鍛錬場の空気が、静まり返る。
父の厳しい視線、母の優しい眼差し、ガイウスの落ち着いた声――そのすべてを背に受け、俺は再び掌を前に突き出した。
静寂が鍛錬場を包んでいた。
朝の冷たい風が石畳を撫で、衣服の裾を揺らす音すら大きく感じるほど、空気は張り詰めていた。
(ここで決める……今度こそ)
胸の奥に灯る熱を探り、深く息を吸い込む。
恐怖はまだ残っている。だが、それ以上に「成功したい」という思いが強くなっていた。
両の掌を前に差し出す。
丹田に意識を落とし、体内を巡る流れを探る。
昨日よりも鮮明に、その奔流を感じ取ることができた。
(逃げない。暴れるなら、俺が包み込むんだ……!)
掌に熱が集まり始める。
指先がじんわりと温かくなり、淡い光が生まれた。
最初は煙のように揺らめき、不安定だったが、必死に意志を込め続ける。
頭の中で、昨夜の月を思い描いた。
青い空に白く浮かぶ円。剣の稽古の帰り道、ふと見上げて心に残った丸い光。
(あれを、この手に……!)
光が膨らみ、輪郭を帯び始める。
揺れる炎の塊が、次第に球の形へと近づいていく。
「……出た……!」
母の小さな声が響いた。
掌の上に浮かんでいたのは、手のひらほどの光球。
透明に近い白い輝きが、震えながらも確かに形を保っていた。
胸が熱くなる。全身の血が騒ぎ、息が荒くなった。
ようやく、ようやく「形」にできたのだ。
しかし――
光はすぐに揺らぎ始めた。
表面が波打ち、亀裂のような影が走る。
「ライナー、集中を切らすな!」
ガイウスの声が鋭く飛ぶ。
必死に意識を繋ぎ止めようとしたが、力が足りなかった。
次の瞬間、光球は弾けるように掻き消え、静寂が戻った。
掌を見下ろす。
そこには何も残っていない。だが、確かに「できた」感触は残っていた。
父の靴音が石畳に響き、灰色の瞳が俺を射抜いた。
「一瞬……それだけだ」
その声音は冷たく、容赦がなかった。
しかし短い沈黙ののち、わずかに言葉を継いだ。
「だが、形になった事実は否定できぬ」
母が駆け寄り、両手で俺の掌を包み込む。
「素晴らしいわ! ライナー、あなたはやり遂げたのよ!」
瞳は涙に潤み、頬は紅潮していた。
その温もりが、冷えた身体に沁みていく。
ガイウスが静かに言った。
「初めてでここまで成せる者は稀です。若様は確かに無属性を制御する才をお持ちです。次は、もっと長く形を保つことを目指しましょう」
その言葉に、胸の奥で小さな自信が芽生えた。
(できる……俺にも、できるんだ)
恐怖は完全には消えていない。
だがその恐怖の奥に、確かな手応えが宿っていた。
(次は……もっと強く、もっと長く)
拳を握ると、母の温もりと、父の厳しい瞳と、ガイウスの静かな声が、すべて背中を押してくれるように思えた。
その日の訓練は、光球が掻き消えたところで打ち切られた。
父はそれ以上何も言わず、無言で鍛錬場を去っていった。
背中から滲み出る威圧感が、言葉より雄弁に「次も見ているぞ」と告げていた。
母は最後まで俺の側に寄り添い、汗を拭い、掌を包み込んでくれた。
「よくやったわ。あなたは本当にすごい子よ」と繰り返すその声は、胸の奥を温め続けた。
ガイウスは控えめに頷き、静かに言葉を残した。
「若様、本日はここまでと致しましょう。だが、必ず前に進めます。焦らず、一歩ずつです」
その落ち着いた声音が、不思議と力強く響いた。
夜。
自室の寝台に身を沈めると、全身の疲労が一気に押し寄せてきた。
掌にはまだ微かな熱が残っている。昼間、確かに光が宿った場所。
(失敗は二度……でも、一度は形になった)
目を閉じると、あの淡い光球が思い出された。
不安定で、すぐに掻き消えてしまった。だが確かに、そこに「存在」した。
その事実が、何よりの救いだった。
父の言葉が蘇る。
「制御できぬ力は害をなすだけだ」
冷徹な響き。胸に棘のように突き刺さる。
同時に母の声も浮かぶ。
「何度でも立ち上がれる子よ」
その優しさは痛みを和らげ、呼吸を整えてくれる。
ガイウスの助言もまた耳に残っていた。
「兆しはあります。繰り返せば必ず形に変えられる」
三者三様の声が胸の奥で重なり、やがて一つの結論に収束していった。
(俺は……できる。必ず、無属性を自分のものにする)
心の中で呟いたその言葉は、眠りにつく前の誓いとなった。
剣で兄に挑み続けた日々。
礼儀で姉に叱られ、学び続けた時間。
そして今、魔術という新たな壁が立ちはだかった。
だが、これまでと同じだ。
何度倒れても立ち上がり、繰り返し挑めば、必ず越えられる。
窓から差し込む月明かりが、寝台の上を柔らかく照らしていた。
淡い光が拳を握る手を白く染める。
その光は、まるで昼間に掴みかけた光球の残滓のように、確かな存在感を放っていた。
(恐れるな……怪物にはならない。俺は俺のまま、この力を武器にするんだ)
胸の奥で再び誓いを固め、瞼を閉じた。
静かな夜の中、無属性という異端の力を抱えた少年は、未来に向けて眠りへと落ちていった。
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