東京防災共創録 ―能登の教訓から都市を変える三十章―
共創民主の会
第1話 能登の傷痕、東京の決意
【一月五日】
羽田空港の滑走路が、まだ薄暗い。能登の空は、雪雲に閉ざされていたが、東京の朝は冷えきって、雲ひとつない。タラップを下りると、乾いた冷気が頬を刺した。まるで、あの瓦礫の匂いを払拭しに来たかのように。
都庁へ向かう車の中、私はスマートフォンの写真フォルダを開いた。輪島市の白米千枚田――隆起した田んぼは、まるで大地が怒りを爆発させた痕のようだ。四メートルも海が遠のいた。漁港は干潟と化し、船が横倒しになっている。朝市通りは、焼失の黒さだけが残った。私は、あの現場で、初めて「震度七」を数字ではなく、肌で理解した。
「知事、本日のスケジュールを。」
運転手の声に、私は顔を上げた。午前中は、都庁での幹部会議。午後は、総務局長との非公式協議。夜は――夜は、ただの時間だ。私が、玲子として、自分と対峙するための時間。
車窓に流れる、東京のビル群。一つひとつが、私の守るべき街の一部だ。三千万人が、私の判断に託して生きている。それが、重い。以前は、誇りだった。今は、ただ重い。
都庁十八階の執務室に入ると、伊崎危機管理監が、最新の被害報告を持って待っていた。
「能登半島地震。直接死者、二百二十八人。関連死者、二百四十一人。」
私は、報告書を手に取った。数字は、冷たい。しかし、関連死が直接死を上回るという現実は、熱い。高齢者の孤立死。避難所での体調不良。医療の途絶えた集落。私は、官僚時代の自分を思い出した。あの時、私は「防災計画」を作った。計画は、完璧だった。少なくとも、紙の上では。しかし、能登で私は、計画の外側で死んでいく人々を見た。
「伊崎監。東京でも、同じことが起きる。」
「知事、東京は能登とは違います。インフラも、医療も、はるかに――」
「違わない。」
私は、窓の外を見た。冬の東京湾は、灰色に沈んでいる。三十キロ圏――都心からそこまで離れただけで、陸の孤島は生まれる。電柱が倒れれば、道路が途切れれば、人は孤立する。能登で、金沢市から百キロ以上離れた集落が、十日以上も孤立した。東京でも、同じだ。
「私たちは、計画を作りすぎた。人々が、自分たちで守る力を、奪いすぎた。」
伊崎監は、眉をひそめた。彼は、プロだ。防災の、実務の。だから、私の言葉が、彼には不安に響いたのだろう。
午後、総務局長室で、安藤総務局長と非公式に会った。輪島塗の話になった。職人の八割が被災した。工房も、道具も、材料も、すべて海に流された。東京の伝統工芸も、同じリスクを抱えている。浅草の人形焼も、神田の錺細工も、ひとたび震度七が襲えば、同じ運命だ。
「知事、伝統産業は、地域の記憶です。記憶が失われたら、街も、死ぬ。」
安藤の言葉は、重かった。私は、東京の記憶を思い浮かべた。浅草の雷門、秋葉原の電気街、新宿の高層ビル――それらは、すべて東京だ。しかし、東京の本質は、そこではない。東京の本質は、あの、瓦礫の中で、炊き出しを始めた住民の姿だ。助けを待つのではなく、自分たちで、街を守る力。それが、東京だ。
夜、官邸の書斎で、私は一人になった。机の上には、能登で出会った被災者の手記がある。
『海が遠のいた。でも、私たちは、ここにいる。田んぼを直し、家を直し、街を直す。泣いている暇は、ない。』
私は、東京湾の写真を広げた。能登の隆起した海岸線と、重ねて見る。東京湾も、沈むかもしれない。隆起するかもしれない。しかし、東京が失うべきものは、海岸線でも、ビルでも、計画でもない。東京が失うべきものは、自分たちで守る力だ。
私は、スマートフォンを手に取った。杉野秘書に、メールを打った。
『杉野さん。明日から、東京を変える。共創、という言葉を、都民と、一緒に作ろう。計画は、都民と、一緒に作る。防災も、街も、未来も。』
送信ボタンを押した時、私は、初めて、知事としてではなく、玲子として、東京という街を見ていた。巨大で、冷たく、複雑で、しかし、どこかで、必ず、温もりを保っている街。それを、守るのは、計画でも、予算でも、知事でもない。都民自身だ。
私は、窓を開けた。一月の冷たい風が、部屋に流れ込んだ。それは、能登の雪風とは違う。乾いた、都会の風。しかし、その風の中に、私は、東京の息吹を感じた。三千万人の、息吹。彼らは、私を待っているのではない。私は、彼らと、共に歩き出す。それが、知事という役割の、本当の意味なのだろう。
私は、風に向かって、呟いた。
「東京を、変える。共創で。都民と、一緒に。」
その言葉は、冷たい風に乗って、夜の東京へと消えていった。しかし、私の中で、それは、確かに残った。一月五日という、一日の、終わりではなく、始まりとして。
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