依存する女
横山 峰次
第1話 還暦男を弄ぶ
夜の街は、雨上がりのアスファルトがネオンを反射し、湿った光で濡れていた。
タクシーが水たまりを弾き、遠くから酔客の笑い声が響く。
みーこは雑居ビルの一室で脚を組み、スマホの画面をスクロールしていた。
出会い系サイトの通知音が、静かな部屋に乾いた電子音を刻む。
「今夜、会える?」
「いくら?」
「写真送って」。
どれも同じだ。彼女は缶コーヒーを片手に、鼻で笑いながら適当に返信を打ち込む。
この苦味も、もう味を感じなくなっていた。
25歳の彼女にとって、これは日常だった。いや、日常を超えた依存だった。
みーこ、本名は美咲。
その名前を口にする人間は、もう誰もいない。
一年前までは、OLとして働いていた。
地味だが安定した生活、同僚と居酒屋で交わすビール、休日のショッピングモール。
それが彼女のすべてだった。
だが、上司との不倫が露見した瞬間に崩れ落ちた。
妻から浴びせられた罵声と慰謝料請求、同僚たちの冷たい目線。
友人も次々と去り、仕事も未来も失った。
残ったのは、男への憎悪と、快楽への渇望だけ。
今夜の相手は、還暦を迎えたばかりの男――佐藤。
プロフィールには「会社経営、60歳、落ち着いた時間を過ごしたい」とあった。
「落ち着いた時間?」
みーこは唇を歪める。そんなもの、この街には存在しない。
ホテルの一室。
エアコンの低い唸りと、ミニバーの冷蔵庫のモーター音。
佐藤はスーツを脱ぎ、ソファに腰を下ろした。白髪交じりの髪、くたびれた目元、しかし仕草には残り火のような品があった。
みーこはワンピースの裾を指で持ち上げ、わざとらしく太ももを露わにする。
薄暗い照明の下、その肌は氷のように白く輝いた。
「若いね、みーこちゃんは」
佐藤の声は穏やかだが、視線は胸元に釘付けだ。
(ほら、やっぱり同じ。)
みーこは内心で嘲笑した。年齢も肩書きも関係ない。女を前にすれば、男はただの獣になる。
「佐藤さん、会社経営ってすごいね。何の会社?」
みーこは、氷がカランと鳴るグラスを傾けながら甘い声をかける。
「まあ、建築関係だよ。小さな会社だけど」
彼は照れ笑いを浮かべた。「若い子と話すなんて久しぶりでさ。緊張するよ」
(緊張? 嘘をつけ。その目は、私の体を舐め回してるじゃないか。)
だが笑顔は崩さない。
「緊張なんて、佐藤さんカッコいいんだから。もっと自信持って」
彼女は立ち上がり、肩紐をずらして素肌をさらす。佐藤の目が一瞬だけ輝いた。
その反応を、みーこは逃さない。
やがて彼女は彼の隣に腰を下ろし、膝に手を置いた。
佐藤の手が震えながら彼女に触れる。ひんやりとした温度が伝わり、みーこの胸奥に不意のざわめきが走った。
過去の記憶がよぎる。
上司の熱、妻の罵声、友人の裏切り……。
「優しくしないで」
思わず吐き出したその言葉に、佐藤は手を止める。
「優しくされると、私、ダメになっちゃうの。もっと……激しくして」
男は戸惑いを飲み込み、炎のように彼女を抱き寄せた。
部屋には衣擦れと荒い息遣い、そして安物のベッドがきしむ音だけが残った。
時間が過ぎ、佐藤はベッドに沈み込み、汗に濡れた額を拭う。
「みーこちゃん、君は本当に……すごいよ」
みーこは服を整え、冷えたミネラルウォーターを一口飲む。
喉を通る冷たさは、心の虚無を埋めはしなかった。
彼女にとって、これはただの取引。
体を売り、金を得る。それ以上でも以下でもない。
だが、佐藤はふと呟いた。
「みーこちゃん……目が、何か抱えてるね」
一瞬、彼女は息を詰まらせた。
だがすぐに笑い声でごまかす。
「佐藤さん、詩人みたい。女の目なんて見ないでよ、恥ずかしいじゃん」
現金を受け取り、彼を残して部屋を出る。
ホテルの廊下は清掃用ワゴンの漂白剤の匂いが漂い、階下からはラーメン店のスープの香りが上がってきた。
エレベーターのドアが閉まると同時に、彼女は深く息を吐いた。
夜の街に戻る。焼き鳥の煙、タクシーのクラクション、通りの呼び込みの声。
そのざわめきの中で、みーこは再びスマホを開いた。
次の男からの通知がすでに届いている。
彼女は口紅を直し、笑みを浮かべながら返信を打ち始める。
幸せがどこにあるのか、彼女自身わかっていない。
だが、ゲームはまだ続く。
男を弄び、空白を埋めるために。
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