第3話

第三章 呪縛の血(2058〜2059)


1. 微かな兆候


秋の終わり。

会議室で資料を束ねていた真知子は、額に走る痛みに資料を落とした。光がちらつき、文字が二重に滲む。

「大丈夫ですか」駆け寄るアシル。

「平気……少し頭が」


――これは腫瘍の序章。セラの声が記憶の底から蘇る。

「真知子の血は強い。しかし長くは持たない。命は削れるが、その子は強靭になる」


運命が、回り始めていた。


2. 公聴会――英雄と依存


共生法案をめぐる公聴会。

老いた元兵士が車椅子で証言台に立つ。

「私はもう死んだと思った。だが背に針が刺さった瞬間、視界が晴れ、恐怖が消えた」

首筋の古傷を示し、震える声で続ける。

「敵を退けたのは彼らだ。私は命を借りただけ」

静寂のあと、拍手と怒号が一斉に弾ける。

「英雄だ!」と「依存の証拠だ!」が同時に飛び交う。

廊下のテレビでは、アイドル転落劇と立入禁止条例のニュースがループし、世論は渦を巻く。


アシルはその喧噪の片隅で、真知子の横顔を見つめていた。


3. 告白


夜。

残業の静けさのなかで、真知子はぽつりと語り出す。

「母を……蚊人間に殺されたんです。最初は助けられた。でも、その後は違った」

真知子の母は、五年前に蚊人間と出会った。

最初は偶然だった。帰り道で体調を崩した母を助けたのが、ひとりの蚊人間だった。

彼は中指からビタミン、軽いドーパミンを与え、母はたちまち元気を取り戻した。


「あなたは命の恩人です」

そう母は笑った。数度の逢瀬を重ねるうち、母は彼に信頼を寄せていった。


だがそれは罠だった。

二度目、三度目の出会いで彼は密かに強度の脳内麻薬を注入し、血を吸い始めた。母は快楽と依存に囚われ、自らを差し出すようになっていった。


ある晩、母は路地裏で倒れていた。

真知子が駆け寄ると、顔色は青白く、腕には二つの小さな刺し痕。

「……真知子か……来たのね……」

うわ言のように呟くその目は潤み、快楽の残滓に震えていた。


その中毒は数か月のうちに母を廃人同然とし、やがて衰弱死へと追いやった。


「……お母さん……!」


母の最期を見届けた真知子は、胸に深い誓いを刻んだ過去がある。


アシルの胸を鈍い痛みが刺す。

それは知っていた過去だが、彼女の声の温度は、記録にはなかった。


4. 禁断


「それでも、僕はあなたを助けたい」

衝動は理性を追い越し、彼は彼女の手首を取り、中指の針をそっと当てる。

薬剤が流れ、微量のドーパミンが痛みを洗い流す。呼吸が整う一方で、彼女の瞳に憎悪が瞬く。

「やっぱり……あなたも同じ」

安らぎは呪いと紙一重。

アシルは唇を噛む。――救いの形で、鎖は締まる。


5. 恐怖という第三の針


日々、二人は憎悪と安堵の狭間で揺れた。

真知子は「敵」として拒みつつ、脳腫瘍の痛みに襲われるたびに、彼の針に寄りかからざるを得ない自分を憎む。

机に額を押し当てて呟く。「同じだ。母と同じ轍だ」

それでも、目が合えば心は不思議と静まる。

「これは違う」と唱える声の輪郭が、少しずつ溶けていく。


医師は告げる。「出産は危険だ。ほぼ不可能です」

沈黙のあと、真知子は言った。

「命が短いなら……あなたとの子を、この世界に残したい」


アシルは、母セラの幻影が微笑むのを感じながら、現実の涙で彼女を抱きしめた。

「呪いでもいい。僕は君を愛している」



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