第6話 祭り後の決意

 祭りの喧騒が、まるで遠い日の夢であったかのように過ぎ去っていった。あれほど境内を埋め尽くしていた人々の波は跡形もなく消え、提灯の明かりが一つ、また一つと落とされていく。後片付けに追われる数人の氏子たちの、小さな話し声だけが、夜のしじまに吸い込まれていた。


 すべての役目を終えた遥斗と琴葉は、普段着へと着替えた後も、名残を惜しむように神社の境内に留まっていた。熱気を失った境内は、けれど不思議なほどの静けさと清らかさに満ちている。空には冴え冴えとした月が浮かび、その青白い光が、拝殿の屋根や木々の梢を、まるで銀粉をまぶしたかのように照らし出していた。


 「……終わっちゃったね」


 どちらからともなく、二人は神社の入り口へと続く、あの長い石段に腰を下ろしていた。琴葉の呟きに、遥斗は「ああ」と短く応える。風が梢を揺らす、さやさやという音だけが、二人の間に流れていく。それは気まずい沈黙ではなく、共に大きなことを成し遂げた者だけが分かち合える、心地よい静寂だった。


 「怖かった。……最初は、本当に怖かった。足が震えて、逃げ出したくなるくらい」


 琴葉が、月を見上げながら、ぽつりぽつりと心中を吐露し始めた。


 「でも、遥斗君が手を握ってくれた時……不思議と、大丈夫だって思えたの。あなたの隣なら、ちゃんと前を向けるって。あの時、舞台の上から見た景色、一生忘れないと思う。みんなの顔が、すごく優しくて……温かくて」


 その言葉は、遥斗にとって何よりの褒章だった。彼女を恐怖の淵から救い出せたこと、そして、彼女が自分と同じ景色を見て、同じ温もりを感じてくれていたこと。その事実が、遥斗の胸を深い幸福感で満たしていく。彼の未来に、彼女がいるという現実が、もはや揺らぐことのない確信へと変わっていくのを感じていた。


 「橘さん」


 遥斗は、覚悟を決めたように、彼女の名前を呼んだ。琴葉が不思議そうにこちらを向く。月明かりに照らされた彼女の横顔は、憂いの影がすっかりと消え、穏やかな光を湛えていた。


 「あの儀式の最中、俺、心の中で誓いを立ててたんだ」


 「誓い……?」


 「ああ」と、遥斗は一度、強く頷いた。そして、彼女の瞳をまっすぐに見つめ、一言一句、心を込めて言葉を紡ぐ。


 「今は、代役だ。けれど、いつか必ず、本当の夫婦として、もう一度あそこに立つ、って。……橘さん。俺は、本気だ。今日のことは、ただの思い出にしたくない。あんたの過去も、不安も、全部俺が受け止める。だから……この先の未来も、俺の隣にいてほしい」


 それは、高校生の恋愛の域を遥かに超えた、あまりにも真摯で、重い、魂からの告白だった。遥斗が、あの儀式の最中に立てた誓い。それを今、こうして言葉にしてくれたことの意味を、琴葉は痛いほどに理解していた。

 かつて、あれほど恐れていた「結婚」という言葉。それが今、遥斗の口から語られる時、不思議と、恐怖は微塵も感じなかった。あるのはただ、心の底から湧き上がってくる、温かい、温かい泉のような幸福感だけだった。トラウマが完全に消え去ったわけではないのかもしれない。けれど、この人の隣にいれば、きっと乗り越えていける。未来への揺るぎない希望が、彼女の全身を満たしていく。


 「……私も」


 琴葉は、込み上げてくる涙を必死にこらえながら、微笑んだ。


 「私も、遥斗君の隣がいい。その時まで、待ってる」


 その返事を聞いて、遥斗は安堵したように、ふっと息を吐いた。そして、ゆっくりと顔を近づけ、彼女の唇に、自らの唇を重ねた。

 一度目のはにかむような口づけとは違う。二度目の、誓いを確かめ合うような、深く、そして優しいキス。重ねられた唇の温かさが、二人の未来が、温かく、幸せなものになることを、静かに約束しているかのようだった。


 唇が離れた後も、二人はしばらくの間、互いの額を寄せ合ったまま、その余韻に浸っていた。

 月明かりが照らす神社の石段で、二人の高校生活最後の秋は、未来への固い決意と共に、静かに幕を下ろした。そして、ここから始まる新しい季節、大学、社会人という未知の道のりを、共に歩んでいくための、確かな第一歩が、今、記されたのだった。

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