第26話: モーツァルトの夢を、90年代に聴いた──マドモアゼル・モーツァルトと小室哲也
クラシックは死なない──旋律が生き延びる5つの物語
【第5章】モーツァルトの夢を、90年代に聴いた──マドモアゼル・モーツァルトと小室哲也
中学時代、小室哲也のソロアルバム『マドモアゼル・モーツァルト』を手に取った。
TMネットワーク時代の『CAROL』のようなストーリー性のある音楽に惹かれていた頃だった。
それは、クラシックとポップスの“対話”だった。
当時の彼は、時代そのものだった。
TM NETWORKを経て、安室奈美恵、globe、華原朋美──90年代の音楽シーンは、小室サウンドで彩られていた。
けれど、この作品は、そんな彼の「もうひとつの顔」を見せてくれた。
いつもの、軽快なテクノポップとは異なり、どこか敬虔で、情緒があった。
モーツァルトの旋律をなぞりながらも、まったく別の文法で語りかけてくる。
原曲そのままではなく、小室流の解釈が確かにあったが、モーツァルトの影が見える曲作りになっている。
———————
高校時代、国際基督教大学(ICU)の過去問でこんな一節を読んだ──
「小室哲也は、現代のモーツァルトになり得るか?」
問いの意図は、商業音楽と芸術性、そして音楽の社会的役割についてだったが、強烈に印象に残った。
──あれから幾度も、このアルバムを聴き直した。
時が経ち、小室哲也という名前は、いくつもの栄光と陰影をまといながらも、再び語られるようになっている。
懐古でも再燃でもない。
たぶん、それは「時代と対話した音楽」への、静かな再評価なのだと思う。
「現代のモーツァルト」とは、何だろう。
普遍性に到達することだろうか。
誰かの"時代"になることだろうか。
補足になるが、小室哲也の音楽は、90年代という短い時代を確かに照らした。
だがその光は、時代が移ろえば儚くも色褪せていく──それがポップスの宿命だ。
一方で、モーツァルトの旋律は250年を超えてなお、演奏されるたびに新しい命を宿す。
音そのものが、時代や言語を超えて生き続けている。
『マドモアゼル・モーツァルト』は、この「時代の輝き」と「普遍の響き」とが交差した記録だった。
小室が90年代を彩ったからこそ、モーツァルトの普遍性はさらに際立つ。
──クラシックは死なない。
それは誰かが模倣するからではなく、誰かが時代ごとに語り直すからだ。
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