第八話:甘すぎるFalse証明

「はーはっは! いやあ、貴様は本当に飽きないな!」


 大笑いを続けるディアボロスは、すっかり機嫌を良くして食事を再開していた。一方の祐樹は、目の前の豪華な料理に一切手を付ける気になれず、ただ針の筵に座っているような心地だった。


「どうした玩具、食べないのか? 我直々にレシピを監督しているのだぞ?」

「い、いえ、今はちょっと……」


 もう、ここには一秒だっていたくなかった。

 祐樹は、せめてもの抵抗と、後のための布石として、テーブルに落ちていたパンの欠片を、誰にも気づかれぬよう、そっとズボンのポケットに滑り込ませた。


 やがて、食事に満足したらしいディアボロスが、ベヒーモスに声をかける。

「ベヒーモス、玩具を客室へ案内してやれ。今日はもう休ませてやろう」

「……御意」


 ベヒーモスは、心底面倒くさそうに立ち上がると、祐樹を睨みつけた。その瞳には、先ほどの困惑とは違う、得体の知れない変態を見るかのような、あからさまな軽蔑の色が浮かんでいる。


 祐樹は、その視線に耐えながら、すごすごと席を立った。

 食堂を出て、長い廊下を歩く。前には、不機嫌を隠そうともしないベヒーモス。そして、祐樹の後ろからは、ひっく、ひっく、と涙をすする音が、いつまでもついてくる。


(うわあ……ホラー映像すぎる……)


 金髪のメイドが、主になった(と誤解している)祐樹から数メートルの距離を保ち、静かに泣きながらついてきているのだ。無言の案内人と、すすり泣く奴隷。その間に挟まれた祐樹の精神は、ゴリゴリと削られていった。


 やがて辿り着いたのは、王族でも泊まるのかというような、無駄に豪華な客室だった。天蓋付きの巨大なベッド、豪奢な装飾の施された調度品の数々。こんな状況でなければ、すぐさまベッドにダイブしてはしゃぎ出したい気分だ。


 だが、今はそれどころではない。

 ベヒーモスは、祐樹とメイドをゴミでも見るかのように一瞥すると、何も言わずに踵を返し、足音も立てずに去っていった。

 部屋には、祐樹と、静かに涙を流し続ける金髪メイドの二人だけが残される。


(……まずい。まず、この子をどうにかしないと)


 祐樹は、意を決してメイドを部屋の中に促した。

 扉を閉めると、重々しい沈黙が落ちる。


「はぁ……」

 祐樹は、心の底から深いため息をつくと、メイドに向かって深く、深く頭を下げた。


「本当に、ごめん」


 純粋な謝罪だった。


「俺、ああいう趣味は、ないんだ。本当に。君の命を助けるには、あれしか思いつかなかった。いや、もっと言うと、そもそもあの料理をおかしくしたのは俺なんだ。だから、全部、俺が悪い」


 祐樹は、一気にそこまでまくし立てた。

「だから、解放する。ディアボロスには、俺から上手く言っておくから。だから、もう泣かないでくれ」


 そう伝えたが、金髪のメイドは、ただ大きな瞳を潤ませたまま、固まっていた。

 信じられていない。当然だろう。客人に奴隷にされ、部屋に連れ込まれたと思ったら、急に謝罪される。混乱するのも無理はない。


 言葉だけでは、ダメか。

 祐樹は、ポケットに詰め込んでいたパンくずを、近くのテーブルの上に広げた。

 そして、そのパンくずに意識を集中させ、ソースコードを書き換える。


<span><strong>甘さ:</strong> 2/100</span>

 ↓

<span><strong>甘さ:</strong> 99/100</span>


 ただのパンくずが、キラキラと輝く砂糖菓子のように、一瞬でその姿を変えた。


「これを、食べてみてくれ。そうすれば、あのスープも俺がやったって、信じられるはずだ」


 祐樹は、証明のためにそう言った。

 だが、金髪メイドは、主からの初めての「命令」だと受け取ったのかもしれない。彼女は、目に新たな涙を浮かべながら、こくりと頷くと、震える手でそのパンくずを拾い上げた。


(あ、違う、そういうつもりじゃ……)


 祐樹が何かを言うより早く、彼女はそれを、おそるおそる口の中へと運ぶ。

 そして、次の瞬間。


「――んぐっ!?」


 金髪メイドは、カッと目を見開き、顔を盛大にひん曲げた。


「げほっ、げほっ! あ……あま、甘すぎ、ます……! ぺっ、ぺっ!」


 口に含んだものを、慌てて絨毯の上に吐き出す。

 そのあまりに強烈な反応を見て、祐樹は自分のしでかしたことの重大さに、今更ながら気づいたのだった。


 後悔しても、もう遅かった。


「食べなくていい! もう食べなくていいから!」

 絨毯に落ちたパンくず(だったもの)にまで手を伸ばそうとする彼女の姿に、祐樹は我に返り、慌ててその手を掴んで止めた。


 近くのテーブルに、ガラス製のボトルとグラスが置かれているのを見つけると、急いで駆け寄り、なみなみと水を注いで彼女の元へ戻る。


「ごめん、これで口を濯いで!」


 金髪メイドは、こくこくと頷くと、差し出されたグラスを受け取り、一気にそれを飲み干す。そして、空になったグラスを差し出す。祐樹はまた水を注ぐ。それを、四回繰り返した。ようやく口の中の暴力的な甘さが和らいだのか、彼女は「はぁ……」と小さな息をついた。


 その落ち着いた姿を見た瞬間、祐樹の中で、罪悪感と自己嫌悪のダムが決壊した。


「……本当に、ごめん」

 ぽつりと呟く。


「俺は、なんて馬鹿なんだ……。MAXが100だからって、99の甘さのものを食わせるなんて……。もし、これがパンくずじゃなくて、もっと別のものだったら……命に関わってたかもしれない。値が大きければいいってもんじゃないんだ。こんなの、毒と同じじゃないか……!」


 自分の未熟さが、しでかしたことの重大さが、今更ながら全身を駆け巡る。

 これは、失敗じゃない。傷害未遂だ。


「うあああああ……! 本当にごめん! ごめんなさい!」

 祐樹は、狂ったように謝罪の言葉を繰り返すと、その勢いのまま、彼女の目の前の床に、勢いよく頭を擦り付けた。土下座だ。


「本当に、申し訳ありませんでした!」

 プライドなど、とうに弾け飛んでいた。ただ、自分の愚かさが許せなかった。


 その、常軌を逸した謝罪を見て、金髪メイドは息を呑んだ。

 彼女は、床に頭をつけ続ける祐樹の姿と、先ほどのありえない甘さのパンくずを交互に思い浮かべ、そして、ようやく全てを理解したらしい。


「……あの」

 か細い声が、頭上から降ってくる。


「もう、いいですから……顔を、上げてください」


 おそるおそる祐樹が顔を上げると、そこにいたのは、恐怖に怯える奴隷の顔ではなかった。

 困惑しながらも、どこか張り詰めた糸が切れたように、そっと表情を和らげた一人の少女の顔が、そこにあった。


「……信じて、くれたのか?」

「……はい。たぶん」


 祐樹は、心の底から安堵した。

「よかった……! じゃあ、すぐにその首輪を外すから!」

 彼はポケットからディアボロスに渡された鍵を取り出し、彼女の首元へと歩み寄る。


 だが、彼女はなぜか、さっと後ずさって首を横に振った。

「だめ、です」


「え?」


「それを外したら、ディアボロス様は、貴方を殺します」

 彼女は、真剣な目で祐樹を見つめた。


「『分け与えた奴隷を逃した』、あるいは『ハーレム仲間を裏切った』……あのお方は、どんな理由をつけてでも、貴方を排除しようとするでしょう。わたし一人のために、貴方が死ぬ必要は、ありません」


 その言葉に、祐樹は何も言えなくなった。

 彼女は、自分の命を救ってくれた(とんでもない方法だったが)恩人の命を、今度は自分が守ろうとしているのだ。


 気まずい沈黙が、部屋を支配する。

 その時だった。


「くぅ〜……」


 静寂を破り、可愛らしい音が、メイドのお腹から響き渡った。

 彼女は、ぼふん、と顔を真っ赤に染めて俯いてしまう。


 その音と姿を見て、祐樹の中で、何かがふっと軽くなった。

 彼は、先ほどポケットに入れた、もう一つのパンくずを取り出すと、にやりと笑った。


「ちょっと待ってて」


 祐樹は、テーブルの上にそのパンくずを置くと、[Cコピー]ボタンを一度だけクリックし、[V貼り付け]ボタンを心のなかで連打した。


 ぽん、ぽん、ぽぽぽぽんっ!


 テーブルの上には、あっという間に、複製されたパンくずの山が築かれていく。


 祐樹は、それらを掬い上げると、顔を赤らめたままの彼女の前に、そっと差し出した。


「見た目は悪いけど、味は、たぶん普通だから」


 この日、この世界に来てからずっと、張り詰めて、怯えて、後悔ばかりしていた相葉祐樹は、初めて、誰かのために力を使って、心からの笑顔で、笑った。

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