第5話 見ている




 朝。

 いつもなら六時半を過ぎた頃、教室に着くとすぐにあの人の姿があるはずだった。



 窓際の席に座り、机に鞄を置く。

 そして、ためらいなく頬を机に押しつけ、眠りに落ちる。


 白川綾乃。


 あの人の存在は、この教室の朝の風景そのものだった。

 静かに、ただ眠っているだけなのに。私の一日の始まりを確かに告げる、そんな灯のような存在。



 ……なのに、その姿がなかった。




「珍しいわね、白川さんがいないなんて」


 隣の席に腰を下ろした鈴音が、小さく呟く。

 彼女の声は驚きと、少しの寂しさを含んでいた。



「ええ。遅れているのかもしれない」


 私は努めて冷静に返す。

 けれど内心ではざわめきが止まらなかった。



 バス通学の彼女にとって、遅刻は容易なことではない。

 始業に間に合わせるには、早朝の一本しかないバスに乗るしかない。

 それを逃せば……。



 私の心臓が、不安の色を帯びて強く打ち始めていた。




 始業の鐘が鳴っても、やはり彼女は現れなかった。

 先生が点呼を取り、「白川は欠席か」と淡々と告げた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


 ……休んだのだ。


 ただそれだけのこと。

 熱を出したのかもしれないし、家の事情かもしれない。

 けれど、彼女が机に突っ伏して眠る姿がそこにないだけで、私は落ち着きを失っていた。




 午前の授業は、頭に入らなかった。

 板書を写す手は動いているのに、心はどこか遠くへ行ってしまっている。


 黒板に向かいながらも、脳裏に浮かぶのは、窓辺で頬を腕に預けて眠る彼女の姿ばかり。

 髪がさらりと流れ落ち、肩にかかる。

 長い睫毛が頬に影を落とす。

 机に触れた指先が、わずかに震える。


 そのすべてが、今日だけは見られない。



 私は、ただ「見ている」ことしかしてこなかったのだと気づいた。

 何も語らず、ただ視線を向けて、心の中で言葉を紡ぐだけ。


 けれど、それだけで一日の色が変わっていた。

 今、その色が失われている。




 休み時間。

 私は鈴音と並んで廊下を歩きながら、つい口にしてしまった。


「……大丈夫かしら」


 鈴音が私を見て、ふっと微笑む。


「心配してるのね」

「心配……? ええ、まあ」

「あなたが白川さんのことを見ているの、毎朝分かってるもの」


 図星を突かれて、言葉が詰まった。

 否定しようとしたけれど、唇は動かなかった。


 鈴音はそれ以上追及せず、ただ穏やかに前を向いた。



「きっと、寝過ごしたんじゃないかしら」

「寝過ごし……」


 その言葉に、私は思わず納得してしまう。

 彼女はいつも眠そうで、朝が苦手だと噂されている。

 度重なる寝不足が積もりに積もって、今朝はついにバスを逃したのだろう。


 その姿を思い浮かべて、胸が締めつけられた。

 目覚ましを止め、布団の中でうとうとしている綾乃。

 慌てて時計を見て、もう間に合わないと知ったときの顔。


 その表情すら見てみたいと思ってしまった自分に、呆れる。




 放課後になっても、私は気が気でなかった。

 家に電話をかけたい衝動に駆られる。

 でも、そんなことはできない。

 ただのクラスメイトにすぎない私が、勝手に心配して連絡を取るなんて。


 私は、ただ「見ている」ことしか許されていないのだ。


 窓の外に沈む夕陽を眺めながら、机に座る。

 隣の席がぽっかりと空いたまま、そこにいるはずの彼女を思い浮かべる。


「……明日は来るのかしら」


 小さく呟いた声は、誰にも届かない。




 家に帰ってからも、落ち着かなかった。

 教科書を開いても、視界に浮かぶのは彼女の黒髪ばかり。

 ノートにペンを走らせても、心は空っぽのまま。


 私は机の上に突っ伏し、目を閉じた。

 ――彼女の真似をするみたいに。


 そうすると、不思議と少しだけ落ち着いた。

 きっと明日はまた、窓際の席に座っているはずだ。

 机に頬を乗せ、髪を揺らしながら眠っているはずだ。


 私はただ、その姿を見ている。

 それだけで、世界は色を発すのだから。



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