暴君総理と宇宙開発
犬山テツヤ
第1話【プロローグ】
あの総理を見たとき日本は終わったのだと思った。
「私は未来からやってきた。その知恵で未来を変える」
アメリカのジョーカー大統領出現以来の大惨事である。これが吹けば消し飛ぶような新党ならば、どれほどよかっただろうか。この岡田という男は自由党の総裁選で圧倒的勝利を収めた言わば「次期首相候補」なのである。
そんな彼から飛び出したのが俗にいう「未来人」発言であった。
これには大与党の自由党ですら火消しに走った。走ったが、彼から出版された「日本成長戦略」は未来人の名前を効かせるのに十分な代物であった。
・日本はこのままでは衰退する。
・少子化は改善しない。
・世界的インフレによって日本は大円安時代に突入する
・いまの半導体事業と航空事業は失敗する。
・世界で侵略戦争が起こる。対象には日本も入っている。
2015年に大予言のような流言を見ることになるなど思ってもみなかった。俺は国民の良識を信じて自由党にだけは入れませんようにと投票したのに――。
「自由党。ゼロ打ちで過半数到達です」
その予想はあっけなく裏切られた、俺はJAXAに勤務する三十代後半の冴えない男、愛する妻と一緒に日本の未来について深刻な懸念をするのだった――。
* * *
就任会見の音は、鍋の沸騰よりも静かに部屋へ入ってきた。
味噌の匂いが弱火で変わっていく。妻は箸をそろえて置き、リモコンで音量を一つ上げた。画面の中の男は紙を見ない。胸の前で両手を組み、ゆっくりと解きながら言葉を置いていく。
「時間を味方にする政策を、四つ」
壁の時計が針を刻むたびに、単語が部屋に沈む。科学技術。福祉の再編。列島改造。教育と労働。言葉は硬い鉛のように見えるのに、湯気は柔らかく立ちのぼっていく。その重さと軽さの差が、なぜか現実らしかった。
「国威発揚、だって」妻が言う。声は責めてはいない。ただ現場の疲れが混じっている。
「言葉は派手だけど、順序は地味だろうな」
そう答えながら、俺は湯気の輪がひとつほどけるのを目で追う。輪は楕円に歪み、消える瞬間にまた別の輪が生まれる。軌道計算で描く楕円が、頭の奥で重なる。
カメラが引いて、官邸の記者会見室が映る。正面の列に、見慣れた社名のプレート。フラッシュは鳴らない。代わりに、空調の低い音がマイクに拾われている。
「第一に、科学技術の発展と宇宙開発です。——火星の探索を目標として掲げます」
妻がこちらを見る。箸の先から味噌汁が落ちる音が、やけに大きく聞こえた。
俺は応えない。テレビの中で、男は“目標”という言葉に重ねて“梯子”を示す。段は三つ、と指を折る。月面で暮らす技術。火星を人の手で監督する経験。そして、日本人を火星圏へ。名前が付いた。計画の名は《八咫烏》。太陽の導き手の神話。
「第二に、少子高齢化の解決と日本福祉の再編成。
第三に、第二次列島改造計画。
第四に、教育と労働の改革です」
言葉は列を成して進む。政治の文体だ。だが、いくつかの語は生活のほうを向いていた。保育の定員、介護の待機、物流の詰まり、長時間労働の慣習。スタジオのテロップが下で流れる。「時間を前借りする教育ローン固定化案」「補給回廊の再設計」「地方拠点の一極分散」。専門用語の角がテレビの色で丸くなる。
男は小さく息を吸い、言った。
「未来を知っているかどうかは問題ではない。重要なのは、いま手を打てることだ」
その言い回しは挑発的だったが、続く言葉は淡々としていた。円安に対する手当、食料とエネルギーの調達網、半導体は“部品の島国”から“設計と装置の群島”へ。火星は花火ではない、と彼は言う。花火に設計図はいらない。だが梯子には設計図が要る。
質疑が始まった。
「地上の課題が先では?」
「予算の裏付けは?」
「国威発揚とおっしゃるが――」
男は、いくつかに直接答えず、順序の図を示すことで返す。「先に壊れるところから直します。水、熱、通信、教育。順番を間違えれば、努力は費用に変わる」
妻が台所から小皿を置いた。「上手いね」
「うん。上手い。——上手いって、怖い」
俺がそう言うと、妻は笑った。「あなたほど皮肉じゃないと思うけど」
会見は四十五分で終わった。起立、礼。拍手はない。画面がスタジオに切り替わり、キャスターの笑顔が戻る。解説の肩書が画面の下に並ぶ。「安全保障」「マクロ経済」「宇宙政策」。明るい色調が、さっきの言葉の鉛を少しだけ軽くする。だが、部屋の空気は逆に重たくなった。窓の外に雨の気配。
テレビを消すと、換気扇の低い唸りだけが残った。俺は椅子に腰を戻し、冷め始めた味噌汁をすする。塩気が舌の奥に残る。潮の味だ。去年、種子島で感じた海風の塩の白い跡が、玄関の傘にまだ付いている。
「どう思う?」妻が訊く。
「順序は合ってる。問題は、優秀さが間に合うかだ」
皿を重ねる音。湯気はもう薄い。
その夜は、メールを開かないで寝た。何かが来ると知っているとき、人は逆に目を閉じる。暗闇に目が慣れるまでの数秒が好きだ。物の輪郭がいったん消え、少しずれて戻ってくる。ズレの中に、新しい一日の入口が見えるからだ。
翌朝の空は、雲の層が重なっていた。出勤の電車で、ニュースアプリの見出しだけを流し読みする。
《八咫烏計画、国威発揚か現実路線か》《四政策、時間の再設計》《火星へ日本語を》。
画面を閉じると、窓に自分の顔が映った。寝不足の線。駅に着くまでの揺れの回数を数える。八回。改札の音。金属の乾いた反響。筑波行きのバスに乗り継ぐと、車内の空調は会見室の音に似ていた。
庁舎に入ると、廊下のポスターがもう貼り替えられている。《宇宙開発省 設置準備室》——太いフォント。矢印。会議室A。
俺は自席に鞄を置き、ディスプレイを点け、メールの未読を確認した。その瞬間だけは、まだ何も来ていないことを、少し可笑しく思った。時間は味方にも敵にもならない。まだ、ただの時間だ。
午前十時、内線が鳴った。
「午後、臨時。A会議室。出席可否を」
短い言葉が短く切れる。
俺は受話器を置き、ノートの最初のページを開いた。線を三本引く。三つの葉。どれか一つが死んでも崩れない、歪んだ三葉。
就任会見は終わった。次は、反応の番だ。世界の、国内の、そして家の。俺の番は、たぶんそのずっと後に来る。遅く来ることが、悪いとは限らない。
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