第2話 偽りにさよならを(2)

 白い廊下に、三人の足音だけが規則正しく音を刻む。作業室に向かう間も、誰ひとり口を開くことはなかった。

 最奥の部屋に入館証をかざすと、電子ロックが薄く光って扉が開く。その先は、余計なものを削ぎ落としたような、殺風景な空間が広がっているだけだ。壁も天井も床も、すべて無機質な白。長時間人を留めておこうなどという優しさは、ひとかけらもない。

 それもそのはずだった。この部屋は、AIのデータ消去にしか使われない部屋だったから。


 部屋の中央には、ひとつの机と、パソコン。

 モニターの青白い光が、誰もいない空間を冷たく染めていた。


 彼が足を踏み入れると、自然と部屋は明かりに包まれる。研究所らしい白色の蛍光灯に照らされながら、彼は抱えていた資料を壁際のキャビネットの上に置いた。

 先程署名を貰った『契約解除同意書』と『委任状』だけをすっと抜き出し、それらを持って端末へ近づく。書かれたID番号をもう一度、一文字ずつなぞるように目で追い、慎重に入力していった。

 その手にじわりと汗が滲んでいることを自覚していた。データ消去作業に立ち会うこと自体は今までも時々あったが、いつもこの瞬間は顧客そっちのけで緊張が走る。

 もしも顧客番号を間違えてデータを消去しようものなら……先輩いわく、厳重注意では済まないらしかった。


 穴が空くほどモニターを確認をして、Enterキーを押す。

 画面が遷移して現れた名前は、間違いなく『クロサワ ナギサ』。もう何度目の確認かは分からないが、それでも口頭で確認するのがルールだった。


「契約者氏名は『クロサワ ナギサ』様でお間違いありませんか」


 彼の言葉に、女性が頷いた。

 キーボードに『確認』の文字を入力すると、画面が再び遷移する。

 現れたのは、大きな『Delete』ボタン。枠線がゆらりと光るだけで、そこには何の音も、飾り気もない。

 正真正銘の、これが最後だ。一介の研究員に出来ることは、もうなかった。


「停止操作はご本人様、もしくは委任者の方がお願いいたします。当方が作業を行うことは、規約的に禁じられておりますので」


「……僕が、委任者が行います」


「わかりました。再度のご確認ですが、画面の『Delete』が最終同意となります。操作後、AIデータは速やかに消去され、復旧はできませんのでご注意を。操作は利用者様のご意思によるものと記録されます」


「ええ……わかってます」


 そう答えた男性と入れ替わるように、彼はキャビネットを背にして壁際に控えた。

 ボタンは既に選択してある。あとは、この委任者───瀬戸 涼介が、Enterキーを押すだけだ。


 男性が女性に、何やら小声で話しかけている。それに対して女性もまた、柔らかく微笑みながら言葉を紡ぐのが聞こえてくる。


 その姿を見て、やはり、よくできていると思った。生前と同じ記憶を持っていて、肉体もこんなに人間らしい。人格が記憶に宿ると言うのなら、彼女はすでに人間と言って差し支えないだろう。肉体についても、人間と遜色ない。最新の医療で本人の体細胞を元に再現している。ここまで精巧に作れるようになったのは、つい最近のことなのだが。


 人の死は、超越できる時代になった。

 しかし技術の進歩に反して、世間では死者をAIとして甦らせることへの批判はまだ根強かった。研究員の多くが仕事の内容を周囲に明かさないのも、そのせいだ。


 この二人もまた、そのような世間の声に流されてしまったんだろうか。生きたかった命があって、生きて欲しかった命があって、消えない笑顔を明日に繋げたというのに。

 今、こうして全てをなかったことにしようとしている。二人は何を思い、なぜここにいるのか。

 愛情の行き違いかもしれない。あるいは親族の事情かもしれない。あるいは、あるいは。


 あれこれと考える可能性の全てが、答えの出ない憶測であることは分かっていた。ことここに至る詳細を、彼が知る道理も由縁もない。もしかしたらただ単に、サービスを維持する金がなくなっただけかもしれない。世知辛いが、よくある話だ。


 知りたい気持ちもあったが、彼らが交わす最期の言葉を真正面から浴びるのは遠慮したかった。己の研究意義とか、そういうなにかが揺らいでしまわないように、妄想で耳を塞ぐ。それでも、人間の脳みそはそう都合よく動いてはくれないものだ。


「消して、涼介。他の誰でもない、あなたの手で」


 彼女の決意の声が、広がっていた妄想にピリオドを打った。

 覚悟の決まったその瞳に、別れ際の女性は強いな、なんて場違いな感想を抱いた自分を恥じた。


 彼女の一声が瀬戸 涼介の背中を押す。

 彼は震える手で、Enterキーに王手をかけた。それを見て、彼女は微笑む。それは満足げで、でもどこか寂しげで。


 果たして彼女は───我が研究所が誇る<ARIA>は、幸せだったんだろうか。ひと時を大切な人と過ごせた彼は、幸せだったんだろうか。

願わくは、そうであって欲しいと思った。


「ごめん」


 きっと目の前の彼女に向けた、震える謝罪と共に、その指先が振り下ろされる。

 彼女の命を決定づける、Enterキーをめがけて。

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