2.にんぎょにんぎょう

2-1

 死んでほしい人間がいる。

「藤野さん」

 不思議なことに、飯田に声を掛けられるときは、実際に発声される直前に分かる。ああ来るな、と予感がする。嫌悪感を持ちすぎて神経が過敏になっているのだろう。

「はい」

 無言で手招きされて、できる限り早く駆け寄る。もたもたしていると攻撃材料が増えるからだ。それにしてもどの件なのか、心当たりがありすぎる。

「波多野工業の件さ、俺、逐一報告あげろって言ったよな」

 その件か。椅子にもたれかかった課長の飯田は、吐き気でも感じているかのように眉間に深く皺を寄せている。よく日焼けした南の男らしい顔つきは、一見精悍のようだが、中身は蛇より陰湿だ。

「はい」

「はいじゃねえよ。さっき波多野社長と話したんだけどさ、市川の工場の火災保険、相見積になったって、藤野さんには言ったってんだけど。聞いてねえぞ、あ?」

「すみませんでした」

 わたしは即座に頭を下げた。考えるより早く謝罪する癖がついている。こまめに報告をあげろとは確かに言われていたが、別の顧客の新規案件で同様に他社と相見積を取られることになったとき、飯田に報告したら「いちいち報告いらない、ガキの使いじゃねえんだから」と吐き捨てられたから、今回はあげなかった。

 しかし言い訳はしなかった。多分、別の顧客と波多野工業は重要度が違うということで、わたしがそれを理解していないバカだと言われるだけだ。

「すみませんでした」

 ひたすらそれだけ連呼していると、飯田は露骨にうんざりした表情で「で、どうなってんの、今」と報告を促してきたのでほっとした。別に案件自体は不味い事態にはなっていない。現在の進捗を手早く報告して解放された。

 終業間近のオフィスでは、ほぼ全員のメンバーが着席しているが、特にわたしを気に留める人はいない。いつもの光景だからだ。ばれないように、細く長い溜息をついた。膝に置いた拳がかすかに震えている。ずっと動悸がしていて、治まらない。

 本当はすぐにここを出て、トイレにでも行きたい。でもこのタイミングでオフィスを出れば、飯田が大きな声でわたしをこき下ろすだろう。最近は後輩にも馬鹿にされ始めているから、それはできるだけ避けたい。

 日系損保に勤めるわたしが経理から営業へ異動してきたのは二年前、入社五年目のときのことだが、三十歳目前で新人のような扱いを受けているのはつらいものがある。

 はっきり言って、営業の仕事はわたしに全く向いていない。経理の仕事は上手くいっていたから、頭の回転が悪いわけではないと思う。しかしカンも察しも良くないし、臨機応変に対応するのが苦手で、コミュニケーション能力が低い。顧客の重要度など、数字だけで画一的に測れないものがうまく理解できない。容姿も凡庸で、特別に不細工ではないと思っているが、決して美人でもない。見た目だけで好感を持ってもらえることもない。

 半年前の人事で飯田が大阪から異動してきたのだが、わたしが人事面談で異動希望を出した頃から嫌われるようになった。在籍の短い人間が異動希望を出すと、上長の減点になるからだ。

 飯田は入社からずっと営業畑を歩いてきて、業績をあげて何度も社内表彰を受け、最年少で管理職になったという。課長になってからここが二箇所目の四十一歳。わたしのような仕事の出来ない人間のことを理解できないし、する必要性も感じないのだろう。

「そろそろ行きましょうかあ」

 次席である巨漢の上倉さんが伸びをして、のんびりと言った。

 最悪なことに、今日は月末の締め飲みだ。飲み会の風習は新型感染症の流行で廃れ去ったと喜んでいたのに、飯田の着任と一緒に戻ってきた。表向きは任意参加であるものの、こと独身者の欠席は許されない雰囲気がある。

 わたしは左の胸の上あたりをそっと押さえた。これはわたしの癖で、過呼吸の症状にビニール袋を口にあてがうのと同じようなものだ。確かめたいのだ。大丈夫、わたしの心臓は動いている、と。

 

 

 会社の近くにある海鮮居酒屋の座敷を貸しきりにして、益のない宴席がダラダラと始まる。新人が社員の間を縫って注文を集め、そこかしこでグラスやジョッキのぶつかり合う音がする。喧騒と揚げ物の匂いで気分が悪くなりそうだ。わたしは烏龍茶のグラスを持ち、できる限り端の席に座って、人の話に相槌を打って過ごした。

「藤野ちゃん、課長にお酌でもして媚び売っといた方がいいんじゃないの」

 このまま乗り切りたかったのに、事務のベテラン、太田さんがわたしに囁いてくる。

「あ、いえ、わたしが行っても課長もいやでしょうし」

「そんなことないそんなことない。課長、口は悪いけどさ、体育会系だから。へこたれずに懐に飛び込んでくると喜ぶから」

 ビール瓶まで渡されて拒み切れず、のろのろと飯田の陣取るテーブルに向かう。声をかける前から、飯田の左隣に座っていた上倉さんが気がついて「おっ藤野さん、ここ、どくから座って!」と席を立ってしまう。

 顔を赤くした飯田は既に目が半ば据わっており、暑いのかワイシャツのボタンをふたつ開けているのが気持ち悪かった。急いで膝をついて、飯田のグラスにビールを注ぐ。泡だらけの不格好な一杯だ。早々に立ち去ろうと思ったのに、一気にグラスを飲み干した飯田は、低い声で言った。

「藤野、お前、どうすんだよこれから」

 心臓がぎゅっとなった。業務中はさん付けで呼ばれるのは、昨今の風潮を汲んでいるのだろうが、宴席では呼び捨てだ。他の女子社員はさん付けのままだが、わたしだけ呼び捨て。

「……はい」

「七年目だっけ。七年目つったら立派な中堅だろ。そろそろ教わるんじゃなくて教える方の立場だろうが。このままじゃやばいっていう自覚あるわけ? お前見てるとさ、ビジョンとか全然伝わってこないわけよ。社会人として、これからどうなりたいって思ってんの?」

 膝の上の自分の拳に目を落とす。脇から冷や汗が噴き出てくるのを感じた。テーブルの他のメンバーは聞こえないふりをして、面白い動画の話題に花を咲かせている。

 このままじゃやばい、このままじゃやばい。

 確かにその通りだろう。しかしこれから会社でどうなりたいのか、自分でも全く分からない。とにかく営業部から逃げ出したいという一心しかなく、今後自分がまともな社会人になる前向きな『ビジョン』なんてとても描けない。

 言葉が見つからず絶句していると、飯田は鼻で笑った。

「まー、言うてさ、お前も女なわけだから、仕事できなくても結婚って道もあるかあ。そっちはどうなの」

 話がそちらに転がるとは思わず、眉の辺りがぴくりと痙攣してしまった。飯田にプライベートの話をしたことはない。

「結婚の予定はありません」

 小さな声で答えると、「彼氏とかは」と追い打ちがかかる。

「いえ、特には……」

「特には、ってなんだよ。いるかいないかだろ、特にもクソもねえだろうがよ。お前、そういうとこがいちいち駄目なんだよ」

「すみません」

 何を言っても裏目に出る。飯田は手酌でビールを注ぎながらぶつぶつ言った。

「あのさ、悪いけど、お前モテないの分かるよ。いやほんとごめんな、顔がブスとか言いたいんじゃなくてさ。いくら人は顔じゃねえって言ってもさ、滲み出るだろう。内面がさ。生まれ持ってのいい容姿じゃなくても、人間的な魅力っていうのがあればいい女になるんだよ。ほら、キャバでもナンバーワンは意外とブスだったりするじゃん。それが、お前はどうだ。仕事も駄目だってのに、ウジウジジメジメしてて、人間性にもまるで魅力がない。そういうのが全部顔に出てるんだよ。だから男も寄ってこないんだ。ほら、俺のグラス空いてても気づかねえくらい気も利かないし。あ、このご時世だから、別に注げってんじゃないよ。強要とか言われるとめんどくせえからさあ。でもすかさず注ぐ奴は気が利くなって思うし、そういうもんの積み重ねだろ、人間関係って」

 すみませんと言うのも忘れ、わたしはただうつむいて座っていた。気がつくと、ほとんど無意識に心臓の上を押さえていた。

 聞こえないふりをしていた同じテーブルの誰かが、さすがにまずいと思ったのか「もー、課長~」とおどけてたしなめた。

「そんなこと言って、分かんないでしょう。藤野さんみたいな大人しそうな人こそ、意外な一面を持ってたりするもんですから」

「あー、夜は凄いとか? 分かる分かる」

「あ、駄目だ、それはセクハラ。アウトで~す!」

「あー、ごめん。それは悪かった! すまん、すまん。この通り」

 顔をてらてらと光らせた飯田は、手刀を切ってテーブルの面々にぺこぺこと頭を下げたが、わたしの方だけ向かなかった。わたしへのモラハラセクハラを詫びたのではなく、他のメンバーを不快にさせたことを詫びている。同僚は、わたしを助けたつもりなのか、「次はないっすよー」なんてへらへらしている。

 一滴も飲んでいないのに頭がぼうっとしてきた。心臓が痛い、脈が速い。

 惨めな気分だとか傷ついただとか、そういう段階はもう超えてしまったような気がする。何が痛いのか、なぜ痛いのかもよく分からなくなっていた。逃げ出したいのに、今ここから逃げ出したら二度と戻ってこられない気がする。正座している足は痺れてうまく動かない。

 落ち着け、とわたしは自分に言い聞かせた。冷静になるべきだ。

 仕事もできないし、人間性の魅力の無さが顔に出ているから、わたしにはいいところが一つもない。それは本当だろうか。

 幸いなことに、これがハラスメントだと思える冷静な理性がまだ残っている。同僚たちがわたしを庇ってくれないのは、わたしが仕事ができないからだろうが、仕事ができなければ人権がないというわけではない。そうだ。わたしはこんなところで、こんな赤ら顔の中年男に人権を無視されていい人間ではないはずだ。こいつは間違っている。

 ……死ねばいいのに。

 ふいにその言葉が浮かんだ。

 そうだ。こんな奴死んだらいいんだ。お前なんか、死ねよ。飯田の横顔を見ながらそう唱えると、心が少しだけ楽になって、わたしは心臓から手を離した。

 

 

 それからどういう流れで飲み会がお開きになったのか、よく覚えていない。気がつけばわたしは自宅の最寄り駅を三駅乗り過ごし、初めて降りる駅のホームに立っていた。

 反対方向の電車に乗るには、ホームを移動しなくてはいけない。溜息をついて、のろのろ階段を下りると、駅舎の向かいにあるカフェチェーンの看板が目に入った。その途端、疲れて早く帰りたいと思っていたはずなのに、引き寄せられるように改札を出てしまった。

 見知らぬ駅前のロータリーは、牛丼屋やコンビニ、飲み屋などが雑然と並んでいて、通行人も多く賑やかだったが、何だかすべてが作り物のように白々しい。ビルの隙間で押し潰されそうな、妙に間口が狭いカフェに入ると、中もやはり狭苦しかった。一杯温かいコーヒーでも飲めば、少しリフレッシュになるだろうか。

 カウンターでホットコーヒーを買うと、壁際の椅子に座った。店の内装もすべてがなんとなくくすんでいて、全席禁煙の張り紙があるのに、煙草の臭いがする。何のリフレッシュにもなりはしない。なぜこんなところへ入ってしまったのか、やめればよかった。暗澹たる気持ちでコーヒーに口をつけると、隣の席に人が来た。

 店内は空いているのに、なぜ席をひとつ空けてくれないのだろう。ちらりと顔を窺うと、老婆だった。思わず見てしまう。

 顔中の深い皺に目が埋もれており、人間の皮膚というより木の皮のように見える。白髪はざんばらで腰のあたりまで伸びており、色褪せた紫色のワンピースから棒のように細い手足が突き出ている。飲み物を持っていないが、カウンターで注文するシステムを知らないのだろうか。ホームレスかもしれないと思ったが、特に悪臭などはない。老婆が腰を下ろした瞬間、潮のような匂いを感じた。

 こっそり観察していたつもりだったのに、老婆がいきなりこちらを向いた。皺の中の白濁した目と目が合い、ぎょっとする。木の皮に入った切れ込みのような口が動いた。

「あんた、見てやろうか」

 しわがれて細い声だったが、何とか聞き取れた。

「え」

「わし、色々見えるで。手え握れば、そいつの皮の中身が見えるんやよ」

 自分の顔が引き攣るのを感じた。関わり合いになりたくない。九十歳も過ぎているように見えるが、きっと認知症が進行しているのだろう。コーヒーを飲み干して席を立とう、と思ったら、老婆は両手のひらを上に向けて、わたしに差し出した。

「手え」

「え、いや、無理です」

 顔の前で手を振ったのに、老婆は見た目から想像もつかない無駄のない動きで、すっとわたしの手を取った。反射的に振り解こうとしたのに、精気を吸い取られたかのように体が弛緩し、動けなかった。口を開く気力すら湧かない。老婆の手は全く水気が無く、紙のような感触だったが、やたらと熱く、それだけがこの老婆は幽霊ではなく生きているのだと示していた。

「あれえ」

 老婆はうつむいて、ぶつぶつ言った。

「あんた、見た目より骨があるな。見込みがある。『死にたがり』やない。自分が死ぬより、ひとに死んで欲しがっとる」

 思わずどきりとして、その衝撃で手に力が戻る。慌てて老婆の手を振り払った。老婆はたじろぐわけでもなく、わたしではないどこか遠くを見ている。

「あんなあ、同じなあ、絶望のさなかにあっても、その矛先がおのれへ向くのんと他人へ向くのんがおる。他人へ向く方がええ。そっちのが健全や。顔見たらなあ、どうせ死にたがりやと思ったけどなあ、ええわ、そっちのが、ええわ」

 歯が足りていないのか、聞き取りづらい声で、もごもごと老婆は言った。

 わたしはそんなに死にたがっていそうな顔をしているのか。そう思ったら、ふいに先程の飯田の台詞が頭によみがえった。

 仕事も駄目だってのに、ウジウジジメジメしてて、人間性にもまるで魅力がない。そういうのが全部顔に出てるんだよ。

 わたしは思わず両手で心臓を押さえた。手で鷲みにされているかのように痛い。

「おお、おお、ろくでもねえ男やなあ」

 遠くを見たまま老婆は呟いた。皺が深すぎて、どんな表情をしているのかさっぱり分からない。手を握ってもいないのに、まるでわたしの頭の中を読んだようだった。

「自分のことを棚に上げて、好き勝手なこと言いよって、憎らしい。なるほど、あいつは死ねばええなあ。死ねばええ、死ねばええ。でもなあ、殺したらなあ、あんた、お上に捕まるからなあ」

 ぶつぶつ言いながら、老婆は足元に置いていた紙袋の中から何かを取り出して、テーブルの上に置いた。

 ひと目見た途端、背筋に悪寒が走った。

 それは陶磁器の人形だった。かなり年季が入ったもので、もとは黄土色だったようだが、全体が真っ黒になってくすんでいる。大きさは二十センチほどで、人形と判断したのはひとの形をかたどっているように見えたからだが、やっぱり違うかもしれない。頭らしきものはあるが、腕が一本欠けている。それに二本の脚ではなく、一つの大きな尻尾のような形になって、横に投げ出されている。尻尾のようなものには鱗のような文様が刻まれ、尻尾の先は欠けているがひれがあったように思えた。

「人魚?」

 思わず声が出たが、老婆はそれには答えない。気付けばわたしは二の腕に触れていた。鳥肌が立っている。瘴気というのか、邪悪な気配が人形から滲み出ているのを感じる。これはよくない。霊感などは皆無だが、これはまずいものだとはっきり分かる。

 であるのに、目が離せない。

 人形の顔は目鼻が無く、鏡面のように滑らかに光っていた。ない眼でじっと見つめられると、不気味である反面、何とも言えない愛着のような感情が自分の中に湧き始めて戸惑った。恐ろしくて気持ち悪いのに、懐かしいような、愛おしいような気さえする。これが愛おしいとは、一体どういうことなのか。自分でも信じられない。

「これ、あんたにやるから。割れもんやから気をつけな」

 老婆は、小さな子どもにするように、人形の背中らしいところを優しげにさすった。

「顔の所をな、両手の親指で撫でながらな、殺して欲しい人間の名前を言うんや。簡単やろ。でもやってくれるんは、ひとりだけやで」

 いらないと言って、席を立たなくては。

 分かっているのに、『いらない』という言葉が出てこない。

 わたしは人形を凝視したまま、口を何度もぱくぱくさせたり、唾を飲んだり、小さな深呼吸をしたりした。そうしているうちに、視界の隅で、老婆がゆっくりと立ち上がり、去って行くのが見えた。人形をテーブルに置いたまま。止める声も、やはり出て来ない。

 どのくらいの時間が経ったのか、やっと人形から目を離すことができて、わたしは目をつぶって溜息を吐いた。指先で瞼を押さえる。

 冷めたコーヒーはもう飲む気がしない。そっと人形の胴体をんで持ち上げると、意外と冷たさがなく、ほんのりと温かく手になじむ。生きている、とあり得ないことを思う。いけない。魅入られる。

 いけないのに、ここに置いていくという選択肢がない。そのまま、トートバッグの中に入ってもらう。

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