Scene 1-4「記憶に焼きついた声」

 廃墟の空気は、どこまでも冷たかった。

 ここに何年、何十年と積もり続けてきた埃が、夜の湿気で重くなる。

 触れれば、その重みが指先に移るように思えた。

 ユイは壁に手をついて立ち尽くした。

 先ほど見た幻影が、視界の端にまだ残っている気がする。

 小さな肩を震わせていた後ろ姿。

 言葉にならない声を、必死で胸の奥に押し込んでいた少年。


「……まだ……いる」

 声がかすれた。


 さっきまでの記録は解析を終えたはずなのに、痕跡が薄く漂っている。

 いや、漂っているのではない。

 残ろうとしている。

 存在の最後の証明を、どこかに刻もうと抗っている。


「もう一度、行く」

 無意識に言葉が漏れた。

 レオンの気配が、背中に近づく。

「無理はするな」

「……これ以上は、無理じゃない」

 レオンは少しだけ黙り込む。

 短い沈黙のあと、低く呟いた。

「なら、何も言わない。お前が決めろ」


 それだけで、心の底に残っていたためらいが消えた気がした。

 ユイはゆっくり息を吸う。

 冷たい空気が肺の奥をひりつかせた。


 深層層。

 通常は記憶の奥に潜り込む術式でも、精神への負荷が大きすぎる領域。

 けれど、あの声を、このまま途切れたままにすることはできなかった。


「……行くよ」

 自分に言い聞かせるように告げた。

 指先を端末に滑らせる。

 骨に近いところまで染みついた術式の感覚が、意識を深く曇らせていく。


 視界が、音が、呼吸が遠ざかる。

 《Memorix:Soul=EchoLink》

 深層層同期――開始。

 世界が反転する。


 一瞬、何も見えなくなった。


 灰色の闇。

 静寂。


 空間があるのか、ないのかさえ分からない。


 だが、そこに確かにいた。

 小さな光が、ひとつ揺れる。

 ゆっくりと形をとる。

――白髪の少年。


 薄く震える肩。

 膝を抱え、壁に背を押しつけている。

 今度は、幻影ではなかった。

 ここに「いる」。

 それだけは疑えなかった。


 ユイは一歩近づいた。

 足元の床の感触が消え、まるで水の中を歩いているようだった。

 それでも、もう一歩。

 少年の顔が、ゆっくりとこちらを向く。

 目が合った。


 ライトブルーの瞳。

 感情を失ったように静かなのに、その奥で何かがひどく揺れていた。

 助けを求める光。


「……だれか」

 声が届いた。

 耳ではなく、胸の奥に直接響く声。

「僕……ここにいたんだよね……」

 言葉は途切れがちで、どこか擦れたような響きを持っていた。


「ねえ……」

 少年が少しだけ首を傾けた。

 何かを探すように、空を見上げる。

「……忘れられるの……いやだよ」


 その声は、ただの残響じゃなかった。

 意志があった。

 存在を確かめようとする、最期の問いかけ。

 胸が痛む。

 ひどく、痛い。

 ユイは、昔の自分を思い出していた。


 記憶のない暗い部屋。

 番号で呼ばれる声。

 言葉を教えられず、何も伝えられなかった時間。

 声が出ないことが、どれだけ苦しかったか。

 ユイは膝をついた。

 目の高さが、少年と同じになった。

 手を伸ばす。


 触れられないのは分かっている。

 でも、どうしてもこの距離を埋めたかった。

「……大丈夫」

 声が震えた。

「僕が……覚えてるから」


 少年の瞳が揺れる。

 何かを探すように、ユイを見つめていた。

 涙はなかった。

 でも、その目は泣いているように見えた。

  記憶空間の空気はひどく冷たく、それでいて静かだった。


 どこからも風は吹かないのに、身体の芯がゆっくりと冷えていく。

 まるでこの場所に立つだけで、自分も少しずつ“存在を失っていく”ようだった。


 目の前の少年は、ユイの視線に応えるように少しだけ顔を上げる。

 虚ろに見えていた瞳が、何かを探すように動く。


「……僕……ここにいたんだよね」

 再び、声が届いた。

 胸の奥を貫く感覚。

 言葉よりも深い場所に染みこんでくる。

 存在の証明を、必死に探している声だった。


 ――ねえ、教えて。


 ユイは唇を噛む。

 その震えを隠すように、息を整えた。

「……うん」

 声が掠れる。

「ちゃんと、ここにいた。……僕が覚えてる」


 ほんの少しだけ、少年の表情が和らいだ気がした。

 幻影にしては、あまりにも人間らしい変化だった。


 ユイは、もう一度手を伸ばした。

 届かないと分かっていても、その距離を埋めるように。

「……だれか……」


 少年の声が小さく割れた。

 空気の向こうから、何かに怯える気配が伝わる。

 記憶の奥が、一瞬だけ歪んだ。

 光の網が走る。

 部屋の壁が剥がれ、別の空間が透けて映った。

 白い壁。

 光のない廊下。

 並んだガラスの隔離室。


 どこかの研究施設――。


 そこに、同じ制服を着た子どもたちが何人も座らされている。

 声を出すことも許されないように、うつむいていた。

 ユイは喉が詰まった。


 その景色を知っていた。


 言葉にならない既視感。

 胸の奥を氷の刃で切りつけられるような痛み。

――同じだ。


 あの少年と、自分は。

 記憶の景色がまた変わる。

 幻影の少年は、再びうつむいていた。

 肩を震わせ、何かを堪えるように。


「……たすけて」

 声は、もうほとんど聞こえなかった。


「ここに……いたいのに……」

 空気が震えた。


 視界の端から、光が崩れるように散っていく。

 記憶空間の限界が近い。

 深層層は長く保てない。

 ユイは、心のどこかで分かっていた。

 あと数秒で、この声も消えてしまう。

 それでも。


「……大丈夫」

 何度も喉が詰まった。

 けれど、最後に声を出せた。

「僕が覚えてる。……だから、いなくならない」

 少年が、ゆっくりと顔を上げる。

 瞳の奥に、微かに光が宿る。

 それは、たぶん――

 誰にも届かなかった祈りが、ひとつだけ救われる瞬間だった。


 淡い光が、少年を包む。

 その姿が、輪郭ごと柔らかくほどけていく。

 言葉にならない声が、もう一度だけ届いた。


 ――ありがとう。


 視界が白く染まる。

 空気が一気に軽くなった。

 ユイは、記憶空間から意識を引き上げた。

 現実の廃墟の床に膝をついている。

 呼吸が荒く、胸が苦しかった。


「……っ」


 喉の奥で、声にならない音が漏れた。

 冷たい空気が肺に押し込まれる。

 レオンの足音が近づく。


「ユイ」

 短く呼ばれた声に、ゆっくり顔を上げた。

「……平気」

 言葉は掠れていた。

 けれど、気持ちは少しだけ確かだった。


「何が見えた」

「……研究施設みたいな部屋。……子どもが並んでた。たぶん……僕も、同じだった」

 レオンは黙っていた。

 その沈黙が、ありがたかった。

 視界の隅に、まだ光が漂っている。

 幻影の残滓。


 けれど、さっきまでとは違っていた。

 それはもう、怯えだけの光じゃなかった。

「……存在が消されるって、こんなに怖いんだね」

 胸が少しだけ軋む。

「昔、僕も……誰にも覚えられないんじゃないかって、思ってた」

 言葉にするのは初めてだった。


 レオンは短く息を吐く。

 それから、ゆっくり立ち上がる。

「……お前が覚えてるなら、その子はもう消えない」

 その声が、ひどく温かかった。

 ユイは小さく目を伏せた。

「うん」


 それだけを、今は言えた。

 

 

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