2-3
茗荷谷のことは不愉快だったが、あんな女に構っている場合ではないと思い直した。そうそうにカフェを出て、帰宅してスマホをいじる。
─失礼なことをお聞きしますが、もふじさんの亡くなる前に、もふじさんの周りで他にも亡くなった方はいませんでしたか?
もふじのアカウントから返信してくれた彼の遺族に聞いてみたが、それに対する返事はなかなかこなかった。気づいていないのか、訳の分からないことを聞かれてうんざりしているのだろうか。しかし、諦めかけた頃に返信が届いた。
─なんでそんなことを聞くんですか。
はやる気持ちを抑え、細い糸が途切れないように、迷いながらも慎重に打ち込む。
─もふじさんがもらったという人形と似たものを最近手に入れたので、色々と調べています。
それに対する返信は早かった。こちらで話しませんか、と別のアプリのアカウントのURLが貼られている。アカウントの名前はAriel。通話ができるアプリらしい。深夜だったが起きていて良かったと思いながら、急いでそのアプリのアカウントを作成した。電話は苦手だったが、そんなことを主張できる立場ではない。
「もふじはわたしの兄です」
通話ががると、相手は挨拶もそこそこにそう切り出した。三十代半ばと思しき落ち着いた女性の声だったが、警戒心が滲むように強張っていた。
「いましたよ、兄の周りで死んだ人。兄が死んだ前日に」
「本当ですか」
思わず声が大きくなったが、わたしの台詞を遮るようにArielは早口で言った。
「死んだのは、わたしの人生をめちゃくちゃにした男です」
「えっ」
「わたしが高校生のときに通ってた塾の講師です。あいつのせいで、あいつのせいで、わたしは外に出られなくなって、大学受験もできなくなって、ろくな就職もできなくて。警察にも行ったのに、大した捜査もしてくれなくて、泣き寝入りして。両親も、兄も、一緒に怒ってくれたけど、どうしようもなくて。あいつは何ひとつ反省せずにのうのうと、別の塾で変わらずに女子高生に教えてて、放っといたら、わたし以外にもきっと、被害に遭う女の子が」
「え、え」
Arielは感情を押し殺すように早口でまくし立てる。その勢いについていけず、わたしは間抜けな声を出すことしかできなかった。
「そして十五年前のあの日、唐突に、あいつは死んだんです」
呼吸を整えるためなのか沈黙が少しあり、喉に引っ掛かるような音がした。笑ったらしい。
「職場の塾の講師部屋で仕事をしてるときに、いきなり、悲鳴をあげたそうです。股間を押さえて、真っ青な顔で泡を吹いて倒れて、ズボンが血で真っ赤になっていて。救急車で運ばれたけど、ショック死状態だったそうですよ。なんでも、アレが食いちぎられたみたいにズタズタになって取れちゃってたそうです。うふ、ふ、ふ」
彼女はその日の夜、地元を離れてひとり暮らししていた兄のもふじからの電話でそれを知った。もふじは大喜びではしゃいでいたという。
「天罰ってあるんだな、って上機嫌でした。週末海に行ったときに、知らない人にいいものをもらったんだ、って言ってました。信じてなんかいなかったけど、死んでいい人間って言ったらあいつだろ、って、試してみたら本当に上手くいったって。わたしはびっくりして……、まさか、兄が自分の手で、って疑いましたけど、聞けば聞くほど、不可能でしょう。あんなこと、人間にできるはずがない」
混乱したArielは、もふじからもっと詳しいことを聞き出そうとしたが、はぐらかされ、通話を切られたと言う。
「兄が死んだのは次の日です。昼食を取っているときに倒れて、海にも行っていないのに死因は海水による溺死だったそうです。警察はもちろん、どちらの件も捜査してましたけど、いつの間にか事故ということになって打ち切られました」
つまり、あの掲示板の書き込みは真実だったらしい。Arielは低い声で続けた。
「SNSで人形をもらったときのことに触れているのには、しばらくしてから気がつきました。ああ、これのことだったのか、って。でも兄の遺品に人形のようなものはありませんでしたし、信じきれなくて、わたしはこの話を誰にもしていません。……あなた、ほんとにあの人形を手に入れたんですか」
「はい……」
「誰かを殺すつもりなんですか?」
すぐに返事をすることができなかった。Arielの思惑を測りかねていた。闇にうごめく小動物のような微かな息遣いが、電話口の向こうから伝わってくる。
「……それはまだ分かりません」
「でもそうしたいから調べたんでしょう。そして自分も兄みたいに死ぬのが怖くなったでしょう?」
わたしはごくりと唾を飲む。図星だった。
Arielの話が本当なら、もふじは死ぬのが当然の鬼畜のような人間を殺した。しかも自分のエゴや利益のためではなく、妹の人生を奪った復讐だ。それでもあの人形は何の考慮もせず、きっちりと、もふじに呪いを返したのだ。飯田がどんなに糞のような人間でも、わたしが奴を呪えば、呪い返しを免れることはできないのだろう。
しかしそんなことをArielに言っても仕方がない。わたしは唇を舐めて湿らせた。
「あなたは、どうしてわざわざ電話までして、わたしにこのことを教えてくれたんですか」
「それはもちろん、早まらない方がいいと言うためですよ。人を呪っていいのは、同じ穴に落ちる覚悟のある人間だけです。兄はそのことをよく考えずに安易に手を出してしまった。わたしは今でも、時を巻き戻すことができたならば、と思うことがあります。兄に使わせずに、わたしがその人形を手に入れることができたなら……。わたしは死ぬことになっても全く構わなかったのに」
平坦だったArielの声が揺れ、少し湿ったものが混じったような気がした。Arielはひどく不幸な経験をしながら、兄の愛情に生かされて助かったのだ。わたしに忠告をしてくれたということは、彼女も性根が善良なのだろう。きっと仲の良い兄妹だったのだろうに、と思うと胸が痛んだ。
「でも、あの、きっとお兄さんはArielさんに生きて欲しかったんでしょうから。……今Arielさんは幸せに暮らしているんでしょうか」
思わずそんなことを聞いてしまったのは、もふじが自分の命を賭して妹を守った甲斐があったのだと、報われたのだと、確かめたかったからだった。しかし、Arielは黙りこんでしまった。重苦しい沈黙が降りる。
「えっと」
「わたしは仕事も恋愛もろくに続いたためしがありません。自殺衝動が消えなくて、精神科に通院してます。今でも死にたい」
Arielは低い声で淡々と言った。不味いことを聞いてしまったようだ。
「あ、それは、大変な……。あの、軽はずみに、すみません」
「言ったでしょう。今でも、時を巻き戻すことができたならば、って」
その声は思わず身震いするほど冷え込んでいて、黒い海の底を掬っているような感覚に陥る。
「時を戻すことができたならば、わたしは兄を呪い殺したのに」
気がつけば心臓の上に手を当てていた。やけに、息苦しい。
「今でもわたしはあの人に囚われて逃げ出すことができないの。兄は中学生になった頃からずっと、妹のわたしをおもちゃにして突っつきまわして汚らしいことをして、そして自分と同じことをした他の男を呪い殺して、わたしを深い海の底に閉じ込めたまま、逃げるように死んでしまった。わたしはわたしはわたしは、自分で兄を殺さなくちゃいけなかった。そうして死ぬべきだった。そうでしょう、わたしが呪える相手はもういないの。わたしは今でもずっとずっと生きながら死んでいるの。だからわたしは、あなたが、羨ましい」
わたしの返事を待たずに、ぶつりと通話が切れた。
電子音をたっぷり一分間聞いて、ようやく耳からスマホを離す。Arielの声はあんなに冷たかったのに、スマホは対照的に熱を発していて、耳にじっとりと汗をかいていた。ティッシュで画面を拭う。
時刻を見るともう日付が変わっていた。強い疲労を感じてベッドに仰向けになったが、頭は興奮状態で眠気は寄ってこない。
わたしは寝転んだままゆっくりと頭を動かし、視線を移した。狭いワンルームの中で、どこにいてもそれは目に入れることができる。
テレビ台の端に、尻尾を折り曲げた人魚の人形が座っている。人魚の顔はない。よく磨かれた鏡面のようにつるりとしている。元々顔を持たないのだろうと思い込んでいたが、もしかすると、長い年月をかけて数多の人の手に渡り、数多の呪いを聞き入れ、擦られるうちに顔がなくなったのかもしれない。そうだとすると、一体どのくらいの人間が死んだのか。
しかし、不思議と恐ろしいという感情は湧いてこなかった。初めて見たときに恐ろしいと感じた瘴気すら、同居するうちにわたしの体にしっくりと馴染んでいくのを感じていた。この人形はわたしのお守りだ。Arielの話を悲愴だと感じたのに、同時に効果が実証されたことを喜ばしく思う気持ちもある。
あなたが、羨ましい。
冷水のような声が脳裏にこびりついている。
彼女は、呪える相手がまだ生きているわたしが羨ましいと言ったのだ。忌まわしい相手を清算し、自分の人生に幕を引くことができるわたしが、羨ましいと言うのだ。
顔も知らないArielが、黒い海の底に沈められた鉄の檻にひとり閉じ込められているところが思い浮かぶ。彼女は未だに兄に囚われているのだろう。
飯田は死ねば良い。でも飯田を殺して自分も死ぬなんてそんなのごめんだ。そんなことするくらいなら、オフィスの浄水器に猛毒を入れて同僚を全員殺して、警察に捕まる前に自分も自殺すれば良い。どうせ死ぬなら、そっちの方がたくさん殺せてお得だ。そうだ、そうすれば茗荷谷も一緒に殺せるし。
そう思って、はたと気がついた。
もふじはArielを暴行した男を殺して、自分も死んでしまった。普通に考えれば、Arielにとってはこれ以上ない幸運なのだ。憎らしい人間が一度で片付いて自分は無傷なのだから。
それと一緒だ。茗荷谷に飯田を殺してもらえばいいのではないか。あのふたりが死んでしまっても、わたしはArielみたいに海底に囚われたりすることはない。
茗荷谷に死んで欲しいと思うほどの強い恨みがあるかと言われれば、それほどではないし、申し訳ない気もするが、好奇心は猫をも殺すのだ。あの容姿で今までさんざんいい思いをして、世の中の辛酸を嘗めずに済んだのだから、人より少し早めに生を終わりにしたところで、とんとんなのではないだろうか。
胸のつかえがすっと下りた気がした。知らず知らずのうちに口角が上がっている。
わたしは目を閉じた。今日はよく眠れそうだと思った。
しかし物事はそう上手くいくものではなかった。
「ねえ茗荷谷さん」
「茗荷谷さん、ちょっとこれ見てくれる」
「茗荷谷さん」
自席でキーボードを叩きながら、茗荷谷がひらひらとシマの合間を動き回るのを横目で観察する。派遣社員は社員のアシスト的な業務をしているので、茗荷谷と喋りたいがために、特に意味もなく呼ぶ社員が多い。他の課の人間も何かと理由をつけてやって来るので、茗荷谷が来てからオフィスに無駄な活気が出た。
「茗荷谷さん、忙しくて大変ですね」
トイレで会ったので話し掛けてみると、茗荷谷は筆に取った口紅を唇に載せようとしていた手を止めて、鏡越しに微笑んだ。
「そうでもないですよ。ここの職場はまともな人が多いですし、快適です。大きい会社の方がいいですね、やっぱり」
「でも、どこでだって茗荷谷さんは優しくされるでしょう」
思わず皮肉ってしまったが、茗荷谷はそんなことで動じない。
「そう見えるかもしれませんけど、そうでもないんですよ。お嫁さん候補扱いして、ちゃんと仕事をやらせてくれるところ自体が少ないんです。令和の話ですよ。女性は容姿と性器さえあればいいと思っている人は男女問わずいますし、下品で残酷なことを言うのが楽しいコミュニケーションだと勘違いしている人も未だにいます。どんなに美人でも子どもを産まなければ価値がないとか、美しいのに無防備な女は犯されても文句は言えないだとか、どれだけあてこすられて来たか。ナンパだのストーカーだのに監禁されそうになったり殺されそうになることも、しょっちゅうありますよ。バーでお酒に薬を入れられたりね、日常茶飯事です。ま、わたしに薬なんて効きませんけど」
ケロリとした顔をしているが、こちらがたじろいでしまう。
「美人は大変ですね」
「どうでしょう、不美人は不美人でひどい扱いを受けたりしますからね」
鏡の中の自分と目が合う。生気に欠けた、ぞっとするようなひどい顔だと思った。
わたしのもともとの顔立ちはごく平凡で、美人でも不美人でもないと思う。化粧を勉強すれば綺麗になると言われたこともある。しかし、そう、何をやっても、人間的魅力の無さが顔に出ている。
「でもまあ、ここ数十年で人の価値観もだいぶ変わってきましたね。良いとか悪いとかじゃなくて、変わっただけ。面白いですね人間は」
何が面白いのか全く分からない。茗荷谷は涼しい顔で口紅を塗っている。そうしているだけで化粧品のポスターになりそうだ。
「そんなことより藤野さん、呪いの人形見せてくれるって話はどうなったんです」
やはり来た。
「見せるとは言ってませんけど」
軽々しく茗荷谷に人形の話をしてしまったことは失敗だった。どうやったら人形の力が発動するのかまでは言っていなかったが、ちょっとこの人形のこのあたりを擦って課長の名前を言ってみてください、なんてやったら、茗荷谷は何をさせられようとしているのか、すぐに勘づいてしまうだろう。
「大事なものなので、やっぱり外へ持ち出すのは抵抗があります。今度うちに来ますか」
部屋でふたりきりだったら誤魔化しようがあるかもしれない。少し手を考えよう。わたしの言葉に、茗荷谷の顔が意外なほどぱっと輝いた。
「ほんとに? いいんですか」
「でも人に言わないでくださいね。変な噂になったらいやだから」
「もちろんです。藤野さんのおうちにあげてもらえるなんて嬉しい。ケーキ買っていきますね。この前美味しい塩レモンケーキのあるケーキ屋さんを見つけたんです。お好きかしら」
「気を遣わないでください」
茗荷谷は人形が見られるということより、わたしの家に来られることを喜んでいるように見えた。どうしてこんなに喜ぶのだろう。他の同僚は誰でも、茗荷谷が家へ遊びに行きたいと言えば喜んで招き入れてくれるだろうに。わたしに特別な関心があるというのだろうか。
茗荷谷と別れ、用を足してからオフィスに戻ると、ちょうどデスクの電話が鳴った。わたしはいい年して電話が苦手で、ベルの音を聞くだけで胸がキュッとなってしまう。
「藤野です」
「藤野さん、波多野工業の田所です」
遠慮がちな中年女性の声がする。波多野工業の総務の田所さんだ。穏やかで親切な人だが、いつもより声のトーンが弱々しいのが気になった。
「田所さん、お世話になっております」
「あの、ちょっとお話が」
田所さんは小さく息を吸って、覚悟を決めたように「来月の自動車保険の更新、他社でお願いすることになりました」と一息に言った。
文字通り絶句したわたしは、しばらく呼吸を忘れた。一気に血の気が足元に落ちて、一瞬意識が遠のきかける。椅子に座っていて良かった、などとどうでも良いことを思う。
波多野工業の自動車保険の年間保険料は五百万円で、来月この課が保有する契約の中で一番の大口だった。数十年ずっと当社で更新され続けていて、もちろん予算に見込んでいる。これが計上されなければ、課はおろか、営業部全体の成績が大きく揺らぐ。この契約がなくなることは絶対に許されない。
「え、あ、なぜ」
つっかえながら間抜けな声しか絞り出せなかった。田所さんはバツが悪そうにもじもじ言う。
「本当、ごめんなさいね。藤野さんも頑張ってるのに、こんなこと言いたくないんだけどね。こないだの従業員の団体傷害保険の申込書、ちょっとミスがあったじゃない」
「ミス……」
「ちょっとね、まあそういうこともあったし。社長がね、今後も見据えてね、他の会社とのお付き合いも考えたいかなって」
確かに、先週更新だった傷害保険の書類で、捺印を一か所もらい忘れた箇所があり、次の日にもう一度社長にもらいに行った。しかし、ただそれだけだ。書類のミスなんて、日常的によくある。保険料を間違えたわけでもないし、顧客側に大きな手間を取らせたわけではない。今まで数十年の付き合いの中で、もっととんでもないミスはきっとたくさんあったはずだ。どう考えても、ただの口実だ。
受話器を持ったまま、思わず課長席を見た。飯田が剣な表情でパソコンを眺めている。日に焼けた額が蛍光灯の下でてらてら光っていた。機嫌が悪そうだ。心臓が針金で締められたかのようにぎゅううと痛んだ。
課の成績も部の成績も、心底どうでもいい。自分が怒られることだけが怖い。
頭の中で億千の言い訳を展開させたが、最悪の事態を回避するルートが見つけられない。飯田には人格の全てを否定する勢いで罵倒されるだろう。課内中に無視され陰口を言われ、陰湿ないやがらせを受けるかもしれない。人事評価などはどのみちあてにしていないが、地方に異動になるかもしれない。南の果てか北の果てか、そこはここよりもっとひどいところかもしれない。
どう答えたかよく分からないまま、気がつくと電話は切れていた。わたしは強く心臓を押さえた。心筋梗塞で倒れて救急搬送されれば、さすがに怒られないで済むのではないだろうか。しかしそんなことは起こるはずもない。どうしよう、どうすれば。
パニックになりかけた頭に、ぱっとその考えは浮上した。
そうだ、飯田に報告する前に殺せばいいのではないだろうか。
その思い付きは闇の中に射した一筋の光のごとく、鮮烈にわたしを照らした。わたしがタイミングよく心筋梗塞を起こすことはないが、飯田に死んでもらうことはできる。だってわたしは呪いの人形を持っているから。少なくとも飯田に怒られることはなくなるし、社内で派手に変死してくれれば大騒ぎになって、部長などもそれどころではなくなるだろう。
そうとなれば、急がなくては。
波多野工業の社長から、直接飯田に連絡があるかもしれない。すぐに茗荷谷をわたしの家に連れて行き、何とかして飯田を殺させるのだ。うまくいけば、飯田が帰宅する前に間に合って、社内で死んでくれるかもしれない。そうすればより騒ぎが大きくなるだろう。
焦ったわたしがノートパソコンを閉じたとき、耳元でせせらぎのような軽やかな声がした。
「藤野さん」
はっとして振り向くと、茗荷谷が立っていた。体の前で両手の指を組み、微笑んで小首をかしげている。
「は、はい」
「何か困ったことが起きましたか。汗かいてますよ」
喉はカラカラだったがごくりと唾を飲み、手の甲で額を拭った。
「大丈夫です。それより茗荷谷さん、いいところに。今日これからの予定……」
「大丈夫じゃないと思います」
茗荷谷は小さな声で囁いた。
「大口の契約が落ちそうなんですか」
「えっ」
弾かれるように顔をあげた。茗荷谷の席はだいぶ離れていて、わたしはほとんど何も喋っていないし、電話の向こう側の田所さんの声が聞こえたはずがない。茗荷谷は腰をかがめ、わたしだけに聞こえるように早口で言った。
「もし落ちてしまったとしても、仕方がないです。商売なんですから。たまたま担当だった藤野さんのせいじゃありませんよ。それより黙っている方がまずいです。サラリーマンに大切なのはホウレンソウって言うでしょ? 昔から。課長に報告しに行きましょう」
「え、いや、そんなこと」
「大丈夫です、わたしが上手くフォローしますから」
澄み切った瞳に真っ直ぐ見つめられ、わたしは魔法にかかったように、よろよろと立ち上がった。スポンジの上を歩くような足取りで飯田の前に出ると、怪訝そうな目線を向けられる。
「何、藤野さん」
「波多野工業の自動車保険、他社で更新すると連絡がありました」
ぴたと動きを止めた飯田の顔がみるみるうちに真っ赤になった。こめかみのあたりに筋が何本も浮き上がり、大きく口を開け、息を吸う。来る、と思った刹那、絶妙なタイミングで茗荷谷が「あの」と口を挟んだ。出鼻をくじかれた飯田に、茗荷谷は優雅な動きで頭を下げた。
「申し訳ありません。先週の書類不備の件を先方の口実にされてしまいました。捺印箇所にはお客さまが分かりやすいよう付箋もつけていますから、本来こちらの不手際ではないのですけれど。先週田所さんとお電話でお話ししたときに、他社の新しい営業が社長室に入り浸ってて何してるんだか、って零してましたから、もしかしたら社長の個人的なご意向があったのではないでしょうか」
勢いを削がれた飯田は、それでも口の端をぶるぶる震わせ、凄い形相でわたしを睨んできた。
「新規の営業に抜かれたってことかよ。何やってんだ藤野ぉ……」
「社長とお会いする機会は飯田課長の方が多かったんじゃありませんか。何か仰ってたとか、ありませんでしたか」
茗荷谷がやんわりと言う。オフィスに残っていた社員も皆、固唾をんでこちらに注目していた。
波多野工業は重要な取引先だから、課長自ら社長とがりを持つようにしていた。原因が社長の心変わりというのであれば、むしろわたしよりも飯田の落ち度の方が大きいと言えるのではないか。それでも、わたしが同じことを口にすれば怒鳴られるだろう。
しかし飯田はただ赤い顔をして口を結んだ。茗荷谷は涼しげな顔でつらつらと続ける。
「波多野さんは何十年も我が社とお付き合いのあったお客さまだと聞いています。確かにあちらがお客さまではありますけども、こちらは保険金をお支払いしておりますから、そういう不義理が簡単に許される業界ではございませんでしょ。すぐに社長に会いに行かれます? とりあえず、出せるだけの保険金の支払履歴をプリントしましょうか」
「……頼む」
絞り出すような声で飯田が言った。拳を握った手が、小刻みに震えている。
「アポ取らずにすぐに行くから」
「承知しました」
茗荷谷がさっさと自席に戻っていく後姿をわたしはただ茫然と見ていた。一本の木のように背筋の真っ直ぐ伸びた背中は、表しようがないほど美しかった。
この場にいる全員が魔法に掛けられたように、茗荷谷を見ていた。オフィス全体に何かの粉を振りかけられたように、皆、茗荷谷の魔力に痺れている。
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