第3話 秘密の愉しみ




 朝の教室は、やっぱり静かだ。


 まだ始業の鐘までは時間がある。窓から射す光は白くやわらかく、机の木目に淡い影を落としている。



 私は今日も机に突っ伏して、狸寝入りをしていた。



 昨日──麗花と鈴音が、どうして私を好きになったのかを語り合っていたのを聞いてしまった。

 その衝撃はいまだに胸の奥で火照っている。二人が口にした言葉は、眠れぬ夜を何度も思い出させ、甘い熱を帯びさせた。



 そして今朝。

 私はまた、眠ったふりをしながら耳を澄ませている。



 今日も二人は早くから教室にいて、私の机のそばに立っていた。




「……綾乃さん、今日も髪が綺麗ね」



 最初に声を上げたのは鈴音だった。

 その声音には、愛おしさが隠しきれないほど滲んでいる。



「本当に……」と、麗花が低く応じた。

 彼女の声は冷静に聞こえるのに、どこか熱を帯びているように感じる。


 私は机に顔を埋めながら、胸がざわつくのを必死で抑えていた。


 髪。

 そう、私は自分の黒髪を気に入っているわけではない。祖母譲りで量が多く、扱いづらくて手入れに時間がかかる。朝の寝癖と格闘するのが毎日の悩みだ。


 けれど、二人にとっては違うらしい。




「私は……白川さんの髪が、一番好き」



 その言葉に、私は心臓を跳ねさせた。

 麗花が、はっきりと口にしたのだ。


「麗花さん?」

「ええ。たぶん、これは……私の『フェチ』なんだと思う」


 フェチ。

 自分に向けられた言葉があまりに直球で、私は思わず目を開けそうになった。机に額を押しつけて、必死に呼吸を整える。


 麗花は、静かな声で続けた。


「授業中、白川さんが真剣に板書を写すとき……必ず髪を耳にかけるでしょう? その仕草を見るたびに、胸がざわついて仕方ない」


 ──そんなところまで見られていたなんて。

 私は心の中で悲鳴を上げる。けれど同時に、くすぐったい喜びが込み上げてきていた。




「それに、体育の時間。髪を結んでポニーテールにするでしょう? 普段は下ろしているからこそ、その姿が新鮮で……目を奪われてしまう」



 私は思わず頬を覆いたくなった。

 体育のとき、邪魔だから仕方なく結んでいるだけ。汗で首に髪が張り付くのが嫌で、ポニーテールにしている。

 それをそんなふうに見られていたなんて。



「走るたびに黒い髪が揺れて……光を反射するたび、心が止まるみたいになるの」



 麗花の声は、冷静さを装っているのに、熱が隠せていなかった。




「香りも……そう。すれ違ったときに、ふわりと漂う香りに気づいてしまう。甘すぎず、でも清らかで。……白川さんの匂いだって分かる」


 私の耳は真っ赤になっていた。

 髪の香りなんて、シャンプーの匂いにすぎない。夜に洗ったときの残り香が、まだ残っているだけ。



 なのに、麗花はそれを「私の匂い」と断言している。

 そんなふうに意識されていたなんて、恥ずかしくて、でも嬉しくて。




「風に揺れる瞬間も、好き。窓際の席で、春風に髪がなびくとき……その姿は、ただ見ているだけで心を奪われる」



 麗花の言葉は、まるで一つひとつの瞬間を記録してきたかのように具体的だった。

 彼女がどれほど私を観察していたのかが伝わってきて、体温が急上昇していく。


「……麗花さん、あなた、本当に髪の毛ばかりね」


 鈴音がくすりと笑った。


「でも分かるわ。確かに綾乃さんの黒髪は、とても艶やかで美しいもの」


「私は隠せない。……白川さんの髪を見ると、触れたくて仕方なくなる」



 その一言に、私は心臓を握りつぶされるような衝撃を受けた。


 触れたい。

 麗花が、私の髪に。


 頭の奥で鐘が鳴るように、耳が熱くなる。




「……でも、我慢している」


 麗花が小さく続けた。


「今は、ただ見ているだけでいい。……いや、本当は、触れたいけど」


 その声は、かすかに震えていた。冷静な彼女が感情を抑え込むようにしているのが分かる。


 私はもう、頬が熱で焼けそうになっていた。

 狸寝入りをやめてしまえば楽になるのに、できない。


 だって──私も、聞きたいのだ。

 もっと、麗花がどんなふうに私を見ているのか。

 もっと、鈴音がどんな気持ちで笑っているのか。


 それを知ることが、こんなに心を震わせるなんて、思いもしなかった。




「麗花さん……」


 鈴音が静かに息をついた。



「あなたがそこまで髪に惹かれているなんて、初めて聞いたわ。でも……私はそれが嬉しい。だって、私も同じように惹かれているから」


「鈴音も?」

「ええ。私は髪だけじゃないけれど……でも、あの艶やかさは、誰も真似できないもの」


 二人の言葉が交わり、私は心の奥で溶けていく。

 私の黒髪が、二人にとって特別な意味を持っている。

 そんな事実が、どうしようもなく愛おしい。




 私は机に突っ伏したまま、静かに笑みをこぼしそうになるのを必死でこらえた。

 もし今、顔を上げたら……きっと涙で目が潤んでいるのがばれてしまう。


 でも、それでいいのかもしれない。


 私は、嬉しいのだ。

 誰かにこんなふうに想われていることが。

 しかも、それが麗花と鈴音だということが。


 だから私は、明日もまた狸寝入りを続ける。

 二人の言葉を、もっと聞くために。

 自分でも知らなかった自分を、彼女たちの言葉で知るために。


 眠ったふりをしながら、私は心の奥でそっと呟いた。



 秘密の愉しみ。これは、私だけの時間。

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