第13話 期末テスト前日
期末テストの前日。
放課後の教室には、これまで僕たちが共有してきたどの時間とも違う、特殊な種類の空気が満ちていた。それは、まるで大きな嵐が来る直前の、不気味なほどの静けさに似ていた。
僕たちの間に、もうあのコミカルな軽口はなかった。ノートの端の、間の抜けたウサギの落書きも、今は固く閉ざされたページの向こう側だ。窓の外はとっくに暗くなり始め、教室の中だけが、蛍光灯の、青白い光に支配されている。聞こえるのは、参考書のページをめくる乾いた音と、時折、僕が要点を説明する、低い声だけ。
明日から始まる「決戦」を前に、僕たちは、ただ黙々と、最後の砦を築き上げる作業に没頭していた。
僕はこの数週間で、自分の中に起こった、信じがたい変化に気づいていた。
いつの間にか、僕は、ただの「偽の彼氏役」という、与えられた役割を演じているだけではなくなっていた。僕は、本気で、目の前にいるこの少女の成績を、心の底から心配していたのだ。彼女が、もし、この古典という科目で、再び悔しい思いをすることがあれば、僕まで、自分のことのように、悔しいと感じてしまうのだろう。
それは、ひどく厄介で、面倒で、そして、僕らしくない感情だった。僕は、いつから、こんなにも他人の問題に、首を突っ込むようになったのだろうか。
「……よし。これで、試験範囲は、全部だ」
僕が、最後の単元の解説を終え、そう告げた時だった。張り詰めていた緊張の糸が、ぷつり、と切れたのが分かった。
桐谷美咲は、僕の言葉を聞くと、まるで全身の力が抜けてしまったみたいに、椅子の背もたれに、深く、深く、体を預けた。そして、これまでで一番、心の底から疲労が滲み出ているような、長いため息を、ふぅー…、と吐き出した。
「……終わった」
彼女は、燃え尽きたアスリートみたいに、そう呟くと、バタン、と大きな音を立てて、机の上に突っ伏してしまった。その金色の刺繍が入った髪が、使い古された参考書の上に、さらりと広がる。
「おい、大丈夫か」
僕が、思わずそう声をかけると、彼女は顔を上げないまま、机に反響した、くぐもった声で答えた。
「……疲れた……」
その声は、ひどく、か細い。
「頭、使いすぎて、もう、なんか……甘くて、温かいものでも飲まないと、一歩も、動けない……」
それは、僕に対する、明確な「命令」ではなかった。ただの、独り言。ただの、疲れ果てた少女の、小さな、小さな弱音。
しかし、その独り言のような呟きは、この静まり返った教室の中で、僕の鼓膜にだけ、はっきりと届いていた。そして、僕は、即座に、その言葉の裏に隠された、本当の意味を理解してしまった。
これは、彼女なりの、巧妙で、そして、少しだけ素直じゃない、「お願い」なのだ。そして、僕の行動を、僕の意志を、試しているのだ。僕の脳内で、警報が鳴り響く。これは罠だ。ここで彼女の思惑通りに動けば、僕は、さらにこの面倒な関係の深みへと、引きずり込まれてしまう。
しかし、僕の心は、僕の冷静な分析とは、全く違う反応を示していた。机に突っ伏したまま、ぴくりとも動かない、彼女の小さな背中。その姿を見ていると、僕の胸の中に、これまで感じたことのない、奇妙な感情が湧き上がってくるのを感じた。
僕は、心の中で、大きく、深く、溜め息を一つ吐いた。そして、まるで自分の意志ではないみたいに、無言で、席を立った。
僕が立ち上がる気配に気づいたのか、彼女が、突っ伏した腕の間から、面白そうに、片目だけで、僕のことを見ているのが分かった。その視線は、まるで、こちらの出方を窺う、猫のそれに似ていた。
夜の校舎は、昼間とは全く違う顔をしていた。蛍光灯が半分だけ灯された廊下は、どこまでも長く、そして薄暗い。僕の、ゴム底の上履きが床を擦る音だけが、不気味なほど大きく、静寂の中に響き渡る。まるで、ホラー映画のワンシーンみたいだった。
一階の昇降口の近くに設置された、自動販売機。その、ぼんやりとした四角い明かりが、暗闇の中で、まるで灯台のように、僕には見えた。僕は、その光に吸い寄せられるように、自販機の前に立つ。
「あたたか~い」と書かれた赤いラベルの下に、様々な種類の缶が並んでいる。おしるこ。コーンポタージュ。緑茶。
彼女は、一体、どれが好きなのだろうか。僕には、全く、見当もつかなかった。僕たちは、こんなにも長い時間を一緒に過ごしているというのに、僕は、まだ、彼女の好みを、何一つ、知らないのだ。
僕は、数秒間、そのボタンの前で腕を組んで悩んだ後、結局、最も無難で、最も当たり障りのない選択をすることにした。
僕は、小銭を投入すると、ミルク入りの、甘い缶コーヒーのボタンを、二回、押した。ガコン、ガコン、という、大きな音と共に、取り出し口に、二つの温かい缶が、転がり落ちてきた。
僕が教室に戻ると、彼女は、先ほどと全く同じ体勢で、机に突っ伏したままだった。本当に寝てしまったのだろうか。
僕は、彼女の机の横に、そっと近づく。そして、クールな物語の主人公みたいに、「ほらよ」などと言う勇気も、気の利いた台詞を言う才能も、僕には、持ち合わせていない。
僕は、ただ、無言で、彼女の頭のすぐ横に、ことり、と小さな音を立てて、缶コーヒーを一本、置いた。そして、虫の鳴くような、か細い声で、こう付け加えるのが、僕の、精一杯だった。
「……気休め」
その言葉に、彼女の肩が、ぴくりと、わずかに動いた。彼女は、ゆっくりと、本当に、ゆっくりと、顔を上げた。その頬には、机に突っ伏していたせいで、うっすらと赤い跡がついている。
彼女は、目の前に置かれた缶コーヒーを見ると、一瞬、驚いたように、大きく、目を丸くした。
そして、次の瞬間。ふわり、と、まるで、固いつぼみが、ゆっくりと綻ぶみたいに、彼女は、優しく、微笑んだ。
それは、僕がこれまで見てきた、彼女の、どの笑顔とも、違っていた。教室で見せる、完璧に計算された太陽の笑顔でもなければ、僕をからかう時の、悪戯っぽい小悪魔の笑みでもない。
ただ、心の底から、温かいものが込み上げてきたかのような、そんな、穏やかな、穏やかな微笑みだった。彼女は、その温かい缶を、まるで大切な宝物みたいに、そっと、両手で包み込むように持った。
「ありがと、先生」
そして、悪戯っぽく、片目をつむって、こう続けた。
「そっか。これは、頑張った私への、先生からの、最初の“ごほうび”ってことでいいんだ」
ごほうび、という、僕の辞書には載っていなかった、予想外の言葉の選択。僕が、彼女の巧妙な“お願い”に応えて行った、このささやかな行動が、彼女の手によって、全く違う、そして、ひどく甘やかな意味合いを持つものへと、鮮やかに塗り替えられてしまった。
その、見事なまでの、主導権の握り方に、僕の脳は、完全に、処理能力の限界を超えた。僕は、何も、言い返せない。
彼女は、楽しそうに「ごほうび、ごほうび」と、小さく呟きながら、缶のプルトップを、ぱちり、と開けた。
僕は、自分の手の中にある、同じはずの缶コーヒーが、なぜか、とんでもなく熱い、灼熱の塊のように感じられて、ただ、それを強く、強く、握りしめることしか、できなかった。
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