第13話 用意周到
夜明け前の空は、鉛色の雲に覆われていた。
昨日の現場で浴びた微細な金属粉は、いまだに皮膚の奥にざらつく違和感を残している。科学捜査班の一室には、採取したサンプルがずらりと並び、無機質な蛍光灯がその輝きを冷たく照らしていた。
「粒径はおよそ三〜五ミクロン。酸化被膜の成分は鉄主体だが、純度が異常に高い。」
顕微鏡から目を離さず、鑑識員の矢代が低く呟く。
「市販の研磨剤からは、こんな結晶構造は出ないな。生成過程そのものが異常だ。」
渡辺直樹は腕を組み、顎に手を当てた。
「舞姫が意図的に作ってるとすれば……あれは武器だ。」
机の上、電子顕微鏡のモニターには、金属粉の表面が映し出されていた。鋭利な結晶が林立し、まるで微小な刃物の森だ。吸い込めば肺胞を切り裂き、皮膚に触れれば毛細血管を破る。
「熱変質の痕跡はゼロ……常温で成形されてる可能性がある。」
矢代は吐息を漏らした。
「そんなこと、物理的に可能なのか?」
「常識で考えれば不可能だ。でも現に目の前にある。」
現場で回収した衣類やマスクも解析台に並べられ、表面の金属粉を特殊フィルターで分離していく。
「吸着の力が異常に強いな。静電気だけじゃない。何らかの未知の力場……」
その言葉に、直樹の脳裏に、現場で感じた説明不能な圧迫感が蘇った。
空気が凝縮し、耳鳴りと共に呼吸が重くなる。あれはただの物質的現象ではなかった。
渡辺清美――直樹の遠縁にあたる女性で、古くから渡辺家に伝わる古神道の継承者だという。
「舞姫の名は、こちらにも伝わっています。あれは物理と霊の境界を越える存在……あなたたちの科学では完全に封じられないでしょう。」
清美の声は穏やかだったが、その瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
「金属粉の拡散を防ぐ術があるのか?」
直樹の問いに、清美は頷いた。
「古神道に伝わる呪詛と結界。術の中には、空間の性質そのものを変えてしまうものがあります。半径十五間――およそ二十七メートルの範囲を封じ、その内部での金属粉の流動を止められます。」
矢代が訝しげに眉をひそめた。
「力場を操作するってことか? まるで物理干渉だな。」
「物理と霊は、本来ひとつです。」
清美はそう言って、腰に下げた鈴を静かに鳴らした。澄んだ音が室内を満たし、微かに空気が変わる。
「呪はこう唱えます――」
⸻
ふるべ ゆらゆらと ふるべ
天つ神 地つ神 八百万の神々よ
穢れを鎮め 禍を退け
鉄の霧を封じ給え
結びの場に 風立たず
砂流れず 血巡らず
ただ 鎮まれ 鎮まれ 鎮まれ
⸻
その詠唱は、古語と現代語が入り混じり、不思議な律動を帯びていた。声に合わせ、清美の足元に描かれた白い砂の円がわずかに光を帯びる。
「これは結界の骨組みです。発動すると、この円内に舞姫の金属粉は入り込めません。」
矢代が思わず手を伸ばそうとしたが、清美は首を振った。
「触れてはいけません。結界は生きています。」
数分後、実験が始まった。
科学班が密閉ケースから舞姫の金属粉を取り出し、送風機で円内に流し込もうとする。だが、粉は円の縁に到達すると、目に見えぬ壁に弾かれるように散った。
「……本当に止まってる。」
矢代が低く呟いた。
直樹は、科学解析の限界を越える現象を目の当たりにして、背筋が粟立つのを感じた。
「これなら現場で……」
「ええ。ただし、結界の維持には私の集中と体力が必要です。長くても一時間。」
清美は淡々と告げた。
「舞姫と直接対峙することになれば、必ずこちらにも影響が出ます。あなたたちの武器と、この結界――両方を使わなければ、封じられないでしょう。」
研究室の片隅で、電子顕微鏡のモニターが不意にノイズを走らせた。
直樹は思わず振り向く。
ノイズはやがて、微かに女性の輪郭を形作り、笑みを浮かべる影となった。
――見つけた。
耳元で囁くような声がした。
その瞬間、結界の砂が一粒、二粒と外側へ零れ落ちた。
清美の眉間に皺が寄る。
「……もう、こちらを見ています。」
科学と呪法――二つの道が、ひとつの敵に向かって交差しようとしていた。
⸻
廃ホテルの薄暗い廊下で、舞姫はひっそりと立っていた。影の中で微かに呼吸をするように胸が上下し、かつての人形の硬質な鎖骨や肘の角ばった関節は、今では滑らかに曲がる。指先は陶器の冷たさを失い、血管の微かな浮き出た赤味が混じり、触れれば皮膚の温もりさえ感じられるほどだ。
目はまだ深い闇を宿していたが、瞳孔の奥には明らかに生気が宿っている。光を受ける角度によっては、黒曜石のような冷たさと、人間の瞳の光沢が同時に見え、見る者を不安に陥れる。
唇の色もわずかに赤味を帯び、形が整い、かすかな吐息がわずかに湿気を帯びて廊下に漂った。声はまだ囁きに近いが、かすかに感情の震えを帯び、かつての無表情な人形とは異なる微かな人間らしさを漂わせていた。
舞姫の周囲の金属粉は、犠牲者の心臓を糧にしたことで一層活性化している。床の粉が微かに揺れ、空気中に浮かぶ微粒子はわずかに光を反射し、舞姫の体に沿って蠢く。粉の動きと連動して、舞姫の指先や関節がわずかに震え、まるで粉が体内に流れ込んで生命を吹き込んでいるかのようだった。
彼女は一歩、廊下を進む。人形的なぎこちなさは完全に消え、歩幅や体重移動は人間に近く、床の軋みや瓦礫の感触に応じて微細にバランスを調整している。肩や腰の動きも滑らかで、ただの人形だった頃の硬直感は微塵も残っていない。
しかし、完全な人間ではない。その姿のどこかに、異質な冷たさと、微かに金属臭が混ざった体臭が漂う。皮膚の温度は人間に近いが、筋肉の動きには一瞬の遅れや微妙な過敏さがあり、見る者に「生きているが、人間ではない」という不気味さを印象付ける。
舞姫の耳元にかすかな囁きが流れる。過去の犠牲者たちの記憶が混ざり合い、彼女の目に一瞬、感情の光が揺れた。喜び、怒り、悲しみ――断片的にではあるが、人間の感情が顔の表情に表れる。
廃ホテルの薄暗い壁に映る影は、まだ不完全な人間の輪郭と、残る人形の硬質さが混在して歪み、見る者の心理に深い不安を刻む。
舞姫の動きは、人形的な精密さから、人間の柔軟性と感情的な予測不能さを兼ね備えたものに変化しつつあった。廊下の曲がり角で体をひねると、影がゆらりと伸び、光と闇の境界で、まるで生きた生物がそこに潜んでいるかのような錯覚を生む。
微かに残る陶器の冷たさは、彼女が完全な人間ではないことを示す唯一の手掛かりだ。しかし、目や唇、関節、体温の変化は、確実に舞姫を「人」に近づけている。犠牲者の心臓を糧とした結果、体内に何かが流れ込み、生命の律動が芽生え始めたのだ。
金属粉が空中で渦を巻き、舞姫の周囲を取り巻く。その粉の密度は高く、触れれば毒性と異質な感覚をもたらす。彼女は粉を媒介にして自らの存在を強化し、廃ホテルという不気味な空間そのものを自分の支配下に置いたかのように振る舞う。
廊下の奥、舞姫は壁際に寄せた犠牲者の体を無造作に離し、微かに振り返る。赤味を帯びた瞳が、薄暗い空間に忍び寄る気配を察知する。人形だった頃の無表情は消え、かすかに警戒と興味を交えた表情が浮かんでいた。
廃ホテル全体が静まり返る中、舞姫の変化は、まるで時間を巻き戻すかのように人形から生身の人間への過程を逆行している。しかし、その人間性は不完全で、依然として異形の存在であることを強烈に示していた。
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