第10話 王佐の才 4

 一方、荀文若は道すがら徐州の状況をじっくりと注意深く目に収めてから、主の待つ陣に戻った。野営地の中央に位置する主の幕舎へ通されると、彼は深々と一礼した。袁紹は側近くにいた将兵たちを一旦下がらせると、文若を間近に呼び寄せた。

「よくぞ無事に戻ってきたな、文若!」

 いわば敵陣に使者として乗り込んだ若い軍師の無事の帰還を、主はまずは喜んだ。袁本初は大柄ではないものの、その顔立ちは品があって堂々としている。声にも張りがあり、程よく威厳がありつつおおらかだ。早速、興味津々の表情で主は、

「で、どうだった?」と切り込んできた。

「は……?」と返答に窮する文若を尻目に、

「劉備という男のことだ…… 噂には髭がなく、腕は膝まであって、自分の耳が見えるほど大きいと聞いたぞ? 龍顔と言われる高祖の後裔だ、何か見るからに違った風だったのか……?」

 そう尋ねる彼の瞳は好奇心に輝いている。この良家の御曹司は時折子供がそのまま大きくなったような顔をする。文若はそんな部分が少し苦手だった。

 主と仰ぐ相手には殿様然としていて欲しかったのだ。

「は? あ、いえ、そのようなことは…… 確かに髭はございませんでしたが」と応じた。

「髭がないとは…… 宦官か?」

「いえ、そういうわけではなさそうですが?」

「確かめたか?」

「は?」

「確と確かめたのか?」と言ってからにやにやと文若を見る。

 彼はようやく主にからかわれているのに気付き、目を瞬いた。主はくすくすと笑いを漏らした。

「ええい、文若、冗談が通じぬなあ……」

「は、申し訳ございません、主公……」と言ってから生真面目に付け加えた。「腕が長いと言うのは、おそらくは伊達に肩にかけた長衣の袖が靡いて見間違えたのでしょう、そして耳は確かに小さくはありませんでしたが、垂れ下がるほどの派手な耳飾りを着けておりましたので……」

「なんだ、普通ではないか」と主は少し不機嫌になった。「……まあいい、息子を推挙した腹積もりを聞き出せたか?」

「はい」と文若は頷いた。

 本初は俄にその表情を引き締めた。

「やはり思惑の一つもあったのであろうな……」

 主は頭の悪い男ではなかった。文若と劉備の会見の内容にも見当がついているように見えた。

「……曹将軍への支援を断って欲しいと」と声を潜めつつも、彼は前置きもなく告げた。本初はその言葉に微かに苦笑を見せる。

「そんなところだろうと思っていた。しかし、推挙くらいでそれを手に入れようとは…… 少々、博打が過ぎないか?」

 主の言葉に頷いて見せ、

「博打打ちらしく、博打のような提案を受けました」と文若。

「うん?」と主は促した。

「玄徳殿が徐州にいる限り、徐州は兵を我々に向けないと……」

 文若の言葉に本初は高笑いを始めた。

「はっはっはっはっは! これはまた! 博打打ちどころか、詐欺師紛いだな!」

 文若は主がひとしきり大笑いするのをじっと見守る。やがて笑い疲れた本初は一旦口を閉ざした。

「そんなものはお聞き流しなされませ、主公」と文若は言った。しかし。

「いいや」と主は答えた。

「は? い、今、なんと……?」

 文若が目を見張るのを後目に、主はきっぱりと答えた。

「孟徳への支援は終わりだ、と言ったのだ」

 文若は耳を疑った。侠上がりの客将風情の言うことを聞くなど、愚の骨頂だと思った。

「な、何を仰います、主公?」

 慌てる文若を受け流すように本初は続けた。

「理由は何とでもなるだろう、文若? 青州の作柄も良かったわけではないからな」

「……ですが……」と彼は食い下がる。

 薄暗い幕舎の中、周辺の略地図を記した布を背後にして胡床に座る本初。その表情は冗談を口にする態には見えなかった。

「私は孟徳に陶謙を牽制しろと命じた、それだけだ。領民を虐殺せよ、などとは言ってはいないぞ」と静かに告げる。

「いえ、あれは陶謙配下が遊撃の隠れ蓑に……」

「残っているのは曹操配下が殺した徐州の領民の死体だ。それ以外の何者でもない。川を堰き止めるほどの数と聞く」

「……」

「これ以上続けていては無駄に領民が死ぬばかりだ。一旦、孟徳を退かせる。陶謙には劉景升殿を当てればよかろう」と言いながら主は思案げな表情を見せる。「……そう、荊州に逃亡する徐州の領民を乱兵から守るといえば、聞こえも悪くはないだろう……」

 この国では人の評判が出世を左右すると言っても過言ではない。徐州侵攻に際して曹操に与えられた評価は無垢の領民を虐殺した、というものだ。その噂は誰が聞こうとも、快いものではない。陶謙によって父親が殺された、その孝を果たすための義の戦いという側面がすっかり台無しになってしまったのだ。

 当然、盟友である本初も後ろ指を指される恐れが出てきたのだ。この良家の御曹司はそういった人の風聞を気にかける性質が以前からあった。そして…… 彼には多少懸念もあったのだ、孟徳が徐州を得て、彼らの力の均衡に変化が生じることに。

 本初は文若の表情を見ながら更に続けた。

「……そもそも…… 出陣の経緯も疑わしい」

「……」

 文若は思わず口篭った。思惑が音を立てて崩れてしまい、取り繕う余裕がなくなっていた。肝を冷たい手で握られたような不快感が胸を突く。

 その表情を見て主は更に突っ込んだ。

「お前、何か画策したのではないか?」

 文若はぐっと喉音を漏らした。鎌をかけているだけだ、そう、わかっていても図星過ぎて反応してしまった。

 曹操の父親曹嵩が死んだと見せかけて、それを口実に進軍の理由にする。その作戦を曹操に献策したのは文若自身だった。その権謀術数に曹操は彼を張子房のようだと讃えたほどだ。その口実があればこそ、徐州の陶謙には隙が出来る、その弱味を突けば徐州軍を切り崩しやすいだろうと。

 うまくすれば牽制するどころか、徐州をさえ、手に入れることが出来るだろうと。

 しかし、それは機密性の高い作戦だ、彼は主にはそのことを報告してはいなかったのだ……

 言い淀んだ彼の表情を見れば、主も大方の見当がつく。

「図星か」と本初は呟くように言った。

「……」

「まさか、本当に巨高殿をどうこうすることもあるまいし…… さては孟徳と謀って大芝居を打ったということか?」

「……その通りです、主公」と彼は認めた。「曹将軍の父君はご無事です……」

 この期に及んで言い逃れも出来まいし、彼の心の奥底では、どこかで主がこの献策に対して良い評価を与えてくれるのではあるまいかという一縷の望みもあった。

「巨高殿がご無事だったのは何よりだが……」

 しかし本初は微かにその表情を不快げに歪め、溜息を漏らした。

「お前を孟徳との連絡係に据えて、計画を練らせたのは私だ。責任はこの私にある。しかし…… 私は虐殺の責任など被りたくはなかったなあ」

 どこか自虐的な声音で主は口にする。

「……も、申し訳ありません……」

 やはり、と文若は思った。やはりこの袁本初という男は王にはなれない。王の器ではない、民草を民草として割り切れないのだろう。謀とは大きな流れであって、人一人がどうこう出来るようなものではない、その大きな流れに乗り、操り、この天下という船の舵を取るのが王の器というものなのだが、この目の前にいる男はそれを理解しない。

 次に来るのは叱責か、あるいは死罪の宣告か。文若は覚悟を決めねばならなかった。……が。

「なあ、文若よ……」と本初は穏やかに口を切る。

「……はい」

「お前…… いや、君は本当に優れた男だ。この献策も、もし私が聞いていれば、きっと私は実行に移すことなど出来なかったと思う」

「……」

「君ほどの才をこの凡愚な私が有していてもよいものだろうか……」

 言葉は耳障りが良いと言うのに、主が告げようとしている真意は無慈悲だ。

「いや、許されることではないのだろう」と主はそのまま言葉を継いだ。「天は間違いを犯したのかもしれぬ。君のような才能、まさに王佐の才を、この凡夫の下に置くなど。……君にはもっと才能ある、そう、まさに王に足る人物こそ、仕えるのに相応しいのではないか? この広い天の下、君はその人物をこそ、探して仕えるべきではないだろうか……?」

 要約すれば、袁家の方針とは違うので解雇だ、と言っている。だが、決して文若の非を責めてはいない。むしろその才能を褒め称えてさえいる。こういった美しき拒絶を突き付けられた場合、文若の立場ではこう返すしかないのだ……

「……こ、これまで、ありがとうございました……」と彼は丁重に頭を垂れた、その肩が無意識のうちに小刻みに震える。

「いいや、礼を言うのは私の方だ。君のように優秀な人物が、凡愚な私をよくぞこれまで導いてくれた。これからも君の栄達を心から祈っている、どうか達者でいてくれたまえ」

 それは明らかな拒絶、決別の言葉だ。しかし礼を失してはいない。これに反撃すれば、彼自身の方が悪になってしまう。中原では少なからず使われる、一見柔らかく美しく、そして残酷で絶対的な否定。

 もう弁解の余地もなさそうだ。

 文若は改めて深々と拱手で一礼すると、その場を立ち去った……


 おそらくはいずれ、彼は袁本初という人物の元から去ったことだろう。本初は生まれもよく、富貴があり、人の引き立てもある。権力を行使するだけの器量もある。だが、それ以上ではなかった。

 王、ではない。

 その器に対して文若には確固たる理想があった、が、本初はそれに手が届いてはいなかったのだ。

 だからといって、彼を子房と讃えた曹操の元にすぐさま走るのは気が引けた。それに彼の兄の友若も本初に仕えており、その身を確保するためにも兄に少々入れ知恵をしておきたいと思ったのだ。

 そしてまた、今、曹操に仕えて良いものかどうか、そのことも悩んでいた。彼が行けば喜んで迎え入れてくれることは間違いないのだが、曹操は徐州の領民虐殺によって確実に風聞を落としている。元々宦官の養子筋である曹操の家格は、三公輩出の名家袁家と比べれば言葉は悪いものの、雲泥の差がある。袁紹と曹操が同陣に並べば、誰も彼もが袁紹を立てる。かつて反董卓連合軍の盟主に袁紹が推されたのは、ある意味当然といえば当然だったのだ。

 そんな名家袁家から、あたかも栄転か何かのように送り出された、実質罷免の文若。それが尻尾を振って曹操に仕えに行くのが癪だった。

 無意識のうちに、兄の家にしばらく逗留してしまった。

 しかしいつまでも兄の家に留まるわけにも行かなかった。彼には懸念があったのだ。泰山太守の応劭を計画に加担させた。無論すでに口止めはしているのだが、さらに、重々口止めをしておかなくてはなるまいと。

 兄の家を出発すると、彼が目指したのは泰山だった……


 しばし一人旅を楽しみ、あくる日には泰山に辿り着くであろう頃合いで、文若は少し手前の宿駅に立ち寄った。馬を休ませ、飼葉を与えるためである。旅に疲れた身を一晩休め、さて、宿を旅立とうと馬を用意していると、背後から声をかけられた。

「よぉ、袁家のォ!」

 聞いた覚えのある声にぎくりとして振り返ると…… そこには先日徐州で会談した劉備が立っているではないか。

「はは、こいつぁ、奇遇だなあ?」と親しげに話しかけてくる玄徳の姿は。

「こ、これは……!」

 文若は思わず見違えてしまった。玄徳は髪をきっちりと結い上げ、小ぶりの冠を飾り、上品な柄行の長袍を身にまとった姿だったのだ。侠上がりの客将風情には少々不釣り合いなほど、彼の身を飾る衣は立派に見える。どこから見ても一端の士大夫のようだ。

 彼の背後には御簾を垂らした馬車と物々しげな護衛兵たち。気圧される形で彼は丁重に一礼した。

「お久しぶりです、劉将軍、本当に奇遇ですな……」と彼は返した。「しかし珍しいところでお会いしましたな、てっきり徐州のどこかの陣かと……」

 そこで玄徳はにっこりと笑んで見せた。

「ああ、泰山のとあるご老人に会いに行ってたのさ」と応じる。

 文若にはいろいろと負い目がある。泰山の老人と聞いて、つい、隠遁しているはずの曹嵩を思い浮かべてしまい、その背にじっとりと冷や汗をかいた。

「ほ、ほう、それは……」

 玄徳はじっと文若の表情を眺めている。その目を見て…… 文若は悟った。この男は彼が曹操と立てた計画のことを知っているのだろうと。そうなれば、致し方ない。応劭に曹嵩の口を封じさせるしかあるまい。急ぎ泰山の応劭の元へと向かわねば。

「アンタはこれからどこに行きなさるんで?」と玄徳が尋ねてきた。言い逃れても良かったのだが、曹嵩の対処に意識を持って行かれていた文若は素直に答えてしまった。

「泰山まで……」と言ってから口篭る。

「ああ、いいよなあ、泰山は。いずれはあんな凄ぇ山を眺めながら隠居暮らしと洒落込みてぇな!」

「は、はぁ、そうですね……」

 鼓動が早まり、息が苦しくなってきた。この男、何を知っている? いや、どこまで知っている?

「仕事で行くのかい? だとしたら、無駄足かもしれねぇよ?」と玄徳は更に言った。

「……は?」と彼は間の抜けた声を漏らした。

「応泰山太守はお留守だよ」と玄徳。

「お、お留守……?」彼は無意識にごくり、と固唾を呑んでしまった。

 玄徳はにやりと凄みのある笑みを垣間見せる。

「ああ、もう、おそらくは戻って来ねぇな。曹操が怖ぇってさ。……わかるだろ、親父の一件で……」

「……」

 文若は全身に冷や汗を垂らしながら、ちらりと玄徳の背後の馬車を見やった。その馬車の中にいるのは何者なのだろうか? もしや…… 曹巨高その人ではないだろうか……?

 それに思い至ったとき、文若は膝の力が抜けるのを感じ、思わず馬止の柵に身を預け、視線を落とした。

「……」

 この男、知ってしまったのだろう。

 金を与えて口裏を合わさせた、張ガイ配下だった徐州の兵士を見つけ出し、拷問でもして口を割らせたに違いない。甘かった、だが、曹嵩が死んだという証言をさせるために必要だったのだ。それを証人にして応劭に揺さ振りをかければ、大して肝も太くない応劭がいつまでも口を噤んでいられる訳はなかった。曹嵩の隠れ家を告げてしまったのだろうと、容易に見当がついた。

 後は…… この一件の立案者が彼であることを、この男が知っているのかどうか、くらいなものだ。しかしここまで悟られてしまった以上、最早言い逃れのしようもあるまい……

 戦は詐術というが、さすがにこんな法螺を多くの人間に信じ込ませた罪は重い。たくさんの無垢の領民の命も奪わせてしまった。後ろ指を指されれば返す言葉もない。

 不思議なもので、その場面に至ったとき、文若はそれでも甘い主を庇い立てしてしまった。

「……この件には本初殿は関わってはいません」と低い声で口にして初めて気付いた。

 自分は大きな間違いを犯していたのだろうと。

「うん?」と玄徳は促す。

「あの方は…… 器ではありません……」と言ったとき、彼は胸が締め付けられる気がした。器ではない、王たる者ではない。散々、主のことをそう思っていたと言うのに。今更ながらに主への想いが敬愛だったことに気付く。

 その敬愛していた主に決別を告げられた。

 確かに甘い。良家に生まれた御曹司。欠点も多いし、優柔不断な部分もある。

 だが。

 人間臭い。領民を民草として扱えない。それを王の器ではないと彼は評していたのだが。それでも…… いや、だからこそ、なのか。この虐殺を含む事件に、主が関わってはいないのだと誰かに告げたくなった。

「すべてわたくしが計画したのです。すべての責任はわたくしに……」

 そこまで言って口篭った。そして悟ったのだ、自分がどれほど小さいか、を。曹操や袁紹が領民虐殺の咎を負う事は出来ても、彼には出来ない。小さ過ぎるのだ。彼は献策し、曹操がそれを行った。言わば責任を転嫁してしまった。

 それを含めて主は彼を許し、自由に他の主を求めよ、と手放したのだ。どうして器が小さいなどと言えるのだろうか……

 その瞬間、彼は後悔した。主のもとを去ったことを。あの時すぐに自尊心などかなぐり捨てて、主の下に跪き、許しを請うていたなら。

 しかし、もう戻ることは出来まい。あれほどまでに確と決別の言葉を投げかけられたのだから。全てはもう遅い……

「いえ…… わたくしも、そんな器ではありませんね……」と彼は自虐的に呟いた。

「アンタには王佐の才とやらがあるとかって聞いたぜ? 大層な評価じゃねえか」

 文若はようやく顔を上げると軽く首を振った。

「わたくしなどには…… 勿体無い評価です」

 主の大きさを計る器もない。王佐の才どころか、王を作ろうなどと、思い違いも甚だしい。しかし、もう進み始めた道だ、戻ることは出来ない。

 ならば。

 王となるに一番近い人物の所に行くべきなのだろうと文若は思った。それこそが王佐の才、自分の才能を活かす道なのだろうと。


 文若は劉備一行が馬車ともども去っていくのを見送り、もうしばらく宿駅に逗留することにした。玄徳は馬車の中に潜めているであろう奥の手を如何に使うのか、そしてその博打の勝敗は? 勝つのは曹操か、それとも劉備か。

 王たるに相応しい男を見極めたい、文若はそう思ったのだった。


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