ep.13 国の長
アダルと名乗った初老の男は、トワの後ろにいたノアを見ると少しだけ目を見開いた。
当然と言えば当然だ。このリシル市国の人間は、この林を抜けてはいけない、という暗黙のルールを固く守っている。それを破っている自分がその場にいたら、驚くだろう。勿論彼もその暗黙のルールを破っている本人ではあるけれど。
「お取込み中でしたか。出直しましょうか?」
「いや構わないよ。入ってくれ」
「しかし、彼の前で話してよろしいので?」
「彼は私が人間ではないことを知っているから」
トワの言葉に、アダルは意外そうに眉を上げた。じろりと流れてきた視線は何かを探るようではあったものの、ついぞノアに何かを言ってくることはなかった。
「では失礼いたします」
「ああ、そこの椅子に掛けると良い。……ノアも座って。きみも聞くべきだ」
背中を押すように手を添えられて、彼の言う通りにアダルの近くにあった椅子に同じように腰を掛けた。その間もアダルの視線が自分に刺さっていた。居心地は悪い。が、無視すればどうということはなかった。トワだけを見つめれば良い。
トワは客人の為に茶を用意してくれているようだった。三人分のマグカップを乗せたトレイを持って、こちらに寄ってきた。マグカップを二人分取って、一つをアダルへと差し出す。ムッとされるかと思ったのに彼は、ありがとうございます、と素直に礼を言いながら受け取ってくれる。悪い人ではないようだ。
ソファに腰を下ろしたトワは、さて、と声を上げる。
「ノア、彼はアダルだ。この国を治める長でもある」
目を見開いて彼を見れば、頭を下げられた。この国の長はもっと派手な格好をしていると思っていたから、まさかだった。かなり失礼な態度を取った気がして、慌てて頭を下げたノアにくすりと笑ったトワは、言葉を続けた。
「アダルはノアのことも知っているから紹介は不要かな?」
「はい、リシャール様」
「わざわざ来てもらってすまないね。早速報告を聞いても良いかな」
少しだけ頷いてから、アダルは語り出した。
「数日以内に
「そうか。思ったよりも行動が遅いようで助かった。入国審査に許可が下りるのは、長くて一か月だと言っていたけど、彼ら相手なら一週間が妥当だろうね」
「ええ、仰る通りです」
分からない話がアダルとトワの間で繰り広げられて、ただ聞いていることしかできない。『御使』であるトワを追っているのが、
カイが前に言っていた『私たちへの理解が足りない阿呆共』が彼らを指すのだとしたら、トワが此処から離れるという判断も頷ける。
でも、と思う。
入国審査を通さないということは出来ないのだろうか。
「しかしリシャール様の為なら、我々はその申請を蹴る事も可能です」
はっとアダルを見る。彼のまなざしは真剣だった。トワをそれなら、と言ってくれるはずだ。そう思って彼を見たのに。
トワは首を横に振った。
「そんなことをしたら、リシル市国の人々が殺されかねない」
「それは一部の過激派だったらの場合でしょう?」
「捜査を拒否することは、いずれそういう過激な一派を此処に呼び寄せる一端になる。全国民の命と私を天秤にかける必要はない。私がこの国を去れば穏便に事が済む」
トワの言葉に、アダルは黙った。
いつだってトワは正しい。彼は常に周りの状況を掌握しつつ、最善の判断を下す。いつだってそうだった。それをアダルもよくわかっているのだろう。しかしアダルは再び口を開いた。
「
強い言葉だった。貴方のおかげ、という言葉の意味をノアは知り得ない。これもまた、アダルとトワの間のみで通じることなのだろう。こんなにもモノを知らない自分が疎ましくて、憎くて仕方ないのは初めてだった。彼らの話すら理解できない。ひたすらに歯痒くて、そんな自分を責めるように両膝の上で手を強く握り締めることしか成す術がない。
トワは小さく笑った。
「君を始めとするこの国の人には本当に良くしてもらった。だからこそ私の所為で君達が一人残らず殺されたら、一生の心残りになる。吸血鬼狩りは、いざとなれば手段を選ばないからね。私が此処を離れるのが最善策だ」
永久不滅の体を持っているトワが言う『一生の心残り』という言葉は、ひどく重たく感じた。それはアダルも同じだったのだろう。険しい顔をしたまま沈黙をした後、静かに息を吐いた。
「わかりました。リシャール様の御心のままに」
「ありがとう。彼らが此処も調査したいと言ってきたら隅々まで調査させなさい。何の証拠も出なければ、下手に危害を加えられない」
「御意に従います」
「嫌な事に巻き込んでしまってすまない。また近くに寄ったら顔を見せに来るよ」
「いつでもお待ちしております。……して、そこの彼は一緒に連れていくのですか?」
拳ばかりを見つめていたノアがぱっと顔を上げると、アダルの綺麗にそろえられた五本の指先がこちらを向いていた。わずかに胸に湧いた淡い期待はすぐ、首を横に振ったトワによって打ち砕かれた。
「いいや。彼はただの人間だ。連れていくつもりはない」
「……そうですか」
その声に少しだけ落胆が滲んでいたことなんて、ノアは気付くはずもない。今にも立ち上がってしまいそうな体勢でトワを見つめていたから。連れて行ってほしいのに、こういう時ばかりトワは鈍感なふりをしてノアの願いを汲んではくれない。
静かに息を吐いたアダルが立ち上がる。
「リシャール様のお決めになったことに我々は従います。彼のこの国でのことは私にお任せを」
「何から何までありがとう、アダル。本当に君には感謝してもしきれない」
「それは私の方でございますよ、リシャール様。どうか貴方様の旅が幸多きものでありますよう」
深々と頭を下げてアダルはそう言った。そんなアダルに見向きもせずに、ノアはトワを見つめる。しかしいくら見つめても、トワはアダルを見るばかりでノアと目を合わせようとしなかった。
静かに閉まった扉の音。部屋にその音が響き渡ったか否か、ノアは立ち上がってトワの前に陣取った。そうしてやっと目が合う。いつも穏やかな赤銅色の瞳が、ゆらりと揺れた様に見えた。
「おれも一緒に連れて行って」
「さっき言った通りだ。きみを連れていく気はない」
「なんで」
「きみはただの人間で此処を離れる理由はないからだよ」
「トワにとってはそうでも、おれには離れる理由がある」
確かにトワの言う通り、己はただの人間だ。
トワのように不死ではない。トワと同じ存在ではない。だとしてもトワがいる場所に自分もいたい。だから、トワが離れるならそれが十分な理由に成り得るから。自分の気持ちは前にはっきり伝えた。それが理由に成り得ることもトワには分かっているのだろう。少しだけ左右に揺れた瞳がゆっくりと伏せられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます