「再開」


撮影当日


スタジオの空気は、朝から落ち着かない熱を帯びていた。

スタッフたちの足音、ライトを調整する金属音、試し撮りを繰り返すシャッターの音。

そのすべてが重なり合って、胸の奥にざわめきを増幅させていく。


片隅のテーブルに腰を下ろし、資料のファイルを開く。

手元に置かれているのは、俺が仕上げたばかりの最新コレクションの一着。

濃紺のウール地に、光を反射する細やかな糸を織り込んだスーツ。

完璧を目指し、何度も修正を重ねたシルエット。徹夜続きで縫い直した夜の記憶がまだ指先に残っている。


――それでも、不安は消えなかった。


「お、やっとデザイナーさんのお出ましだな」

声をかけてきたのは林だ。いつも通り軽口を叩きながら、俺の隣の椅子に腰を落とす。


「顔が固いっすよ。まあ、あの人が来るんだから仕方ないか」


林の目配せの先には、美葉さんがいた。スタジオの中央でスタッフに指示を飛ばしている。

白いジャケットにタイトスカート、無駄のない動きは相変わらずだ。


「西野、緊張してるの?」

ふとこちらを振り返り、美葉さんが鋭く言った。

「今日の撮影は大事よ。だけどあなたの服はちゃんと映える。自信を持ちなさい」


「……ありがとうございます」

そう答える声は、自分でも驚くほど硬かった。


そのとき、背後から軽い調子の声が響いた。

「おっと、噂の新デザイナーさんって君だね?」


振り返ると、カメラを肩に提げた男が立っていた。長めの前髪を無造作に流し、カジュアルなシャツの袖を肘までまくっている。

彼が軽く手を挙げると、美葉さんが嬉しそうに近寄ってきた。


「西野、紹介するわ。こちら、カメラマンの平川さん。今回の特集は彼にお願いしてるの」


「どうもどうも。平川です。前の号までデザインまわりは美葉さんがやってたって聞いたけど、これからは君なんだって? よろしく頼むよ」

差し出された手を握ると、意外にも力強い握手が返ってきた。


「はい、これから一緒に作っていければと思います」


「頼もしいね。撮る側も燃えるからさ、いい服は遠慮なくぶつけてくれ」

平川の目が一瞬、真剣に光った。軽口の裏にある職人の気配に、少し胸がざわつく。


「西野さん、準備できました」

アシスタントの声に顔を上げる。


そして、スタジオの中央に人影が現れた。

背筋を伸ばした長身。スタッフに囲まれ、ライトに導かれるように歩む姿。


その瞬間、心臓が強く跳ねた。


10年ぶりの姿。

雑誌の紙面でも、画面越しでもない。

目の前に立っているのは、間違いなく――隼人だった。


息をすることすら忘れる。

周囲のざわめきが遠のき、ただその輪郭だけが鮮明になっていく。


「こちらです、瀬名さん。」

スタッフに案内され、隼人が俺の準備したスーツへと近づいてくる。


ほんの数歩の距離。

けれど、その間に10年間という時間が詰まっていた。


俺は立ち上がり、布地を整えるふりをして手を伸ばす。

指先がかすかに震えた。

隼人が、ゆっくりとこちらを見る。


その瞳は、かつてと変わらない深い色をしていた。

胸の奥に封じ込めたはずの記憶が、一瞬で息を吹き返す。


視線がぶつかってから、ほんの数秒。

だがその短さを、胸は永遠のように感じていた。


隼人の瞳は、あの頃と変わらずまっすぐで、射抜くようにこちらを見ている。

けれど、俺は一歩も引かなかった。


――これは仕事だ。

今さら何も揺らぐはずがない。


俺はゆっくりと視線を外し、ラックに掛けられたスーツの裾を整えるふりをした。

布の皺を指先で伸ばしながら、できるだけ平静な声で口を開く。


「サイズは事前に調整してある。着ればすぐ分かると思うけど……動きにくいところがあったら言ってくれ。」


その口調は冷静で、あくまで“デザイナーとして”のものだった。

感情を一切交えない、仕事のための言葉。


隼人はしばし黙っていた。

俺の横顔をじっと見つめている気配がする。

だが、それにも構わず俺は続けた。


「撮影スケジュールはかなりタイトだ。無駄な時間は取れない。君がこの服をどう着こなすか、それだけに集中してほしい。」


言いながら、自分でも分かっていた。

強がっている、と。

胸の奥では嵐のように感情が渦巻いているのに、表には氷のような声しか出さない。


沈黙のあと、隼人が小さく息を漏らした。

笑ったのか、それとも呆れたのか――判断できない微妙な音だった。


俺は視線を上げず、スーツのボタンをひとつひとつ確認する。

ただ、それだけに集中するように。


ほんの数秒の沈黙。

その後、隼人の低い声が落ちてきた。


「了解しました。……デザイナーの指示には従います。」


抑揚の少ない声。

それは、かつての恋人ではなく、今ここにいる“モデル・瀬名隼人”としての返事だった。


「……。」


胸の奥が不意に冷たくなる。

拍子抜け、というのとも違う。

むしろ、心のどこかで“俺を責める”とか“何かを問いかけてくる”と構えていたからだ。


だが隼人はそれ以上何も言わず、スタッフに視線を向ける。

次の動きを確認するプロの顔。

余計な感情を一切見せない完璧な態度。


「うわー、瀬名さん、めちゃくちゃ真面目モードですね」

林が、からかうように小声で漏らす。


「西野、気にするな。ああいうのも含めて“モデル・瀬名隼人”なんだから」

美葉さんがきっぱりと言いながらも、どこか楽しそうに目を細める。


「そうそう。カメラ越しに見たら、その緊張感もちゃんと絵になるから」

平川がレンズを覗きながら軽い調子で付け加える。


そこで、一歩前に出たのは隼人のマネージャー、山野だった。

柔らかな笑みを浮かべながら、俺に小声で言う。


「西野さん、あまり気にしないでください」

山野の声は不思議と安心感を与える響きをしていた。

「瀬名さん、普段はもっとフランクなんです。今日は初めての現場で、ちょっと肩に力が入りすぎてるだけですよ」


「……そうですか」


「ええ。撮影が進めば、もう少しいつもの調子が出てくると思いますから」


山野の言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。

10年の空白が、ほんの一瞬で埋まるわけがない。

けれど――まだ、どこかに“彼らしさ”が残っているのかもしれない。


……そう考えてしまう自分に、俺は奥歯を強く噛んだ。

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