Code:Null.Refrain《依頼者の影編》“In the Shadow of the Requester”

霧間レイ

第1章 消えた少年

Scene 1-1「匿名の依頼」

 夜明け前の静けさは、都市の最も底に沈んだ区域にだけ訪れる。


 中央圏から外れた居住指定解除区画――その一角の古いビルの一室。

 壁際に無造作に置かれた工具や旧式のモニタースクリーン、整備中の義肢ユニットが薄暗がりに浮かんでいる。


 天井の蛍光灯はところどころ点滅し、安定した光を与えない。

 だが、その不完全な明るさが、どこか居心地のよさを漂わせていた。



 レオンは部屋の片隅、金属フレームの椅子に深く腰かけていた。

 手の中で分解した拳銃の部品を指先で弄びながら、機械油の匂いを染み込ませた布でひとつひとつ磨いていく。作業の合間に、ときおり視線だけを上げる。


 その先には、簡易ソファに腰掛け、薄く光る端末を操作するユイの姿があった。

 白銀の髪が、微かな呼吸とともに頬に触れる。

 ユイは無言で、虚空に投影されたホログラムに視線を注いでいた。


 光のパネルが何枚も重なり合い、情報の層を織り成している。


 静かな音が一つ、空気を震わせる。



――新規依頼を受信しました。



 端末が低く告げる声に、レオンの手が止まった。


 ユイは返事をせずに、指先を滑らせる。

 通知ログを確認し、受信データの構造を解析し始めた。情報処理速度は一般端末の数倍。


 だが、ユイの動きには焦りや急き立てられる様子がない。

 研ぎ澄まされた慣習のように、ただ必要な操作だけを積み上げていく。



「……新しい依頼。届いたみたい」



 小さな声が、部屋に落ちた沈黙を溶かす。

レオンは視線だけをユイに向け、何も言わずに待った。

 そうすれば、必要なことをユイが選んで口にするのを知っている。

 ただ、彼が「言いたいと思うまでの間」を尊重するだけだ。


 しばらくして、ユイは目を伏せたまま言葉を継いだ。


「……依頼内容は、失踪者の捜索。行方不明の少年だって」

「依頼主は? 」

「不明。送信元も、ルートも、全部偽装されてる。術式アドレスを何重にもリレイしてるみたい。トレースしようとしたら、すぐに破棄された」

「……胡散臭いな」

 レオンは低く息を吐く。

 胡散臭い。


 それは、無視すべき理由にはならない。

 むしろ、何か大きなものに繋がっている証拠でもある。

 ユイの視線が、薄い青の光を帯びたウィンドウを凝視していた。ホログラムの中央に、一枚の画像が浮かんでいる。廃墟の壁に寄りかかる、少年の姿。


 白髪。中性的な顔立ち。年齢は十四、もしくは十五――ユイと同じくらいに見えた。


「これが、対象。名前もない。ただ“彼を探してほしい”ってだけ」

 レオンは椅子から立ち上がり、ゆっくりとユイの隣に並んだ。写真に映る少年の顔に目を落とす。

 ……妙に空白を感じる。


 少年は無表情で、カメラをまっすぐに見ていた。それなのに、視線の奥に、何もないような気がした。


「なんだ、この違和感は」

「わかる? 」

 ユイはそう言って、ホログラムの端に指先を滑らせた。画像が拡大される。


 その背景、割れたコンクリート壁の奥に、線と円が複雑に絡む模様がぼんやりと浮かんでいた。

 幾何学的な――いや、術式のルーンに近い構造。


「この構造、見覚えがある気がする」

「ルーンの一種か? 」

「たぶん、単なる飾りじゃない。廃棄領域で保護術式を残す意味もないし、これは……」

 ユイの声が少しだけかすれた。それに気づいたレオンは、視線を彼の横顔に滑らせる。


「データベース、照合してみる」

 端末のパネルが一斉に変化した。

 無数の検索ログが走る。

 それは、レオンが見ても息を飲むほどの速度だった。


 だが――


「……ない」

「戸籍? 」

「ゼロ。出生記録も、入区履歴も、医療データも。存在証明が、一つもない」

 ユイは小さく息を吐いた。

 どこか苦い感覚が胸に沈む。

「本当に……何もないんだ」

 レオンはゆっくりと顎に手を当てた。

 彼の声も低かった。

「……術式的に抹消されてるな。普通じゃない。軍か、それに準ずる組織が動いた跡だ」

「……」

「やめるなら、今のうちだ」

 その声に、ユイは一度だけレオンを見た。

 そして、視線をホログラムに戻す。

「……見てしまったから」


 言葉は短くて、まるで無感情みたいに響く。

 でも、それはきっと照れ隠しで。

 本当はこの人に「一緒にいてほしい」と言うのが、まだ苦手なだけ。


「僕、この子を探したい」

 レオンはわずかに笑った。

「知ってた」

 ユイは一瞬だけ目を細め、それからすぐに顔を伏せた。端末の検索ウィンドウに、無数の「NOT FOUND」の文字が並んでいる。

 存在の痕跡はおろか、名前すら与えられていない少年。ただ一枚の写真だけが、この世界に「彼がいた」ことを証明していた。

 レオンは隣で肩の力を抜く。いつもの仕事より面倒くさくなる予感があった。

 けれど、それでもユイが進もうと決めたのなら――止める理由は、どこにもない。


「ログの偽装も巧妙だ。術式トレースも相当厄介になるぞ」

「いい。どうせ手間が増えるのは、慣れてる」

「慣れ過ぎだ」

「それは、レオンがいつも危ない依頼ばかり受けるから」

「……言うようになったな」

 どちらからともなく、短く笑う。

 この空気が、妙に心地よかった。

 言葉は少ないけれど、互いに背を預けていられる感覚があった。


 ユイは再びホログラムを操作した。

 写真の背景――割れた壁、ルーンの一部を再拡大する。幾何学模様は光の干渉で曖昧に揺れ、焦点が定まらない。

 ただ一つ確信できたのは、それが人為的に刻まれた「何か」であること。


「記憶操作……いや、記録改竄だけじゃない。この模様、術式干渉の痕跡に近い」

「《メモリクス》系か」

「わからない。でも、普通に残されるものじゃない。仮に術式障壁の残響だとしたら、対象の存在を根本から上書きするための……」

 ユイは言葉を切った。

 胸の奥に、遠い記憶が小さく疼いた気がした。

 何かを消される感覚。

 何かを残さなければならない焦燥。だが、それはまだ形を持たない感情だった。レオンはユイの横顔を一瞥し、視線をモニターに戻した。


「このまま放置する気はないんだろう」

「……うん」

「なら決まりだ」


 それだけ言って、レオンは背後のラックから黒いジャケットを取った。重量感のある革素材が、肩に馴染むように収まる。


 ユイも立ち上がる。

 細身の指先が、一度だけ写真に触れた。ホログラムの中で少年は無表情のまま、こちらを見ている。


「……この子、誰も覚えてないのかな」

 ぽつりと、呟くように言った。

 レオンは答えなかった。

 代わりに、その言葉の意味を一度噛みしめるように短く息を吐く。

「どこへ行く」

「旧居住区。写真の壁と同じ構造物があるはず」

「セクター17か」

「うん。……人もいないし、何か残ってる可能性が高い」

「廃区指定だ。治安維持局の巡回ルート外だぞ」

「知ってる」

「襲われても文句は言うな」

「言わない」

「返事がいいのか悪いのか分からないな」

「……」

 ほんの一瞬、ユイの表情が緩んだ。気づかれないように目を伏せる。それでも、レオンには分かってしまう。


 レオンは拳銃の残りの部品を鞄に放り込み、ホルスターに一つだけ装填済みのマガジンを収める。


 短い準備の間に、ユイも手首の端末に《メモリクス》の初期化シーケンスを展開していた。

 青白い幾何学構造が、掌に浮かぶ。記憶を読むための術式は、ユイにとって呼吸のように自然なものだ。


「準備できた? 」

「ああ」


 レオンは扉に手をかけた。

 古いオートロックの電子音が、短く鳴る。


「……レオン」

「なんだ」

「……ありがとう」


 その声は、いつもよりほんの少しだけ素直だった。すぐに誤魔化すように視線を逸らしたけれど、それで十分だった。


「気にするな。それが俺の仕事だ」


 扉が開く。

 冷たい夜気が、二人を包んだ。

 足音は重ならず、けれど同じリズムで階段を降りていく。どこまでも静かな、孤立した廃街の闇の中へ。


 ――存在しなかったはずの少年を探すために。

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