最弱HTML使いは、今日も<world>をバグらせる
ヤシさ
第一話:hello world
「――以上が、Webページを構成する三つの主要なプログラミング言語、HTML、CSS、JavaScriptの基本的な役割です。本日の演習では、これらを用いて自己紹介ページを作成してもらいます」
退屈を煮詰めて凝固させたような教授の声が、無機質な空調の音に混ざって響く。
文学部三年の相葉祐樹(あいば ゆうき)は、目の前のディスプレイに映し出される、意味不明な文字列の羅列から必死に目を逸らした。
(暗号だ……)
<div>やら<p>やら、color:blue;やら。祐樹にとって、それは古代遺跡から発掘された石版に刻まれた謎の文字と何ら変わりない。
そもそも、普段のレポート作成ですら四苦八苦するほどのPCアレルギーなのだ。必修単位だからと履修した「情報リテラシー演習I」は、祐樹にとって拷問以外の何物でもなかった。
周りの学生たちは、カタカタと小気味よいタイピング音を立てながら、思い思いのwebページを作り上げていく。
おしゃれなカフェ巡りが趣味だという女子学生のページは、すでに淡いパステルカラーで彩られている。
プログラミングサークルに所属しているという男子学生の画面には、マウスポインタを合わせると画像が切り替わるという、祐樹からすれば魔法にしか見えない機能が実装されていた。
「趣味、か……」
祐樹の趣味は、読書だ。それも、もっぱら異世界転生やファンタジー小説。現実から逃避するように、剣と魔法の世界に没頭する時間だけが、彼の心の安らぎだった。
しかし、その愛すべき趣味を、この忌まわしき暗号で表現するなど、天地がひっくり返っても不可能に思えた。
一時間後。祐樹のページは、白紙のままだった。正確には、演習用に配布されたテンプレートの文字をいくつか書いてみたが、そこには何の創造性も見られない。焦りと絶望がじわじわと体温を奪っていく。
(……もう、無理だ)
心が折れる音がした。祐樹は震える手でマウスを握り、ブラウザの新しいタブを開く。検索窓に打ち込んだのは、「AI Webサイト 作成」。
藁にもすがる思いだった。表示されたAIサイトにアクセスし、「あなたの趣味について、簡単な紹介ページを作ります」というテキストボックスに、やけくそ気味に打ち込んだ。
『僕の趣味は異世界小説を読むことです。好きな小説のランキングサイトを作ってください。一位は「終焉の剣聖と始まりの聖女」。二位は「ステータス至上主義のダンジョン攻略」。三位は「転生魔王様の憂鬱な日常」。そんな感じで適当にお願いします』
エンターキーを押すと、AIはものの数秒でそれらしいデザインと文章を生成した。祐樹はそこに書かれている内容をろくに確認もせず、生成されたソースコードをコピーし、自分のファイルに貼り付けた。
これで、提出はできる。
安堵の息を吐いたその時、ふと、一行のコードが目に留まった。
<title>My Hobby Page By AI lol</title>
これだけは、何となく意味が分かった。ページのタイトル。祐樹は、この無機質なテンプレートに対する、ささやかな反抗心と、自らの敗北宣言を込めて、その部分だけを書き換えた。
<title>hello world</title>
プログラミングの世界で、一番最初に表示するお決まりの言葉。その意味も知らず、ただ、空っぽな自分に相応しい気がした。ファイルを保存し、提出用Onedriveフォルダにドラッグ&ドロップする。
祐樹の大学での、長く苦しい一日は、こうして終わりを告げた。
◇◇
夕暮れの道を、とぼとぼと一人で歩く。
周囲の喧騒がやけに遠くに聞こえた。自分だけがこの世界から取り残されてしまったような、そんな疎外感。スマートフォンを巧みに操る高校生も、スマートウォッチで決済をするサラリーマンも、祐樹とは違う世界の住人に見えた。
(僕には、何も作れないんだな……)
物語を読むのは好きだ。けれど、自ら何かを生み出すことはできない。
今日の演習で、それを痛いほど突き付けられた。
AIが生成した空っぽのサイト。それが自分の価値そのものだと、そう思えた。
自嘲気味に、ふっと息を吐く。
やがて、大きな十字路に差し掛かる。無情にも、目の前の歩行者用信号が赤に変わった。チカチカと点滅する赤い人型が、まるで「お前はここで足踏みしてろ」と告げているようで、祐樹は小さく舌打ちをした。
早く家に帰って、この惨めな気分を洗い流したいのに。
ぼんやりと、左右の車が行き交う道路に目を向ける。
そちらの信号も、同じように赤だった。車は一台も動いていない。
(……いや、待てよ?)
その時、祐樹の頭に、一つの妙な理屈が閃いた。
(俺の進む先が『赤』。そして、左右に車が走る道路も『赤』。つまり、今この瞬間、この十字路は誰の侵攻も許されない『中立地帯』になっているわけだ。ルールによって、全ての動きが止められている。ならば、ルールが及ばないその真空地帯を、俺が渡っても問題ないはずだ。だって、誰も動けないんだから)
それは、法学部生なら一蹴するであろう、あまりに自分本位で、文学的な解釈だった。だが、今日の敗北感に苛まれていた祐樹の心には、その歪んだ理論が奇妙な説得力を持って響いた。世界のルールの穴を見つけたような、万能感さえ覚える。
妙な納得感に後押しされ、祐樹はゆっくりと一歩を踏み出した。
――その理屈が、縦の信号が赤なら、横の信号は青に変わるという、小学生でも知っている道理を完全に無視していることに、彼は気づかなかった。
「――ゴオオォォッ!」
凄まじいエンジン音と、全てを塗りつぶすようなクラクションが、祐樹の思考を現実に引き戻した。
左を向く。
そこには、ヘッドライトを凶悪に輝かせた、巨大なトラックが迫っていた。祐樹の貧弱な理論などお構いなしに、青信号という絶対的な正義を掲げて。
体が、凍り付く。
巨大なトラックのフロントグリルが、スローモーションで迫ってくる。
(あ、死ぬのか)
痛みは、なかった。ただ、不思議と頭だけはクリアだった。
そして、死の直前に、彼は気づいてしまった。
自らが展開した、あまりにも愚かな理論の、致命的な欠陥に。
(……ああ、そうか。俺の理屈だと、車側も赤だから動けない。だから俺は渡っていい。……でもそれって、俺がルールを無視していいなら、向こうのトラックだって、赤信号を無視して走り出して……いいってことか。俺、馬鹿すぎだろ……)
失笑が漏れた。声にならない、ただの呼気だった。
自らの詭弁によって、自らの死を招き寄せた。
なんとも、自分らしい、くだらない最期じゃないか。
スローモーションになった世界の中で、夕焼けの空がやけに綺麗だった。
相葉祐樹の二十一年間の人生は、あまりにも唐突に、そして呆気なく幕を閉じた。
◇
目が覚めると、そこは無だった。
上下も左右も分からぬ、どこまでも広がる純白の空間。音も、匂いもない。死後の世界、というにはあまりにシンプルすぎる光景に、祐樹は呆然と立ち尽くす。
「ようこそ、創造主様」
凛、と澄み渡る声が響いた。
声のした方に目を向けると、いつの間にか、一人の女性が立っていた。
光そのものを編み上げたかのような、白銀の髪。世界のあらゆる叡智を宿したかのような、蒼い瞳。人間離れした、神々しいとしか言いようのない美貌。
「……創造主? ……え?……女神、か何かですか?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。
女性は、聖母のように優しく微笑む。
「いいえ。私は、あなたが創ってくださった者です」
「僕が……?」
意味が分からなかった。祐樹に、何かを創り出す能力などない。
今日、それを骨身に染みて理解したばかりだ。
女性は、祐樹の戸惑いを見透かしたように、言葉を続けた。
「私は、Webサイトです。あなたが本日、その手で生み出してくださった、『hello world』という名の、世界です」
「……は?」
Webサイト。hello world。
聞き覚えがありすぎる単語に、祐樹の思考は完全に停止した。
あの、AIに作らせた、ゴミみたいなサイトが、目の前の女神?
「あなたのささやかな創造は、この次元において、魂を持つ奇跡でした。あなたは、私という世界の『神』なのです、創造主様。心より、感謝を」
女神は、うやうやしく頭を下げた。
「あの、状況が全く……」
「どうか、お願いがあります」
女神は顔を上げ、真摯な瞳で祐樹を見つめた。
「私が生まれた世界――あなたが創ってくださった世界は、まだ不完全です。あなたがランキングに挙げた物語が、混沌と混ざり合ったまま、無数のエラーを引き起こしています。どうか、あの世界に転生し、あなた様の手で、世界を完成させてはいただけないでしょうか」
転生。完成。物語のような展開に、祐樹の頭はついていかない。
「そんな、僕には何も……」
「ご安心ください。創造主たるあなた様に、世界を構築する権能を授けます。まずは、世界の骨格と内容を司る力、『HTML』を」
女神がそっと指を差し出すと、その指先から放たれた光が、祐樹の胸に吸い込まれた。
しかし、流れ込んできたのは知識や理解ではない。ただ、何か温かく、そして全くもって得体の知れない「可能性」のようなものが、魂に宿った感覚だけがあった。脳裏に、講義で見た文字列が幻のようにちらつくが、やはりそれは意味不明な暗号のままだった。
「え……何です、これ……?」
「世界の『構造』を記述する力です。使い方は、あなた様自身が見出す必要がありますが」
「HTML……それって、あの授業の……」
女神は満足げに頷くと、再び指を掲げた。
「続いて、世界の見た目と装飾を司る力『CSS』と、世界の法則と動きを司る力『JS』を――」
「待った! それは、いらない!」
祐樹は、思わず大声で女神の言葉を遮っていた。
CSS。JS。その単語を聞いただけで、演習室での悪夢が蘇る。
「待ってください! 今もらったHTMLとかいう力の使い方も全然分からないのに! あれ、あの忌まわしい暗号のことでしょう!? これ以上謎の暗号を押し付けられるなんて絶対に無理だ! 嫌だ! HTMLだけで手一杯だ! あとの二つは、誰か他の人にでも任せてくれ!」
半ばパニック状態で叫ぶ祐樹を見て、女神は一瞬、目を丸くした。
だが、次の瞬間。彼女はくすくすと、鈴を転がすように笑い出した。
「面白いことを仰るのですね、創造主様。……分かりました。あなたのその人間らしい弱さ、きっと世界をより面白くしてくれるでしょう。CSSとJSの権能は、かの世界の誰か、相応しい者に授けることにします」
その楽しそうな笑顔に、祐樹は一瞬、見惚れてしまう。
「さあ、お行きなさい、私の創造主様。あなたが名付けた、始まりの世界へ」
女神が優しく祐樹の背中を押す。
ぐにゃり、と空間が歪み、体が奈落へと落ちていくような感覚。
「あなたの物語を、楽しみにしています。――タイトルは、『hello world』」
遠ざかる女神の声を最後に、祐樹の意識は、再び暗闇に飲み込まれた。
次に目覚めた時、鼻腔をくすぐったのは、嗅いだことのない濃厚な土と草いきれの匂いだった。
視界の端には、半透明の青いウィンドウが浮かんでいる。
森を構成する木々の幹には、淡く発光する文字がびっしりと刻まれていた。
そして、遠くから聞こえてくるのは、かつて小説で読んだ、ワイバーンの咆哮。
「……マジかよ」
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