第16話 月の導き①

桜が咲き始め、苦い過去は落ち葉と共に枯れてゆく。


新学期になり、クラスが変わった。

陰鬱な日々がそこで終わったかと思えば、まだそこには以前のクラスメイトがチラホラ。

また同じことが繰り返されるんだろう、そう思った。


だが違った。

周りの人が変わり、みんな戸惑っていたのだろう。

その時の彼らには​​俺をいじめている余裕などなかった。


そして、その頃から俺自身も変わっていった。

自分の言葉を少しずつ取り戻していくことができた。


何人か友達もできた。


挨拶する程度の友達。

ちゃんと話せる、それだけの友達。

そんな友達が自分のクラスにいる。

その事実だけで、あの頃の俺には十分だった。


しかし、季節が変われど過去は消えない。


2週間が経ち、新しいクラスにも慣れてきた頃。

その友達に話しかけても、どうも何かよそよそしい。

薄いガラス越しで会話をしているような感じ。

反応が俺だけ少し違っていることに​、俺は少し居心地​の悪さを感じていた。


そして、その居心地の悪さの理由を俺はすぐに知ることとなる。


授業中だった。

一枚のメモ用紙が周ってきた。

後ろから小さい声が聞こえた。


「あっ……間違えた!」


間違えた?

どういうことだ?

俺は周ってきた紙を開いた。


『山上くんっていつ空気と話すの?』

『前は結構授業中も話してたらしいよ』

『ウケる』

『誰か知ってる奴にまわして笑』


……なんだよ、これ。


俺はその紙を握りつぶす。

紙が湿る音がした。掌が震えていた。

悔しさと恥ずかしさで気が狂ってしまいそうだった。


早くここから逃げたい。

早くこの場所から消えてしまいたい。

目に力を込め、必死で涙が落ちるのを我慢した。

それしかできなかった。


誰も助けてくれない。

世界が自分だけを残して止まったようだった。

しばらくして、チャイムの音が鳴る。

俺は教室からすぐ飛び出した。


走った。


教室を出て走り出した。

あのメモ用紙は握りつぶしたままその場に捨てた。

誰かが拾ったのが横目で見えたが、そんなこと関係ない。

その場所から消える以外の選択肢なんて俺にはなかった。


廊下に出て、階段を降りる。

誰も追ってこない。

誰も俺を気にしていない。


ふと隣を見た。

隣には誰もいなかった。

今、ここにいて欲しい、今まで俺の隣にいた人が


その時、俺の隣にはいなかった。


瞬間、足元から力がぬけていくのがわかった。

玄関まで出たところで足が止まった。

足が震え始める。


動かない。


教室に戻るにも足がそこに固まって動けない。

次の授業のチャイムが鳴る。


戻らなきゃ、でも……。


思考とは別に体が拒む。

視界が暗くなる。

思考が沈んでいく。


「もう……ダメだな」


独り言のように呟いた。

明日からここに来るのはやめよう。

目を閉じて、全てを諦めてしまおう。

そう思った、そう思おうとした。


その時だった。


手?腕?​

誰?

引っ張られてる?


小さな手が、俺の腕を掴んだ。

ただ引かれるままに歩く。

いつのまにか、階段を登っていた。

顔を上げると俺の腕を握る一人の少女の後ろ姿。

その後ろ姿には不思議と安心感のようなものが感じられた。


教室のドアの間に来ると彼女は言った。


「大丈夫。ちょっと待ってて」


彼女は教室に入り、授業を始めている先生の耳元で何か言った。

先生は笑いながら「入ってきていいよ」と言って俺たちを迎え入れた。


ぼんやりとした気持ちで自分の席に座る。

彼女も俺の目の前の席に座る。


何が起きたのか分からなかった。

口を開けたまま、ただポカンと。

授業が終わるまで、目の前の彼女のことを見つめていた。


授業が終わり、彼女から話しかけられる。


「ごめんね。さっきはいきなり」


誰?

クラスにこんな子いたっけ?


「あ、ああ、別に……」


うまく返事をすることができない。

まただ。この教室では足がすくむ。

立っていることができない。


「放課後、少し話そう」


彼女は俺の両手を握り、そう一言残すとすぐに離れて行った。

急に手を握られて初めは何かと思った。

しかし、手が離れた時、さっきまであった足の震えがなぜか止まっていた。


その日はその後もずっと彼女のことを見ていた。

周りのざわめきも時間の流れさえもどこか遠くに感じながら。


ぼんやりと眺めているうちに、

この教室の中心人物が誰か、少しづつだが見えてきた。


彼女だった。


彼女はまるで月のようだった。

星々の中心で静かに輝く満月のように

彼女の周りには人が集まり、そこに笑顔が生まれていた。


その光を見つめていると、胸の奥が少しだけ痛んだ。

目の前にあるのに、手を伸ばしても届かない。

俺と彼女のあいだにある距離は、きっと永遠に縮まらない——

その時の俺は、そう感じていた。


帰り際、彼女の方から声がかかる。


「ごめんね。帰るところだった?」


彼女はみんなにするいつもの笑顔で俺に語りかける。

俺はテキトーな返事をして歩き始める。


彼女は何も言わなかった。

校門まで歩いたが、お互い一言も口をきかない。

ただ一緒に歩いているだけ。

コンビニ近くの木陰通りに差し掛かった。

そこでようやく彼女の方から話し始めた。


「山上くん、私のこと覚えてた?」


「覚えてない。誰だ、お前」とは言えなかった。

けどまあ、正直覚えていない。

「え?まあ……」と言って誤魔化した。


「ほら、やっぱ覚えてないでしょ」


露骨にバレた。

どうしよう、なんとか言わないと。


「あ、やっぱ覚えてない? だよね〜。  

私、松浦小南っていうの。よろしく!」


彼女は笑っていた。


少しだけ顔が赤い。

彼女は言う。


「ここ、気持ちいいね」


夕日の空に春の風が吹いた。


桜の花びらが風に舞う。

橙色に照らされて。

落ちていく。

ゆっくりと。


優しい風に吹かれながら。

二人並んで歩く。

並木道を。


今でも思い出される、あの時のこと。


「……うん」


自然と出た言葉。

彼女に聞こえていただろうか。

わからない。


だけど。


俺はこの光景を忘れない。

あの夕陽に染まる桜の色を。

君と歩いたあの日のことを。


そうだ。


思い出した。

俺はあの時、初めて


――恋に落ちていた。


それから俺たちは何も話さなかった。

何も話さず、あの桜道を歩いた。

交差点の手前、二人は手を振ってそこで別れた。


それでよかった。

それだけで十分だった。

あの日、あの瞬間。

俺は彼女に――


救われたんだ。

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