エピローグ 調理場から見える命
義母が「さくらの森」で旅立ってから、私はしばらく心の整理がつかなかった。
あの静かな別れ、あの痛みを伴った葛藤——そして、あの笑顔。
それらは、私の中でずっと揺れ続けていた。
既に現役を退いていたそんなある日、私はふと、老人介護施設の調理パートを希望してハローワークに行った。
「食事で、ご老人の一日を支える」
その決意だった。
義母が過ごした施設で、毎日出されていた温かい食事。
中島さんが「大島様の今日は好きな煮物を少し多めにしました」と笑っていたこと。
明石施設長が「食事は、心をつなぐものです」と語っていたこと。
それらが、私の記憶の中で静かに灯っていた。
私は、調理の仕事を始めた。
包丁を握りながら、義母の笑顔を思い出す。
味噌汁の香りに、家族の記憶が重なる。
刻んだ野菜のひとつひとつに、命への祈りを込める。
厨房からは、入居者の笑い声が聞こえることもある。
フランス料理やイタリア料理の日には、「これ何て言うんだい? こんなの初めてだよ。今日もおいしいね」と言ってくれる声が、壁越しに届く。
その声に、私は何度も救われた。
義母の最期を見届けたあの日。
私は「命に寄り添うとは何か」を知った。
それは、医療の技術でも、制度の枠でもなく——
人の手で、心で、支えることだった。
厨房から見える命は、静かで、尊い。
食事は、命の終わりまで続く営み。
その一皿が、誰かの一日を支え、誰かの記憶になる。
私は、義母や私を育ててくれた祖母のために始めたこの仕事を、今は辞めている。
そして、あの日の「さくらの森」の午後を、ずっと胸に抱いている。
——命に寄り添う人たちへ。
ありがとうございました。
つづく
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