第3話【熱狂】

 正午を少し過ぎたころ、ニュースサイトのトップに「同時微震」の文字が並び始めた。画面の端でテロップが横に流れ、地名が規則正しく切り替わる。昼休みの食堂では、誰かがスマホを掲げて「これ見た?」と小声で呼びかけた。映っているのは住宅街の庭に空いた灰色の口で、画面越しでも耳の奥が詰まるような気配が伝わる。


 桜ノ宮の作った広報文が配信される。「見ない・近づかない・戻らない」。句点を置く場所は慎重に選ばれていて、行の余白には迷いがない。文面はすぐに転載され、まとめサイトを経由して、少しだけ丸まった語尾に変わる。変わった語尾は拡散しやすく、拡散は熱を帯びる。


 タイムライン(抜粋)


 12:07 地方局の速報が「地震後の空洞」と表現。写真はモザイク付き。

 12:12 掲示板に最初のスレ立て。「【緊急】庭に洞窟ができた件について【長野】」。

 12:21 SNSで「#界孔」が自然発生。別のタグ「#落ち着く」が並走。

 12:33 県の広報が「近づかないで」を再掲。コメント欄に「怖くないって何?」の列。

 12:50 配信者が現地から遠景を映す。チャットの流速が上がる。

 13:05 OSINT系アカウントが航空写真のピンを重ねた画像を投稿。「同角度で拡大中?」

 13:40 海外メディアが短い英語記事を投下。翻訳は粗いが、熱は乗る。

 14:10 「落ち着くほど離れて」がミーム化。スタンプが作られる。

 15:02 自称専門家が「人工地盤陥没説」を唱え、別の自称専門家が反論。

 16:20 掲示板で現地の写真が投下される。口縁の影が午前より濃い。

 17:55 夕方の特番に差し替え。テロップに「MDI(迷宮由来危機)」が初登場。

 19:12 夜の散歩を止めるよう自治体が再通知。コメント欄の温度が少し下がる。

 20:48 「怖くない」をタイトルにした配信が乱立。視聴数が跳ねる。

 21:30 最初の転倒事故が報告され、チャットの空気が冷える。

 22:00 「見ない・近づかない・戻らない」がスクリーン下帯で流れ続ける。


 掲示板ログ(抄)


 1 :風吹けば名無し:12:12:08.44 ID:KaikouA01

 庭に洞窟できたんだが質問ある?


 5 :風吹けば名無し:12:13:51.03 ID:ab1cdxxx

 穴じゃなくて洞窟?中どうなってる


 9 :風吹けば名無し:12:14:20.18 ID:KaikouA01

 さっきまで浅かったのに奥が見えない。怖くない。落ち着く。


 14 :風吹けば名無し:12:15:02.09 ID:QpQpQpQ

 こういう時に怖くないって言うやつは危ないから離れろ


 22 :風吹けば名無し:12:17:33.71 ID:OSINTman

 近隣カメラ拾った。影の伸びが午前より深い。拡大の可能性。


 31 :風吹けば名無し:12:20:11.12 ID:matome

 まとめた→【画像あり】庭に洞窟、県「近づかないで」住民「落ち着く」


 58 :風吹けば名無し:12:28:47.33 ID:streamX

 今から行く。遠景で撮るだけな


 60 :風吹けば名無し:12:29:12.55 ID:KaikouA01

 行くな。マジで。


 145 :風吹けば名無し:13:07:01.98 ID:legend

 これダンジョンでは?


 148 :風吹けば名無し:13:07:44.90 ID:factcheck

 公式は「地震後の空洞」。煽るな。


 201 :風吹けば名無し:13:25:59.55 ID:yakisoba

 怖くないって表現がもう怖い


 ※画面の向こうで、相談と冗談と自慢が循環する。助言の正しさは声量と関係が薄く、早さに関係が深い。早い人は、たいてい間違える。間違いは、熱で包まれると甘くなる。


 配信者の映像は、最初は遠かった。公園の端から、黄色いテープの向こうをズームにする。焦点は甘いが、灰色の縁がわかる。チャットは速い。


「もっと近く」「ズーム」「音が吸われてる?」

「怖くないってどういうこと」「怖がれ」「草」「こわ」


 配信者は最初、賢明に距離を保つ。視聴者数は増える。広告が入る。チャットの「スパチャ読み上げ」が始まり、気持ちが少し前に出る。足も、半歩だけ前に出る。カメラの手ぶれが増え、テープの側で警察官が手を上げる。配信者は笑う。笑い声は少し裏返る。


 そのころ、まとめサイトには新しい比較画像が載っていた。午前の写真と午後の写真を並べ、口の縁に赤い円が引かれている。円の直径は数センチ違い、コメント欄は「拡大してる」「レンズの角度だ」で分かれる。分かれること自体が、拡散の燃料になる。


 OSINTアカウントは座標の推定を更新する。近隣の監視カメラの陰影から、口の口径と深さの概算を載せる。仮定は多い。多い仮定を足場にしないと、早さに勝てない。足場が仮でも、熱は乗る。地図のピンは増え、「MDI」の文字が図の端に置かれる。初めて見る人は発音を迷い、迷いながら口に出す。口に出すと、言葉は少しだけ現実に近づく。


 午後、自治体が再通知を出す。「夜の散歩は控えてください」。佐藤のいる広報のチャットには、細かい言い回しの調整が続く。「控える」か「やめる」か。「今夜は」か「当面」。文末の「ください」は一つか二つか。桜ノ宮は「ください」を一つにした。二つにすると、少し弱く見える。弱さはやさしさではない。やさしさは、文の中に置き場所をつくる必要がある。


 夕方の特番では、スーツのコメンテーターが地図を背にして話す。声は落ち着いていて、語尾は丸い。「現象は自然由来」「人為の可能性は低い」「暮らしは続けられる」。別のコメンテーターが眉をひそめて「未知の危険」を強調する。スタジオの空気は薄く張り合い、画面の下帯に「見ない・近づかない・戻らない」が流れ続ける。


 夜、掲示板には自称当事者の書き込みが増える。写真は暗く、ピントは甘い。甘さは疑惑を呼び、疑惑は新しいスレを産む。スレの速度は、恐怖よりも楽しさの速度に近い。楽しさに近い速度は、事故の速度にも近い。


 掲示板ログ(夜)


 401 :風吹けば名無し:20:52:33.77 ID:streamX

 現地。怖くない。マジで。


 408 :風吹けば名無し:20:53:10.12 ID:警察関係

 見ないで。離れて。戻って。


 420 :風吹けば名無し:20:54:48.02 ID:視聴者

 近づくなよ 絶対だぞ


 436 :風吹けば名無し:20:56:02.99 ID:legend

 これ中に入ったらどうなる?


 460 :風吹けば名無し:20:58:40.21 ID:streamX

 入らない。さすがに。


 463 :風吹けば名無し:20:58:59.84 ID:superchat

 5万円投げた。足元映して


 471 :風吹けば名無し:20:59:40.12 ID:KaikouA01

 戻れ。頼む。


 配信の画面が一瞬、揺れる。カメラが下を向き、砂利の粒がフレームを埋める。砂利の色は、境界で急に変わる。変わる場所は、見る人の時間も変える。視聴者数が跳ね、コメント欄の速度がさらに上がる。警察官の声が入る。配信者の笑い声が裏返り、音声が瞬間、歪む。歪みは、あとで切り取られて拡散される。拡散は、当事者の意図とは関係がない。


「怖くない」は、たしかに変だ。変だが、それは当人の実感で、実感は否定しても消えない。消えない実感に、正しい言葉を与えることは難しい。正しい言葉が見つからない間に、間違った言葉が広がる。「呼ばれてる」「癒やしの穴」「母なる界孔」。呼び方は増え、増えるたびに輪郭がぼやける。ぼやけた輪郭は、触れてみたくなる気持ちを強くする。


 一方で、正確さにこだわる人たちもいる。OSINTチャンネルは、日中の影と夜間の街灯の位置から、口の縁の変位をミリ単位で追う。計測の方法を丁寧に示し、仮定の置き方を明記する。再現性があるかを問う。問う声は、派手ではない。派手ではないが、少しずつ支持を得る。支持は集団で動く性質を持ち、集団は反証を好む。反証は、新しい熱になる。


 そのころ、如月勇斗は別の街で縁を縫っていた。封印の針は角度を変え、速度を調整する。調整は夜に行う。夜の調整は、統計の「揺らぎ」としてしか残らない。残らない痕跡は、美学に近い。美学は実用に堕ちやすく、実用はまた別の熱を呼ぶ。


 深夜近く、掲示板に短い報告が上がる。「転倒した」。配信のチャットに「救急要請済み」の文字が流れる。画面の向こうでサイレンの音が細く混じり、コメント欄の冗談が一拍だけ止まる。止まった一拍は、長くは続かない。続かないことに、誰も罪はない。罪があるとすれば、速さのほうだ。


 夜更け、桜ノ宮の広報文がもう一度だけ流れる。文面は変えない。言い回しを増やさない。「見ない・近づかない・戻らない」。三つの動詞は、音の並びが良い。良さは記憶に残りやすく、残った記憶は自動で動く。自動で動くとき、人はすこしだけ助かる。


 最後に、匿名の書き込みがひとつだけ流れた。


 999 :風吹けば名無し:23:59:59.99 ID:shadow

 今夜は近づかないで。遊びは明日でもできる。


 誰かの冗談に見える。冗談に見えても、少しだけ効く。効いた分だけ、夜は静かになる。静かになった分だけ、明日の朝の仕事が楽になる。


 画面の裏で、数字は動き続けていた。視聴数、検索量、事故報告、避難者数。上がる曲線と下がる曲線が交差し、交差点に熱が生まれる。熱は人を動かすが、熱の向きは一定ではない。向きが変わるたび、言葉の位置も少しずつずれる。ずれた位置に、誰かがまた句点を打つ。


 夜の終わりが近づく。最初の「界孔A-01」は、住民の協力で半径三百メートルが静かに保たれていた。遠景を映していた配信は停止され、チャットには「お大事に」という文字がいくつか残る。残った文字は、朝には見えなくなる。それでも、今夜は十分だった。


 世界は、ゆっくりと夜に慣れていく。熱狂は波だ。波は引いても、砂に痕を残す。痕は、次の波の形を決める。決めるのは、誰か一人の手ではない。手が増えるほど、設計は複雑になる。複雑さは面白さに近づき、面白さは危うさと背中合わせになる。


「落ち着くほど離れて」。

 その言葉は、今夜もスクリーンの下で静かに流れていた。

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