第15話 夏への返信
僕の脳は、その処理能力の限界を、おそらく、とっくに超えていた。
指先で冷たく光るスマートフォンの画面。そこに表示された、たった一行の、しかし、僕の世界を揺るがすには十分すぎるほどの破壊力を持った文字列。
『――で、先生。夏休み、暇してる?』
僕は、その古代の象形文字か何かのように難解な問いかけを、ただ、呆然と見つめていた。これは、質問ではない。断じて。これは、召喚状だ。あるいは、これから僕が踏み込むことになる、広大な地雷原への、親切で、そして、極めて悪質な招待状だ。
「暇してるか?」という問いは、YESかNOという、単純な二進法で答えられるものではない。その短い文章の裏には、無数の面倒な未来と、巧妙に仕掛けられた無数の罠が、隠されている。僕の脳は、その全ての可能性を瞬時にシミュレートし、結果、ショートした。完全に、思考が停止した。
僕の周囲では、世界が、猛烈なスピードで動いていた。
「うおおおお、夏休みだああああ!」
「カラオケ! 今からカラオケ行こうぜ!」
「誰か、宿題見せて!」
テストという名の、長くて退屈な戦争が終わり、僕のクラスメイトたちは、狂喜乱舞していた。椅子が床を引っ掻く甲高い音、誰かが机を叩くパーカッションのような響き、意味もなく発せられる奇声。それら全ての音が、湿度の高い夏の空気の中で混じり合い、巨大な、混沌とした熱狂の渦を作り出している。
その熱狂の渦の中心で、僕だけが、一人、静かなデジタルの世界に囚われ、完全に、時間を止められていた。まるで、激流の中に突き立てられた、一本の杭のように。
結局、僕は、その日、返信ができなかった。
担任が何かを話していたが、その内容は、右の耳から入って、左の耳へと、何の抵抗もなく通り抜けていった。その後の終業式も、体育館の、蒸し風呂のような熱気と、校長の、催眠術のように単調な声の中で、僕は、ただ、意識を失わないようにするので、精一杯だった。
僕のポケットの中で、あのメッセージは、まるで時限爆弾のように、静かに、しかし、確かな存在感を放ち続けていた。
そして、夏休みが始まった。
僕の部屋の窓の外では、蝉が、まるで世界の終わりを告げるかのように、やかましく、そして単調に鳴き続けている。天井の扇風機が、きい、きい、と、気怠い音を立てながら、部屋の淀んだ空気を、ただかき混ぜている。
夏休みが始まって、三日目。僕は、この三日間、桐谷美咲への返信内容に、僕のこれまでの人生における、全ての悩みを合計したよりも、さらに多くの時間を、費やしていた。
僕の脳内では、連日連夜、緊急対策会議が開かれていた。議題は、もちろん、『対桐谷美咲・夏休み編』。
まず、選択肢A:『暇だよ』と、正直に、そして無防備に返信する。
これは、自殺行為に等しい。この返信を送ったが最後、僕は、この夏休み、彼女の専属の、奴隷兼執事兼ポーターとなるだろう。僕の脳裏には、高級デパートの紙袋を両手に満載させられ、汗だくで彼女の後をついて歩く、惨めな自分の姿が、4K画質で鮮明に映し出された。却下だ。
次に、選択肢B:『悪い、忙しいんだ』と、見え透いた嘘をつく。
これもまた、危険な賭けだ。彼女は、きっと、僕たちの間の、あの不平等極まりない契約書を、持ち出してくるに違いない。『彼氏役の協力要請を、断るんだ?』と、あの氷のように冷たい声で、僕を詰問するだろう。僕に、勝ち目はない。却下だ。
最後に、選択肢C:既読無視。
論外だ。それは、女王陛下からの謁見の招待を、無視するに等しい。僕が次に学校に行った時、僕の机が、存在している保証はない。
追い詰められた僕が、三日三晩、不眠不休で考え抜いた末にたどり着いた、唯一の、そして、究極の答え。
それは、『まあ、それなりに』という、極めて曖昧で、日本人的で、そして、逃げ道しか用意されていない、完璧な返信だった。
これならば、どうだ。暇でもなく、忙しくもない。この返信を受け取った彼女は、きっと、僕という人間の、その捉えどころのなさに、呆れて、興味を失うに違いない。
僕は、自分の導き出した、この天才的な回答に、一人、満足げに頷いた。そして、震える指で、その六文字を打ち込み、送信ボタンの上に、指を置いた。
僕の、平穏な夏休みを、守るために。僕が、深呼吸をして、そのボタンを押そうとした、まさに、その瞬間だった。
ピコン。
僕の部屋の静寂を、無慈悲に切り裂いて、画面の上部に、新しいメッセージが、ポップアップした。
送り主は、もちろん、桐谷美咲。そこに表示されていたのは、僕の、この三日間の、血の滲むような努力と葛藤を、嘲笑うかのような、あまりに単刀直入な、二つの単語だった。
『まだ生きてる?』
その、あまりに単刀直入で、少しだけ呆れたような響きを持つ催促は、僕がこの三日間、血の滲むような努力を重ねて築き上げてきた、思考の防壁を、いとも簡単に、木っ端微塵に粉砕した。
僕の脳内で、最終防衛ラインが突破されたことを告げる、けたたましい警報が鳴り響く。
もう、ダメだ。考えるな。考えるだけ、無駄だ。僕の指は、もはや僕の意志とは関係なく、半ばパニックに陥った兵士のように、震えながら、降伏の白旗を打ち込んでいた。
『生きてる。暇もたぶん、ある』
句読点の打ち方すら、しどろもどろだ。情けない。情けなさすぎる。僕の、この三日間の苦悩は、一体、何だったというのだ。
僕が、送信ボタンを押した瞬間の、あの虚しさと敗北感を、言葉で表現することは、おそらく不可能だろう。
そして、僕のその惨めな降伏宣言に対する、彼女からの返信は、即座に、そして、一切の躊躇なく、僕の画面に叩きつけられた。
『じゃあ、来週の土曜、空けといて。駅前に夕方六時集合』
早い。早すぎる。まるで、僕が降伏するのを、画面の向こう側で、確信を持って待ち構えていたかのようだ。
その、有無を言わせぬ、完璧に一方的なスケジュール決定。僕には、YESかNOかを選ぶ権利すら、与えられていないのだ。
僕が、そのあまりの理不尽さに、何か反論の言葉を打ち込もうと、指を置いた、その時だった。
彼女は、僕に、反撃の隙すら与えることなく、さらなる、追加の爆弾を、僕の脳天へと、投下した。
『浴衣、持ってる?』
ユカタ。
僕の脳は、その三文字のカタカナを、数秒間、うまく認識することができなかった。
浴衣。
それは、僕の人生において、これまで一度も、縁のなかった単語。僕の辞書には、載ってはいるが、その意味するものが、あまりに非現実的すぎて、一度も使われたことのない、死語のような言葉。それは、僕のような「背景モブ」ではなく、夏という季節の「主役」たちだけが、身につけることを許された、特別な装備のはずだ。
僕の思考の回路が、火花を散らしながら、ようやく、一つの結論へとたどり着く。来週の土曜の夕方。そして、浴衣。
この二つのキーワードが結びついた時、導き出される答えは、一つしかない。僕は、震える指で、ほとんど、確認作業のような、弱々しい問いを、打ち返した。
『…夏祭り?』
僕の、そのか細い問いに対する、桐谷美咲からの最後の返信は、やはり、僕の予想の斜め上を、軽々と飛び越えていった。彼女は、僕の質問に、答えない。肯定も、否定もしない。
ただ、この物語の、絶対的な支配者は、どちらであるのかを、僕の骨の髄まで、思い知らせるかのように、無慈悲な一言だけを、画面に残していった。
『彼氏役、よろしく』
僕は、そのメッセージを最後に、スマートフォンを、ベッドの上へと、放り投げた。
柔らかいシーツの上で、僕のスマホが、ぽん、と虚しい音を立てて、一度だけ跳ねる。終わった。完全に、終わった。僕の、ささやかで、平穏な夏休みは、今、終わりを告げたのだ。
僕は、天井を、仰ぎ見た。
古びた照明器具が、まるで、僕の未来を嘲笑うかのように、ぼんやりと、僕のことを見下ろしている。
新しい問題が、山積みだ。まず、第一に、浴衣などという、上級者向けの装備は、持っていない。
次に、第二に、人混みが、死ぬほど、嫌いだ。夏祭りなどという、人間の欲望と熱気が凝縮されたような空間は、僕にとって、地獄そのものだ。
そして、何よりも、第三に。
学校の外、あの街のど真ん中で、あの桐谷美咲の「彼氏役」を、一体、どうやって演じればいいというのだ。僕に、そんな高等技術が、備わっているはずがない。
僕は、ゆっくりと、体を起こすと、まるで夢遊病者のように、クローゼットの扉を開けた。そこには、僕の個性というものを、完璧に表現した、代わり映えのしない、色の抜けたTシャツと、くたびれたジーンズが、行儀良く、並んでいるだけだった。
浴衣なんてものが、この、僕という人間のアイデンティティが詰まった空間から、出てくる可能性は、ゼロだ。
外では、蝉が、僕の運命を、そして、この夏に起こるであろう全ての面倒事を、祝福するかのように、あるいは、嘲笑うかのように、ジージーと、やかましく、鳴いていた。
僕の、とんでもなく面倒で、そして、おそらく、とんでもなく眩しい夏休みが、こうして強制的に、始まってしまった。
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