虎吹雪ちろり
@kata_sukasi
第1話 虎娘、土佐にて
※ちろり(瞬間的に、またたく間)日本の古語
1.鶴喜楼と新人女中
時は江戸時代の中期ごろ。
南海に面した土佐藩は、山は深く、川は早く、海は黒潮が香る。
藩主・山内家の治世のもと、城下・高知は武家の
ご城下の大通り
店構えは控えめだが、座敷は広く、出入りするのは藩士から商人、旅人まで多彩だ。
揉め事を起こさぬこと、出すものが真っ当に旨いことで評判を取っていた。
切り盛りするのは女将・お広。四十の
この春、そこへ新しい女中が奉公に上がった。
名は
「は、はいっ、お膳お運びいたします!」
声はひときわ明るい。だが次の瞬間、角で足を取られ、盆が傾いた。
「ひゃあっ……!」
汁椀が危うく座敷に落ちかける。
お雛は猫のように手を伸ばして受け止め、額に汗を浮かべて頭を下げた。
「も、申し訳ございません! すぐ拭きます、すぐ!」
先輩女中は苦笑して布巾を投げてよこす。
「またお雛かい。慌てるほど失敗するよ」
「はい……っ!」
主のお広が廊下の向こうから現れ、掌を軽く打って制す。
「謝るのは後。
まずはお客の顔を見るの。驚いた顔か、怒った顔か、それで言葉を替える――いいね」
「は、はい!」
「もうひとつ。角を曲がるときは一拍おくの。
躰を先に出しちゃダメ!、目を先に通しなさい」
お雛は耳まで赤くして頷く。
胸の奥で、別の“耳”がぴくりと動いた気がして、慌てて心を落ち着けた。
――危ない、危ない。
思い出すのは、お広だけが知る秘密。
お雛は身に危険が迫ると、躰の奥から獣が起き上がる。
牙は隠せても、指の末端にある爪は自然に伸びてしまう。
お広は言う、「虎にだけは、なるんじゃないよ」。
お雛は答える、「でも、勝手に……」。
二人だけの小さい約束が、胸の内側で静かに揺れていた。
2.藩士の火種
その日の黄昏、川風はむっと生温く、城下に夕餉の匂いが満ちていた。
鶴喜楼も早々に大入りだ。
蔵役人、塩屋の旦那、そして「
盃が進むほど声は大きくなる。
「土佐の料理は素材がよい。
だが、それに甘えて腕を怠れば、味はすぐ堕ちる――なぁ、女将」
挑むような視線と言葉に、お広は微笑だけを返す。
「お言葉、肝に銘じて」
そんな主のやり取りを余所に、お雛は徳利を盆に載せ、慎重に足を進める。
お広の言葉通り、角で一拍おいて、目で座敷を覗く。
教え通りの行動をだ。
ちょうどそのとき、表から荒い足音が重なって聞こえた。
ひゅっと風を裂く音、続いて怒声。
「離せ!、こっちこそ面子の問題じゃきに!」
開け放たれた戸から、別筋の外手侍の一団が争いながら土間へなだれ込んで来る。
互いの袖をつかみ、帯を引き、かたや手負いで血が滲んでいる。
通りで始まった
座敷の空気が凍りつき、女中たちは悲鳴を飲み込み、客は腰を浮かせる。
お広がすっと前へ出、店の者に目配せをした。
「お武家さま、ここぁ呑んで喰って浮かれる衆のたまり場でございます。
堅気の座敷で刀っ引きは野暮ってもんですよ」
いなせな言葉で諭すが、若侍は血気盛んで収まりがつかない。
「行燈を二つ落としな。暗くなれば少しは気が落ち着く」
長年飲み屋をやっている お広は修羅場に慣れているようで、こういった場合の対処も心得たものだ。
が、血の気に早った侍達は収まるどころか、さらなる乱闘に油が注がれる。
「……お雛、下がって」
「でも――」
「いいから」
だが遅かった。
お広の言葉が終わらない内に、揉み合いの弾みで、若侍の一人が座敷へ躍り込む。
肘が膳に当たり、盃が割れ、酒が飛ぶ。
「きゃっ!」
飛沫がお雛の袖を濡らし、別の男の手が彼女の肩を乱暴に押しやった。
「どけ!」
お雛は畳に膝をついた刹那、耳の奥で低い唸りが目を覚ます。
―だめ、だめ……今は――
お広が振り返り、首を横に振る「待ちなさい!!!!!」
侍の手が腰のものにかかる、抜かれる刃!、その冷たい光が、お雛の胸に火を入れた。
3.虎、影に潜む
明かりがふっと揺れ、娘の黒目に
白い指先は爪へと鋭く変じ、背筋を
川霧のような淡い光が肌を包み、風に舞う紙片が羽衣のごとくまとわりつく。
結わえられた髪がざわめき、解けた長い髪の毛が金色に輝く。
畳の上に虎の縞が映り込むかのよう。
少女の吐息は獣の唸りへ溶け、肌は月光を映して淡く輝いた。
刹那、人と虎の境がほどけ、座敷にただ一頭、幽玄の猛き獣が現れた。
人の姿をした虎…
視界が澄み、世界の輪郭がくっきりと浮かんで見える。
灯の滲みが消え、気配だけが立ち上がる。
膝から ふっと、力が抜け、次の瞬間には足裏のばねの力が戻っていた。
お雛の瞳が、金の輪郭に変わる。
一人目
瞬間、鞘鳴り。
若侍の右手首が外へ回る。
床。風。息。
お雛は斜めに踏み込み、刃の抜け際を爪で弾く。
金属が鳴き、切っ先は
「なっ――」
侍の驚きの声に合わせ、左掌を相手の肘に当て、腰を切って引く。
倒れた侍の肘が畳を打ち、刀がころりと離れる。
二人目
続けざまに、背後の男が突っ込んで来た、逆手の突き。
お雛は膳台を足で蹴って前へ滑らせ、刃先を一拍遅らせる。
その間に身を沈め、膳台の下をするりとくぐる。
立ち上がりざま、掌底を胸骨に当てて“息だけ”抜く。
男は白目を剥き、静かに崩れた。
三人目
袈裟に振り下ろす大振り。
雛虎は避けない。
内へ入る。
柄頭に指を添え、前腕の内側に自分の前腕を滑らせ、刃筋を“殺す”。
肩が詰まった瞬間、帯の下へ膝を軽く当てて重心を奪う。
ぶつ、と小気味よい音で畳が沈み、男は仰向けに倒れる。
喉には触れない。
帯を解かず、ただ手首を極め、刀を遠ざける。
行燈がまた二つ、ぱっと落ちた。暗闇になった。
それは虎の世界。最もよく視える領分。
四人目が躊躇し、足を止める。
雛虎は一歩も寄らず、足運びだけで間合いを測る。
衣擦れの音、足裏の重み、喉の鳴り!!!全部が見える。
相手の視線が行燈の影へ逸れた刹那、畳の縁を爪で軽く弾く。
小さな音に反応して首が動く。そこへ前襟を指でとり、体勢を寝かせ、畳へ“置く”。
痛みは最小、屈辱は最大。
二度と立ち上がりたくない種類のやられ方を、正確に贈る。
最後に、最初に刃を抜いた男が吠え、真正面から来た。
お雛は行燈の影を回り込み、男の足の甲を踏み、痛みで刃筋だけを外へ反らせる。
手首を包む。握らず、包む。
肘を畳へ“誘う”。
腰で小さな円。
ばさり。
裃が広がり、刀が遠くへ転がる。
鳴ったのは、肉のぶつかる音ではなく、裃から空気が抜ける音だった。
静寂が座敷を包む。
お雛は息を荒げない。
荒げると気配が立つ。
爪は音もなく引っ込み、尻尾の幻が灯の影に溶ける。
指先の柔らかさが戻り、汗が人の皮膚に馴染む。
生き物の頂点に立つ虎の姿。
余裕と貫禄の姿。
畏敬の対象となる姿。
…が、誰にも見えていない。
見たのは、お広だけだった。
4.沈める言葉、ほどく息
お広は一歩前へ出て、座敷を見渡した。
「皆様、ご安心を。酒の勢いでの手違い、鶴喜楼にて預かりました。お怪我はございませんか。盃を新しく、ほどほどにお楽しみくださいませ」
言葉が蓋となって、ざわめきはゆっくり収まっていく。侍頭らしき男は気まずさに肩を落とし、手勢を引かせ帰っていく。
行燈が上げられ、灯が戻る。
割れた盃は片づけられ、濡れた服は裏で乾かされる。
見物した町人は「あの女中、身が軽かった」と笑って帰るだろう。
虎を見た者はいない。
ただ一人、お雛だけが、土間の陰でそっと膝を折った。
呼吸が薄くなり、視界の縁が黒く欠ける。
「だめ。まだ、片づけ……」
畳に触れた指が揺れ、お雛は小さく身を震わせた。
温かい手が、その手を包む。
「もういい」、お広の声。
「見たのは、あたしだけだよ」
「……ほんとうに、誰にも……?」
「誰にも」
その言葉で、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
お雛はそのままお広に身を預け、静かに気を失った。
5.介抱と約束
奥の小座敷。
窓の外では、海の匂いが夜に溶けている。
お広は濡れ手拭いでお雛の額を拭き、指先を揉み解していく。
爪の名残はまだ薄く硬く、肌の下の筋が微かに震えている。
「やっぱり、虎には させたくはないねぇ」
お雛のまぶたが、重たげに震えた。
「……なりたくて、なってるわけじゃ、ないんです」
「知ってるさ」お広は笑う。
「危ない匂いがしたら、先に動く。そういう体なんだろう」
「……けど、血が出るのは、もっと嫌で……」
「だから、あんたは人を殺さない。今日も、刃筋を外して、息だけ抜いた。
えらいよ」
お雛はかすかに笑った。
「お広さん、灯を落としてくれて……ありがとう。影が、たすかりました」
「影は役に立つ。人の目は明るいところばかり見る。だから、暗いところに “本当” を隠すのさ」
「……わたしも、そこに隠れていて、いいですか」
「隠すのは、あたしの役目。――あんたは、隠れていていい」
雨戸の外で、夜更けの虫が鳴く。
お広は灯をひとつ落とし、寝息の整ったお雛の髪をそっと
「土佐の虎娘。厄介で、可愛くて、強い」
声は、母のそれに似ていた。
「明日は、角を曲がる一拍を、もう少し長くしな。
虎にならずとも、立てる場はある」
布団に包まれた少女は、安らかな息で返事をした。
6.前口上のような余話
土佐藩城下に、虎の影あり。
そう噂する者はいる。
だが誰もその姿を見たものは居ない。
見たとしたら、それは影の濃さと女将の機転のせいで、気の迷いに過ぎぬ。
鶴喜楼では、時折、信じがたい身のこなしで場が収まる。
誰がやったか? 女将は笑って、
「うちの者が、少しばかり手際がよい」とだけ言う。
力は、牙を見せずにこそ効く。
秘密は、二人だけのものにしてこそ守れる。
そして物語は、今まさに始まったばかりである。
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