16話

16

 同じ水曜日の夜。

 窓の外は真っ黒で、遠くには細い三日月が出ていた。

 高下が勤務するフロアには誰一人残っていないようで、照明を消して役職者が管理する電子キーで施錠する。

 退勤のタイムカードを切った途端、急にタバコが吸いたくなってきた。そのまま階段を降りて、社内の喫煙所に向かって、ガラスのドアを開けて電気を点ける。

 タバコを取り出して、ライターを仕事用のカバンから出そうとしたが──。

 ない。カバンの中の小ポケットにいつもは入れているが、なかった。

(家に忘れてきたか……。今日は吸いたい気分だったけど……)

 右手で咥えたタバコを箱に戻そうとすると。

「はい、これ」

 誰かがライターを貸そうとしてきた。

 高下は見上げる。

「ライター忘れてきちゃった? 貸すよ、瑞季」

「東弥……」

 黒いコートを着た、にこやかな笑みを浮かべる人物。

 榊だった。

「お疲れ。偶然だな。オレも帰るところだったんだけど、瑞季のこと見かけて一緒にタバコ吸おうかなーって思って、入ってきちゃった」

「君、転職してきたばかりだろ。なんでこんな時間まで……」

 役職のある高下はパーテーションの向こう側、現在は平社員の榊とは隔てた場所にデスクがあるので、残っているなんて全く気付かなかった。

「資料とか色々見てたんだよ。仕事で、皆の足引っ張らないようにね。オレが一番、今下っ端だからさ」

「謙遜をするな」

「いやいや、本当に。営業ならずっとやってたけど、オレ商品企画なんて初めてだし」

 そう言って榊は高下のタバコに火をつけ、自分もタバコを吸い始めた。

 榊は自らを下っ端、と卑下するが、仕事の飲み込みは早い。入社して三日ほどしか経っていないのに、もう課内の社員に頼られているのを高下は見かけている。

 営業部の同期時代からそうだ。

 有能でリーダーシップがあって、コミュニケーション能力が高くて分け隔てなく皆に優しい。他人と関わるのが上手い。

『高下くん、だよね? いつもA定食頼んでるよね。好きなの?』

 二人が二十三歳ほどの頃。

 仕事はできるが、実は内向的で周囲の妬みにより遠巻きにされて一人でいた高下にも、ある日榊が話しかけてきて徐々に仲良くなったことを思い出す。

 高下は同性愛者で、榊は両性愛者。

 仕事ではライバルで時にプレゼンで協力し合い、私生活では親友と呼べる間柄になって、互いに男性が好きになれることが共通項だと分かり、恋愛の話などして親密になっていくうちに恋人同士になった。

(懐かしいな……)

 ふ、と高下はタバコを吸いながら笑った。

 そのまま世間話を続ける。

「君がいなくなって、前の会社の営業部は泡吹いてそうだな。東弥が退職するってなった時、かなり渋られただろう」

「うーん? まあ、普通だったよ。あ、でも! 送別会は盛大にやってもらったかな。男の後輩が泣きながら抱きついてオレのスーツに鼻水つけたりして宥めるのが大変だったよ」

「ははっ……なんだそれ」

 人から良く好かれる榊のエピソードに、高下が笑う。

「……本当、勿体ないよ。東弥だったらあの会社で出世できただろう……。なんでうちに来た……」

 高下は本心から榊が以前の大手化粧品メーカーを辞めたことを惜しんだ。

「……履歴書に書いた通りだよ。ノルマ競争するより商品を作る側に回って、人を幸せにしたいなって」

 榊は高下の言葉に眉を下げて笑い、タバコの煙を吐く。

「……瑞季も分かるだろ? あの会社で何人もノルマがきつくて、辞めてさ……仲良かったやつもいなくなって。オレ、見てらんなくて。心機一転? そしたら、瑞季がいてびびったわ」

 高下は榊らしい答えだ、と思った。

 その優しさに、かつて救われていた。

 高下は物心ついた時から同性愛者で報われない恋ばかりしていたことや、大学時代に初めて付き合った彼氏は性的指向が曖昧なまま付き合ったが、結局女性が好きだったということが判明して別れた苦い思い出を話した時に真剣に悩んでくれたこと。

 周囲に「取引先の女性相手に枕営業している」という事実無根の噂で煙たがられ、辛い思いをしていた頃に必ず抱きしめて「オレだけは瑞季を理解してるよ」と伝えてくれたこと。

 榊の性格を考えたら、同僚たちの境遇が見ていられなかったのだろうな、と容易に想像できた。

(東弥は変わらないな)

 黙っていると、「瑞季」と榊に名前を呼ばれる。

「そんな辛気臭い話は止めてさ、次の土曜日に博物館行かない? ピラミッドの発掘物の展示会やってるんだって! 瑞季はこういうの、好きだったよな?」

 榊はスマートフォンのホームページを見せて、明るく振る舞い誘ってきた。

「土曜日……」

「どう? 先約、あったりする?」

 ──いつも、土曜日は……中島くんと遊んでいたな……。

 向太郎とラブハニの動画を見たり、互いの趣味をし合ったことが頭の中に蘇る。

 ふと高下は向太郎と今絶交中だったことを考え込み、胸がズキッと痛くなった。平静を保つためにタバコを吸う。

(い、いや……。もう彼とは連絡してないんだ……。そもそも、恋人でもなんでもないのに義理立てする必要はない……)

 ──元恋人といえど、東弥とは今はただの上司と部下だ。友達に戻った。何もやましいことはない……。

 高下はそう結論付けて、答えた。

「……いや、暇だよ。是非、見に行きたいな」


 * * *


 「瑞季っ!」

 土曜日、十五時。博物館の最寄駅。

 紺のダッフルコートに、黒を基調としたチェック柄のマフラーという出立ちの高下に、榊が声をかけてきた。

 榊はキャメル色の長めのチェスターコートにデニムズボン、プライベート用の黒い短いブーツを着用している。

 長い手足がよく映える。ファッション雑誌から出てきたような装いだった。

 蜂蜜のような甘い笑顔を振りまいて、榊が高下に小走りで近づく。見た目はモデルのようなのに、ゴールデンレトリバーのような愛嬌だ。

「じゃあ、行こっか」

「……ああ」

 高下が返事をする。榊と並んで、博物館に向かった。


 二人で博物館のピラミッドの発掘物の展示を見た後は、中途採用になってから職場により近い場所に引っ越ししてきたという榊のために、博物館の近くにあったこじんまりとした雑貨屋を見つけて、食器を選び買う。

 そうしているとすっかり夕暮れになった。

 そもそも、今日は榊が「懐かしいところに連れて行ってあげる」と言って、遅めの時間帯に博物館に行ったのだ。

(懐かしい場所ってなんだ……?)

 高下は榊のあとをついて電車を乗り継いでいきながら、疑問に思った。

 そうして到着した先は、店内が薄暗くてレトロで落ち着いた雰囲気のあるバー。

 隠れ家的で、中は案外と広いが店員は二、三人程度だ。

「ね? 懐かしいだろ?」

 隣で榊が笑みを浮かべて訊く。

 そのバーは二人が営業職の同期だった頃、仕事帰りに飲みに行ったバーだった。

「まだ、あったんだな……」

 店内に入る。

 あの頃と同じ喫煙席のテーブルを選んで座って、酒を頼んだ。

 注文した酒が来ると、榊が「再会したことに乾杯」と言ってグラスを近づけた。

「今日はどうだった? ほとんど、昔お前と遊んだところばっかり選んだんだよ」

「そうだな。懐かしかったよ」

「楽しかった?」

「勿論」

 高下は微笑んだ。そうすると、榊は垂れ目を下げてはにかみ「良かった」と嬉しそうにしている。

「あ、でもさ。一つだけ回れなかったね」

「……どこにだ?」

 高下が尋ねると、榊は愛しそうな目で見つめてきてふっと笑う。

「……映画館のレイトショー。古い映画のリバイバル上映」

 その答えに、高下は酒にはまだそこまで酔っていないはずなのに頬が赤くなった。

 仕事帰りや休日の夜。映画好きの高下のため、と榊は言ってよく二人で映画館のレイトショーをデート場所としていた。

 映画のスクリーンを見ていると、時折榊が高下の手を恋人繋ぎにしてくる。

 照れていると、「お客さん少ないし、いても誰も気にしないよ」と榊が悪戯っぽく囁いてくるのが定番。交際していた頃の甘い記憶だ。

 デートはいつも決まったパターンだ。

 映画館のレイトショー、家でのデート、博物館や美術館巡り──。

 榊は高下が好む静かな趣味によく付き合ってくれた。

 一度二十四か二十五歳頃、榊の趣味に合わせようとしたが前職場での悪意ある噂と中傷、二人の目立つ外見により向けられる大衆の好奇の視線に過度のストレス反応が襲った。青ざめ、今にも倒れてしまいそうな高下に榊はすぐ気付き、その日は退散。

 その後は榊が付きっきりで看病してくれた。それ以降、デートは賑やかな場所では行われなくなったのだ。

 榊は「優しくて、いい彼氏」だった。誰が見てもそうだろうし、高下自身も感謝していることが多々あった。

 では、なぜそんな二人が別れてしまったのか──。

「……東弥、怒ってないのか?」

「ん? 何のこと?」

 高下は重い口を開く。

「俺が……キャリアアップしたいって、アメリカ勤務を黙って選んだこと。喧嘩別れしたから、てっきり俺のことは憎んでいると思った。中途採用者として入社してきた君がなんでもない風に接してくるから驚いたんだ……」

 ぽつぽつと少しずつ話す。

「……ああ、まあ。あの時はね、オレも子どもだったんだよ。遠距離恋愛になるし、瑞季と離れたくなかったんだ。ずっとお前と仕事して、遊んで、恋愛してると思ってたから受け入れたくなかったんだ。瑞季の夢を知ってても、どうしてもね……」

 榊は困ったように笑う。

「……誰が悪いわけじゃない。考え方が違って、ぶつかっただけだ。その後、瑞季が帰国した時ちゃんと話し合いたいって思ったら、違う会社にすぐ転職していなくなっちゃったじゃん。弁解の機会がなかったんだ……」

 実はさ、と榊は少し躊躇った。

「……入社理由。中途採用の履歴書に書いた、人を幸せにしたいから商品企画希望したって志望動機もあるけど。この間転職先に偶然瑞季がいてびびったって言ったろ? あれ、嘘吐いた」

「え? どういうことだ、東弥」

 切羽詰まったような表情の榊。そのまま話を続ける。

「……お前と別れて、ずっと未練があって。偶然取引先の人がぽろっとお前の今の勤務先を口にしたんだ。そしたら、もう一回お前に会いたいって思って……一か八かで今の会社に転職したのも、ある」

「え……」

 その後の高下の反応を見て、榊はすぐに慌てる。

「ご、ごめんっ。……ストーカー、ってやつだよな、これじゃ……。キモいよな、自分でも思ってる……」

「あ、いや……」

 安定した職歴を捨ててまで一途に自分を追ってきた、という危うさもあるような告白に高下は戸惑う。

 少しの気まずい沈黙。

 すると、榊は「瑞季」と切なげに手を重ねて、まっすぐ見据えてきた。

「オレ、まだ瑞季が好きなんだ……。ヨリ戻したい。……瑞季はオレの人生にとって、宝物なんだ」

 熱烈な愛を告げる。

 榊の焦げ茶色の瞳は、蕩けて高下に懇願する。

 吸い込まれるような瞳。

 時折榊にこのように懇願されると、高下は何でも望みを叶えてあげたい気持ちになり頷いてしまっていた。客観的に考えて、性的指向が合い長年気の置けない親友兼恋人だった榊と再び交際したほうが、苦悩のない幸せな恋愛ができるだろう。

 ──ただ、現在いまは心が理屈に追いつかない。

(やっぱり俺は……まだ、中島くんが好きなんだ……)

 高下は申し訳なく思いつつも、もしもこの重ねている手の先が向太郎だったなら──と仮想していた。



 

 






 

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