第9話【副作用】

 朝の救急外来は、開く前に満床が決まった。

 **迷宮性気道熱(MRH)**の第二波は、春より咳が浅く、熱が高く、酸素を奪う速度が早い。陰圧室の扉に貼った白紙がすぐ赤くなり、看護師はマジックでベッド番号を書き込む。肺の音は砂を踏むようで、脈は速いのに拍が揃わない。


「前回より若い」

 主治医の短い言葉に同僚が頷く。反響性眩暈の訴えも増えた。迷宮の中で揺さぶられた耳は、退院してからも勝手に音をつくる。静かな夜ほど、音は濃くなる。迷い点の星を見たときの落ち着きを思い出し、外来の椅子で涙をこぼす人がいた。


 午後、陸自の療養施設。

 rehab室の壁に貼られた“四拍呼吸”のポスターを見ながら、隊員が片手で歩行器を押す。反響性神経痛で斜めの足音が取れない。右脚から沈む癖は、三層の交差洞でついた。ビープが鳴らない環境では、拍のとり方を忘れる。


「ゆっくり。四拍で吸って、四拍で吐いて」

 理学療法士の声は一定で、優しい。

 元班長は夜に起きる。帰還石に触れる感覚が指に残るのに、戻る場所がない。目を閉じると、膜が薄く揺れる。手を伸ばすと、膜が遠くなる。

「夢の中のノードは、割れない」

 誰にも言わず、彼だけが知っている真実が、夜の真ん中で重くなる。


 国会は、午前に開いて午前に揉める。

 MDI公社法改正案の審議は、与野党が言葉の速度で勝敗を決めようとするほど崩れる。観光型の入場枠拡大は経産と観光庁の後押しで通したい。封鎖型の恒久封緘は厚労と環境の望みだ。財務は中立の顔で収支表を置き、でも数字の列の端に公社買上げ下限の欄外注を足した。

 野党の若い議員が立つ。

「楽しい安全の裏に、痛みの統計が隠れている。±0.3%を“誤差”と呼ぶ文化は、この国をどこへ連れていくのか」

 答弁席の声は丁寧だが、答えにならない。ニュースのテロップは円安とMDI-100を並べ、海外チャンネルは在日米軍の熱源データとWHOの緊急会合を同じ尺で流す。


 外務のリエゾン室では、MQ-9の上空投入回廊をもう少し広げるかどうかが協議され、PJの訓練参加要請に法務が首をかしげる。SOFAの条文は古い。条文に界孔はない。条文のない現実は、誰かの英断を求める。


 夜が深くなると、犯罪は濃くなる。

 SNSには**“代行探索”**の広告が出る。帰還石の“疑似”キーホルダーを高値で売る者がいて、光るだけで戻れない。スキルオーブの偽物は光の温度が違う。温度の違いは、手の皮でしかわからない。迷宮ガイドを名乗る男が貸金と連帯をセットで持ち込み、闇市場では結晶片の相場を人質にして殴り合う。

 路地裏の事務所で取り調べの警察官は、向かいの若い顔に同じ言葉を繰り返す。

「戻れるうちに、戻れ」

 言葉は古いが、効くときがある。効かない夜も、ある。


 OSINTチャンネルは、今夜も静かに数える。


 ・MRHの第二波、発症ピークは三日前。封鎖型周辺で有意に高い。

 ・交差洞で拾った反響聴取のオーブ装備者は不眠の訴えが相対的に多い。

 ・迷い点の星形は夏季に南へ7〜12cm移動。行列制御に連動か。

 結論は出ない。出さない。数だけが、夜の地図になる。


 公社・迷宮保健の相談室では、椅子の脚が床を薄く擦る。

 若い女性は洞の夢を見たと言う。夢の中で、星形の迷い点が喉の奥に詰まり、落ち着くのに苦しい。怖くないのに涙が出る。

 年配の男性は、失業と投資失敗の話を交互にする。No.7の動画を毎晩見ていて、拍手の音で眠気が来る。拍手が消えると、天井の隅でノードが揺れる。

 相談員は話を遮らない。遮らないことは、何もしていないことではない。

「ここで話せたことは、戻るに似ています。今夜は、走らないで大丈夫です」


 魂の叫びは、音にならないことが多い。

 廊下のベンチで、誰かが服の袖を握りしめる。握りしめた先に帰還石はない。かわりに、小さな紙片がある。


 迷ったら戻る。苦しいときは話す。

 公社・迷宮健康ホットライン(24時間)


 紙片は軽く、手から落ちそうだ。それでも、手の中に残る。


 ※つらさや希死念慮を感じるときは、信頼できる人や地域の相談窓口に今すぐ連絡してください。物語の世界ではなく、現実のあなたの命が最優先です。


 深夜一時、名古屋ダンジョン三層の入口で、鶯谷恭弥は点検に立ち会う。帰還石の導線が太くなり、迷い点の密度が少し上がった。新人向けの協調補正の窓が半歩広くなり、列の乱れが減る。

「誰かがブレーキを入れてる」

 分隊の誰も口に出さないが、皆が思っている。誰かはいつも見えない。見えないままで、いいとときどき思う。

 帰り道、夜風の中で恭弥はゆっくりと四拍で呼吸を整える。耳の奥の膜が、少し薄くなる。薄くなった隙間から、街の冷蔵庫の音が聞こえてくる。生活の音は、救いに似ている。


 飛騨の尾根。

 如月勇斗は、自壊の紐をひとつ指で撫でる。封鎖型の閾値を**−0.05%下げる。観光型の報酬遅延をわずかに伸ばす。独行での深部アクセスに抵抗**を足す。反響聴取の過感を少し抑える。痛みは残し、死は避ける。

 **v0.9 “Haze/Brake”**は、誰にも読まれない。

 パッチの後、勇斗は踵で地面を一度だけ叩く。音は山に吸われ、星は増えない。踊らない夜は、こうして過ぎる。


 国外は、国境をまたいで介入しようとする。

 北の隣国は共同鉱業体の設立を持ちかけ、南の同盟国は共同訓練の枠に迷宮工兵を入れたがる。国連は倫理審査の公開を勧告し、WHOはMRHの命名を巡って各国語の調整に追われる。為替は揺れ、観光客は増え、偏見も増える。

 空港の到着ロビーで、ボードには新しい一行が加わる。


 迷宮観光の方へ:封鎖型には近づかないでください。観光型でも、走らない・触れない・引き返す。


 翻訳の日本語は硬いが、硬さは必要だ。柔らかさは、別の場所に置く。


 夜明け前、犯罪被害者支援センターで、当直の職員がカップに湯を注ぐ。代行探索に巻き込まれた若者が毛布にくるまり、少しだけ眠る。スマホはロッカーに預けた。画面を閉じることは、戻るに似ている。

 職員は窓の外を見て、ため息を飲み込む。夜は巡る。飲み込んだため息は、心の中で少し熱を持つ。熱は、誰かの朝をつなぐ。


 朝が来る。

 救急の廊下に淡い光が差し、酸素マスクの曇りが一瞬だけ透明になる。療養施設の庭では、杖をついた隊員が小さな歩幅で芝生を一周する。国会の裏口では、誰かが原稿の末尾の句点をずらす。空港の掲示板の翻訳が一行滑らかになり、中華屋の厨房で中華鍋が拍を打つ。

 魂の叫びは、たいてい他人には聞こえない。それでも、拍は隣に伝わる。拍が一つずれるたび、誰かが迷い、誰かが戻る。

 今日も、見ない・近づかない・引き返す。

 今日も、戻るを選べば、それでいい。


 太陽は無関心で、だから公平だ。

 光が封鎖型のフェンスを照らし、観光型の帰還石を光らせ、誰かの手の上の針を温める。

 夜はまた来るが、朝もまた来る。

 それだけは、一年前と同じだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る