平穏
ep.1 少年・ノア
〝かつて人々が滅亡に瀕した時、八柱の神の
彼らは不朽不滅の器を持ち、その内の一柱の器に流れる生命の水は、あらゆる傷を癒し、万病を治した。故に人々は、彼等を崇め奉り、世界の秩序とした。世界を調和と平穏で満たして下さるよう、人々は彼等に仕え、その対価として水を受け取り、末長く暮らした。〟
そんな御伽噺をよく聞かされているからだろうか。
時々、不思議な夢を見る。
体にいくつもの傷が付いていて、その傷がみるみる治っていく夢。
中には深いものもあるのに、もの凄い速度で、まるで存在しなかったように傷は消える。傷から視線を上げると必ず、よく知る人が隣にいて柔らかな笑みを零している。その人は、自分が初めて見た時からずっと焦がれてやまない人で、なのになぜか遠く感じる人だ。
名前を呼んで手を伸ばそうとするのに、届かない。
笑みを浮かべたままのその人がどんどん遠くなって、そして――。
低い響きの鐘の音が、空気を揺さぶる。
その鐘の音に、少年――ノアはパッと目を開けた。
天井に向かって伸びている自分の腕を見てから、息を吐いて下ろした。またこの夢か。そんな事を思いながら少し耳を澄ますと、すうすうと聞こえてくる仲間たちの寝息。くわっと大きな口を開けてあくびをする。
布団の中で大きく体を伸ばしてから、掛け布団を蹴り上げてベッドを降りた。
キンと冷え込む季節ではないから、寝間着を脱ぐのもスムーズだ。脱いだそれを畳んで、いつも着ているシワの付いたアイボリーのシャツと、ブラウンのサスペンダーパンツを着込む。ポケットに焦茶色のリボン紐が入っている事を確認して、部屋に一つだけある鏡に自分の姿を映した。
いつも通りの鎖骨まで伸びた赤が混じる金の髪と、同じ色の瞳。
寝癖ナシ。顔は林の中にある川で洗おう。
ぐっと拳を握ってから、まだ眠っている子どもたちを横目に大部屋の扉を開けた。廊下の窓から見えた太陽は、やっと海の向こうから顔を出したところだ。
パタリと扉を閉めてから、ノアはそのまま駆け出した。
「あら、ノア、おはよう。今日も早いわねぇ」
「おはよう、シスター!」
声を掛けてきた修道女にニッと笑い返して、尚も走る。朝から元気ねぇ、という声を背中で聞きながら脇目も振らず走って、あっという間に孤児院の門を抜けた。
まだ陽が昇り始めたばかりだというのに、街の中はすでに活気に満ちていて、色んな匂いを漂わせている。
土の匂い。パンが焼き上がる匂い。薪を燃やす匂い。洗濯の洗剤の匂い。
その中でも一番強く鼻を擽ったのは、百合の匂い。
ノアは思わず足を止めた。
「やあ、ノア。今日も早いね」
聞き覚えのある声に振り返れば、丸太くらいの大きさの縦長の花瓶に活けられた百合の花束、いや、花瓶を両手で抱えた髭面の男――サムが立っていた。真っ白な百合の間から、温和な笑みを浮かべているのが見える。
「おはよう、サムおじさん。それ、今日仕入れたの?」
「昨日仕入れたんだが、今日見事に咲いてくれたんだ。そら、一本やるから好きなの選びな」
「わぁ! 本当にいいの?」
「もちろんさ。ノアにはよく手伝ってもらっとるからな」
欲しいなぁ、とちょうど思っていたノアには、まさに渡りに舟。一本だけだったとしても、今から行こうとしている殺風景なあの部屋をきっと彩ってくれる。差し出された花瓶の中から、まだ完全に花びらを開いていない物を選び取る。
「それでいいのかい?」
「うん、これがいい! ありがとう、サムおじさん!」
「いいってことよ。また今度、店手伝ってくれ」
「もちろん!」
すん、と鼻を鳴らすと上品な香りが全身に駆け巡った気がした。彼を匂いに例えたら、きっとこんな香りがするのだろう。ふふ、と漏れた笑いを隠さずに、またノアは走り出す。
林の向こう、街から離れた高台に住む彼――トワの元に行く為に。
トワと出会ったのは、今から五年前。
ノアがおよそ十歳の時だ。
ノアに親はいない。シスターから聞いた話をストレートに言えば、赤ん坊のノアが国境の城門に捨てられていたらしい。それを見つけた人が、修道院に併設された孤児院まで連れてきてくれて、今の今までその孤児院にお世話になっている。
だから本来なら親から教わることの多くを、シスターたちに教えてもらった。
その中の一つに『居住区域外に繋がる林を越えてはいけない』というルールがあったのだ。今考えてみたら不思議なルールだが、確かに街に住む人たちが林に入るのをノアは見たことがない。特別恐ろしい獣が棲みついているわけでもないのに『林に入らない』というものが、暗黙のルールとして扱われている。
ノアも何の疑問も持たずに、そのルールを守っていた一人だった。
だが、五年前のあの日。それを破って林に入った。
理由はなんてことはない、見たことのない真白な体に真っ赤な瞳をした猫を、無我夢中で追いかけたせいだ。その猫を追いかけている内に、意図せずにノアは林を抜けてしまったのだ。
鬱蒼としていた林を抜けた先に在ったのは、海が一望できる開けた場所。
膝の高さに満たない青々とした緑の上を、風が駆け抜けていた。
「……きれい」
思わず漏れた声。声に応えるようにびゅうっと体を撫でてきた風は潮の香りを纏っていて、感じたことのない心地よさにノアは目を閉じた。
もう一度目を開けてよくその場所を見ると、小さな傾斜が付いて坂道になっている。その少し先に灯台があるのが見えた。
あそこに行ったら、もっとすごい何かがあるのかも。
胸に湧いた好奇心に勝てるはずもなく、ノアは駆け出した。
少しずつ大きくなる灯台。その手前に平屋の家があるのが見えたのと同時。真っ白な何かが動いているのが見えた。
さっきの猫も此処にいるんだ!
そんな根拠のない自信に、動かす足がまたぐんと早くなった。あっという間に詰まった距離のおかげで、動いているのは猫ではなく、人間であると気付く。
なぁんだ。そんな落胆の気持ちに倣うように、足がゆっくりと速度を落としていった。
しかし細部まで鮮明に見えてきたその人は、出会ったことがないくらい綺麗な人だった。
少し癖のある髪は肩まである青みがかった黒で、ふわりふわりと風に揺れている。服装は街の人の多くがしている、襟付きの柔らかそうな生地の白シャツとストレートパンツ。だが街の人たちとは、纏っている雰囲気が全く違った。赤みを帯びた茶色の瞳は、色が付いているのに透き通って見える珠玉のようで、その美しさを余計に際立てていた。確かにそこに存在しているはずなのに、どこか寂しげで、触れたら陽炎みたいに消えてしまいそうな危うさがある。
よくよく見ると、その人の指先には小さな鳥が止まっていて、その人は微笑みを浮かべてその鳥を見ている。
礼拝堂にある女神像だ。
ノアは咄嗟にそう思った。
進むことを止めてしまった足。少し距離があったのに、つま先が土を蹴った僅かな音が聞こえたのか、その人の視線が鳥からゆっくりとノアへ移った。
ノアを捉えた赤みがかった明るい茶色の瞳が、みるみる見開かれていく。
刹那、その瞳から一筋の雫が零れ落ちた。
それが、あまりにも美しくて。
何かに対して美しいなんて思ったのは、この時が初めてで、その感覚にノアは声も出せなかった。きっと一秒にも満たない時間だった。なのに、ノアにはその瞬間が今でも脳裏に強く焼き付いて消えない。あの一瞬で、ノアの恋心は
その張本人がトワであり、ノアが毎日のように通っている家の家主なのだ。
五年経った今でも、恋心は盗られたまま。
毎日毎日よく飽きないね、と溜息を吐かれようが、また来たの、と苦笑されようが、会いたい気持ちを抑えることなんて出来ないまま、今日もノアはトワの家へと走る。
今日もきっと呆れたような顔をするだろう。でも、今日は百合の花があるから、少しは喜んでくれるかもしれない。浮ついた心のまま、ノアはいつも通り林を駆け抜けた。
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