第2話

あの日薪蔵の奥で、うめばーばと静子のやりとりを見ていた今井辰哉は 若い頃から薪蔵の常連だった

地元の企業の研究室に就職し、秘書課の渋谷蓮美という女性を好きになり、付き合っていた

彼女を連れて週末は薪蔵でデートを重ねた

釣りが唯一の趣味だった辰哉は一生懸命彼女に教え釣れる様になった彼女をよく褒めてやった

蓮美は美人の秘書でチヤホヤされる事に慣れていて、いつも褒めてくれる辰哉の言葉が心地よかった

そして辰哉の猛烈なアプローチを受け入れ結婚して退職し、男の子を産んだ

生まれた子供は、蓮美に感謝して蓮の字をとって

辰哉が『レン』と名付けた

産後の蓮美を気遣い よく家事も手伝い、蓮の事も本当に可愛がって面倒をみた

ところが蓮美は最近辰哉が以前の様に自分を褒めないし、構わないことが気に入らなかった

それに昼は鰍沢(かじかざわ)の辰哉の家で蓮と2人、甲府に居た蓮美には古い造りの家、つまらない周囲、知らない顔、馴染めないものばかりだ

『つまらない、つまらない!私の人生こんなはずじゃなかった!可愛いベビーカーに子供を乗せてカフェに行ってママ友とランチのはずだったのに…』

残り物を食べながら、そんな思いが毎日募った

ある日 辰哉の同期で営業課の佐々木康夫が

「近くまで営業に来たから子供見せてよ」

と今流行りのケーキを持って訪ねて来た

蓮美には所帯染みた辰哉と違って、少し派手な営業の佐々木がキラキラして見えた

佐々木は佐々木で『女は子供を産んだ後が一番美しいって言われるがホントなんだな』と思った

時間の自由かきく佐々木は頻繁に蓮美を訪ね、深い仲になり、ある日突然2人は駆け落ちしてしまった

辰哉が帰ると離婚届と結婚指輪が置いてあった、

そして短い手紙に

『この町も、この家も、あなたも、私には重いのよ

大っきらい!もうウンザリ!子供もいらない』

それだけが書かれていた

「なんでだよ!」

読んだ辰哉はそう口走ったが、自分も蓮美の為に

無理していると分かっていた

そして最近 蓮美の気持ちが自分と蓮から離れているのも分かっていた

しかし理由がみつからず、産後で一時の事だろうと気にもしていなかった

それよりも現実の波が辰哉に襲いかかる

蓮美のための二台目の車も買った、ベビー用品も

タンスもベビーベッドもみんなローンで買っている

何より月曜から蓮をどうする?

どうしたら仕事に行けるのか?

やはり蓮美を探すのが先か?

頭が混乱している時 蓮が泣き出した

考えがまとまらず蓮を連れて車で薪蔵に向かって、

信頼している梅に相談しようと思った

「こんな可愛い子をいらないって、そりゃあんた

母親のやることじゃないよ!男だね、男が居たんじゃないのかい?」

梅は憤慨して言った

「だいたいあの嫁はあんたに向いてないと思ってたよ、でもね あんたが尽くしててさ、子が出来て変

わる女は幾らでもいるからさ、そうなればイイなって願ってたんだ、別れんなら早いほうが良いと思うけど、あんたの気持ちはどうなのさ…」

梅はお茶を入れながら聞いた

辰哉はローンの事や蓮の為で悩んでいると伝えた

「悪いけどね、もし男絡みだったら、こういう女は今回あんたが許しても又やるよ、あー許してくれる人なんだとしか思わないよ、あんたが思い切れるかだよ、生活や蓮君の事は何とでもなるもんさ、

あんたの心の問題だけだよ」

そう言って辰哉の顔を見た

「まだ男と決まったわけじゃ……

蓮が居てどうやって働けば…」

「いらないって言った女に蓮君頼むのかい?

蓮君大事に育てると思うのかい?」

梅はちょっと怒りながら携帯で電話をしだした

「もしもし梅だけどさ 父子家庭になって子供預けなきゃ働けなくて死んじゃいそうな人がいるんだ

来週からお試しでいいから保育園 はいれないかい? 鰍沢の人なんだ、何とか頼むよ、え?月曜は無理?じゃ火曜からならいいね、頼むよ、課長さんよ!」

役所の人間は皆ここの常連だった

その他の事も全て梅は親身になって世話してくれた

「月曜は休みだから私が蓮君預かってやる、会社にも相談して早く帰宅出来る様に頼みな、落ち着くまで此処で暮らしてもいいから 腹括りな!」

辰哉には ほんの少し結婚への未練も有ったが、月曜の朝それはぶっ飛んだ

営業の佐々木康夫が退職していた、

営業課の人間は皆 蓮美との事を知っていて他の課にも伝わりだしていた

知らないのは研究室の自分だけだった

その日のうちに退職は噂になり、駆け落ちは声とな

り、出社した辰哉を哀れんだ目と失笑の目で見ているのが分かった、

『離婚しかないんだな』そう決心した

離婚届の提出、保育園の手続き、扶養家族の変更など辰哉はその週を必死で、1人で何とか耐えた

社内で噂の種にされているのはわかっていたのだ

そして週末薪蔵に行く生活を続けることにした

土曜午後から薪蔵の釣り堀で、長い時間ボーっとニジマスを釣る糸を垂らした

「蓮の為に稼がなくちゃ、ローンが有るんだ

この子の為に会社は辞められないんだ!

蓮の為なら耐えられる、耐えてみせる…」

辛かったのだろう、そう呟きながら涙を流していた

それから暫くして静子が梅を訪ねて来た日を迎えた

7ヶ月程経った頃 静子は出産し、その後昼は梅の店で働いていた

梅は誰からも「うめばーば」と呼ばれ、孫の世話をしながら店を切り盛りする店主と思われていた

土日には辰哉と蓮が訪れ、まるでレイの兄の様に

うめばーばの後をチョコチョコついてまわった

静子も優しい辰哉に少しづつ心を開き、蓮の事も

可愛がって土日に会うのを楽しみにした


薪蔵が定休日のある月曜日、梅は意を決して東京に向かった

静子が毎夜写真を見て泣いているのに気付き、静子の留守に2階の部屋に行き、木箱の中の写真を見た

その下にはお金が有り、底には名刺があった

『FUJI家具銀座 矢野照臣』そう書かれていた

会って静子の苦しみとレイの事を言うつもりで店の有るビルの前で待ち伏せした

どうしても一言言ってやりたかった

ところが車が止まり降りて来た写真の男 矢野照臣は助手席の女を支えて降ろした

女はお腹が大きかった

梅は街路樹に隠れ、何も言わず見送った

そして何かを考える様に黙って帰って行った

そして何事も無かった様に働く毎日を送った

その後 辰哉と蓮の来る週末が暫く続いたある日曜

日の閉店後、梅は待たせていた辰哉と蓮を店の奥の自宅に招いた

静子とレイも2階から呼んだ

遊び疲れた2人の子供は寝てしまっていた

梅はお茶も入れず、子供達が寝ている間にと思い、

「お互い過去には蓋をしなさい、蓮君とレイの為に結婚したらどうだい? 沢山悲しい思いをしたんだ

これから悲しい思いをしない生き方を2人で見つけて幸せになればいい」

そう言って2人の手を取りギュっと握った

「私があんた達を守るから、蓮君とレイのおばあちゃんになるから」

梅はそう言いながら2人の顔を見た、

この2人ならいける、大丈夫、と梅は確信していた2人共 下を向き涙ぐんでいた

辰哉は 

「自分は妻に逃げられた男なんです…」

と言いかけたが、梅に止められた

「過去なんかお互い蓋をするんだよ、開けるんじゃないよ、お互い様だ、前だけ見て生きりゃいいんだ

自分の為にも子供の為にもね、2人で助け合って幸せな家庭を築くんだ、あんた達ならきっと出来る」

そう言われ、静子の手と重ねられた

優しい辰哉は この人も辛く悲しい思いをしたんだなと思った

そして2人は再婚の決意をし、私生児だったレイは辰哉が認知した

静子は辰哉に感謝し 蓮も本当の子と思って分け隔

て無く育てようと決心した

2人共『この人となら幸せになれる』そんな気がしていた

辰哉は会社を辞め、梅の紹介で薪蔵近くのニジマス養殖会社の研究員になった

そして4人は店の近くの貸家で慎ましく新しい生活を始め、入籍した


あぁ…

ここからだ、僕の人生はきっとここからなんだ

静子さんは僕の妻になってくれたんだ

蓮もレイちゃんも何が有っても僕の子だ

どんな事があっても過去には蓋をして

この人と子供達を幸せにする

そして僕も幸せになってみせる、絶対なってみせる


優しい辰哉は心に強く決意した


                 つづく







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