辞め際――警察官たち

森崇寿乃

第一話「残火(のこりび)」

   1


 警視庁捜査一課のフロアの喧騒が、神崎かんざきにはもうずいぶん遠いもののように感じられた。定年退職まで、あと三ヶ月。彼に割り振られる仕事は、未解決事件の資料整理や、若手の捜査報告書の添削といった、いわば「上がり」の仕事ばかりになっていた。


 机の引き出しの奥から、くたびれた薄茶色のファイルを取り出す。指先が覚えてしまったその感触に、神崎は自嘲気味に口の端を歪めた。


『昭和63年 連続企業強盗殺人事件』


 十五年前、世間を震撼させた凶悪事件。そして、当時コンビを組んでいた高木(たかぎ)の命を奪った、忌まわしい事件だった。時効まで、あと半年を切っている。


「神崎さん、まだそれ見てるんですか」


 声をかけてきたのは、今年で二十八になる工藤くどうだ。正義感だけを燃料に突っ走る、危うくも頼もしい若者。その真っ直ぐな瞳は、かつての自分と、そしてハンドルを握りながら「俺、早く神崎さんみたいな刑事になりたいっすよ」と屈託なく笑った高木の姿を思い出させた。


「……ああ」


 短い返事だけを返し、神崎は再びファイルに目を落とす。ページをめくるたび、血の匂いと硝煙の臭いが蘇るようだった。倉庫街での張り込み、飛び出してきた犯人、そして自分をかばって倒れた高木の、信じられないものを見るような目。


 守れなかった。その悔恨だけが、十五年間、神崎の胸の奥で鈍い痛みを放ち続けている。妻との穏やかな老後を約束した手前、もう深入りはすまいと心に決めていた。だが、高木の無念を思うと、このまま安穏と制服を脱ぐことへの言い知れぬ罪悪感が、心を苛むのだった。


   2


 その日の夕方、管内で強盗事件が発生したという一報が捜査一課を駆け巡った。小さな町工場が狙われ、経営者が殴られて重傷。奪われた金は五十万円ほど。よくある事件だ、と誰もが思った。神崎以外は。


「手口が似ている……」


 報告書を読みながら、神崎は呟いた。粘着テープでの縛り方、金庫ではなく社長個人のロッカーを狙う点、そして何より、現場に残された歪んだ足跡。それは、十五年前の事件の犯人が履いていた特殊な安全靴の痕跡と酷似していた。


 血が、騒ぐ。


「管理官、この事件、俺にも一枚噛ませてください」


 神崎の申し出に、旧知の仲である管理官は渋い顔をした。

「神崎、お前もうすぐじゃないか。あとは若いもんに任せて……」

「だからこそ、です。あの事件のことは、俺が一番覚えている」


 その目には、忘れかけていた刑事の光が戻っていた。管理官は深くため息をつくと、隣にいた工藤を顎で示した。

「……工藤と組め。ただし、無茶はするな。お前に何かあったら、俺が高木の親御さんに顔向けできん」


   3


 神崎と工藤の、ぎこちない捜査が始まった。工藤は最新のプロファイリングやデータ分析を主張し、神崎は十五年前の記憶を頼りに、ひたすら地を這うような聞き込みを続けた。


「神崎さん、そんな古いやり方じゃ……」

「犯人は人間だ。パソコンの画面の中にはいない」


 反発しながらも、工藤は神崎の執念に次第に引き込まれていった。被害者や関係者の些細な言葉の機微を捉え、矛盾を突き、黙秘していた人物の口を割らせる。それは、長年の経験だけが成せる神業のようだった。


 ある夜、二人は赤提灯で向き合っていた。珍しく饒舌になった神崎は、高木の話をぽつりぽつりと語り始めた。いかに彼が優秀で、人懐っこく、そして正義感の強い警察官だったか。


「俺はあいつを死なせた。俺の判断ミスだ。だからな、工藤。お前は絶対に死ぬな。どんな手柄より、生きて帰ることのほうが大事だ。それが、残された者の務めだ」


 工藤は、ただ黙って神崎の言葉を聞いていた。それは、一人の先輩刑事の懺悔であり、若い世代への痛切な願いのように聞こえた。


   4


 捜査は、神崎の記憶と工藤のデータ分析が噛み合い始めたことで、急速に進展した。十五年前、アリバイがあって捜査線から外れていた工場の元従業員が、今回の事件現場のすぐ近くに住んでいることが判明した。男はギャンブルで多額の借金を抱えていた。


 深夜、男のアパートに踏み込む。逆上した男は、隠し持っていたナイフを工藤に突き立てた。


「危ない!」


 神崎は、考えるより先に体が動いていた。工藤を突き飛ばし、自らの左腕を盾にする。走る激痛。だが、構わなかった。十五年前の光景がフラッシュバックする。もう二度と、目の前で仲間を失うわけにはいかない。


 呻きながらも、神崎は残った右手で男の腕を捻り上げ、全体重をかけて床に押さえつけた。駆けつけた応援の刑事が、男に手錠をかけるのを見届けたところで、神崎の意識は途切れた。


   5


 病院のベッドで目を覚ました神崎の隣には、妻と、少し気まずそうな顔をした工藤がいた。幸い、腕の傷は神経に達しておらず、後遺症は残らないという。


「……すいませんでした」

「謝るな。お前が無事でよかった」


 神崎は、包帯が巻かれた腕を見つめながら静かに言った。これで、やっと肩の荷が下りる。高木、お前の無念は、俺が晴らしたぞ。


 数週間後、神崎は退職の日を迎えた。

 最後の挨拶を終え、警察署の玄関を出ると、工藤をはじめとした若い刑事たちが並んで立っていた。


「神崎さん、ありがとうございました!」


 敬礼する彼らに、神崎は多くを語らず、ただ静かに一礼して背を向けた。桜吹雪が舞う季節だった。


 エピローグとして、一ヶ月後、神崎は妻と二人、穏やかな日差しの中で庭いじりをしていた。もう、あの喧騒と硝煙の匂いはない。彼の刑事としての人生は終わった。しかし、その燃え尽きることのない魂の残火は、工藤のような若い刑事たちの胸の中で、確かに受け継がれていく。


 それは、一つの時代の終わりであり、新しい時代の始まりを告げる、静かな「辞め際」だった。

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