第20話 上奏
田中首相の報告を聞く天皇は、釈然としない表情だった。それに気づいたのか
「事件の詳細は、後刻陸軍大臣から上奏させます」
と田中は続けた。
「そうか」
昭和天皇は、短く答えた。
「犯人が陸軍の関係者であった場合
は軍法会議で処分を決めます」
緊張と恐怖で、田中の声は震えていた。
「特に軍規は厳重にせよ」
天皇が注文をつけた。
「仰せのとおりにいたします」
天皇の前から下がった田中首相は、官邸に戻ると閣僚たちに上奏の内容を正確に伝えた。しかしここで大きな陸軍批判が起きてもおかしくなかったが、右翼や保守派の有力者が、野党民政党幹部威嚇した結果、議会はこの問題に沈黙した。しかも事態は、思わぬ方向に進んでいく。
陸軍省の調査に対して河本大佐は悪びれるふうもなく、恬淡と事件の詳細を語り
「私が計画を練り上げました」
と供述した。加えて自分を軍法会議にかけた場合、これまで軍上層部が行ってきたいろいろな謀略を全て白日のもとにさらす覚悟と恫喝した。一人の佐官を直ぐに死刑にすればいいところ、何故かこの一言で腰くだけとなった。田中が
「犯人が陸軍関係者と判明した際には軍法会議にかける」
と言上した後、陸軍若手将校や右翼支持者が多い久原房之助逓信相、超保守派の小川平吉鉄道相らから「陸軍出身者でありながらどうして軍人を守ってやらぬのか」と、激しい突き上げを受けたためといわれている。田中義一は、身内の陸軍を庇うことは問題だとは承知していた。それ故田中は、軍隊の中で長年勤務して軍人の気質を熟知していた。彼にとって陸軍は、低い身分の自分を出世させてくれた大恩人である。その恩を仇で返すことは、軍人気質の任侠が許さなかった。軍人は死ぬ覚悟が時に必要であり、仲間との連帯や助け合いで気持ちを落ち着かせたりすることがある。加えてこの頃の陸軍内には、下剋上の雰囲気が強まり始めていた。
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