星船淫獄 ― 幻影に囚われた航行者 ―

@MahoutsukaiSairyu

第1話 第一章 航行の平穏と

21世紀末、地球は豊かさを保っていたが、その基盤を成すエネルギーは限界に達しつつあった。

 化石燃料は枯渇、再生可能エネルギーは需要に追いつかず、核融合は安定に至らず。

 人類はAIと共に生き延びる道を選び、都市の運営も交通も、すべて中央制御AI(MOTHER)に委ねていた。


 だが、AIですら嘆く唯一の課題があった――「電力が足りない」。


 その突破口として構想されたのが、宇宙探査船アガルタ計画である。

 地球外に未知のエネルギーを求め、百名の乗員を選抜し、AIとアンドロイドの管理下で旅立つ壮大な計画。

 募集要項には「人類の未来を担う冒険」「次世代への遺産」と謳われていた。

 俺はその公募を見た瞬間、心が揺れた。

 ――失恋を忘れたい。

 彼女に去られた傷を癒す術はなかった。都市の喧騒も、AIの優しい調整も、何も慰めにならなかった。

 ならば、すべてを捨てて遠くへ。

 そう決意して、俺は《アガルタ》に志願したのだ。

 家族も友も止めなかった。むしろ「いい選択だ」と言った。

 今思えば、俺の絶望を察していたのかもしれない。



 探査船アガルタは全長二百メートルの円筒型船体を持ち、内部は人工重力によって地球と同じ「上下感覚」を維持していた。

 構造は大きく三つの区画に分かれている。居住区、娯楽区、研究・制御区。

 居住区には百名の個室が並ぶ。六畳ほどのスペースにベッド、収納棚、簡易洗面台。窓はないが、壁面に映し出される「ホログラム窓」から地球や星空を選べる。誰もが夜は地球の空を選んだ。青い月や街の灯りが懐かしさを与え、孤独を和らげてくれるのだ。

 研究区には実験室や植物栽培モジュールがある。水耕栽培で果実や野菜を育て、人工光の下で緑を保つ。子供たちはここで課外学習を受け、植物を撫でたり観察したりして過ごす。彼らにとっては地球を知らない分、この緑こそが「自然」だった。

 娯楽区は船内で最も広い。体育館のような多目的ホールには仮想アリーナが設置され、バスケットボールやテニス、武道まで再現可能。老人たちは茶室風ホログラムを利用し、畳に座って会話を楽しむ。小さな子供たちは公園を模した遊具や滑り台で遊ぶ。その傍らには必ずシスターが立ち、怪我がないように見守る。

 食堂も娯楽区の一部にある。ここでは一日三回、シスターが無言の笑顔で食事を配膳する。料理は栄養価が最優先だが、見た目も地球の食卓を再現しており、和食・洋食・中華などが日替わりで並ぶ。食堂には常に談笑があふれ、孤独感を薄めていた。

 百名のクルーは老若男女さまざま。

 60代の元教師は、子供たちに歴史や文学を教えている。

 若い整備士は、外壁修理の際に「地球に帰ったら恋人に指輪を渡す」と夢を語る。

 医療班の中年女性は、子供を地球に残してきており、夜な夜な窓映像に向かって祈る姿を見せる。

 それぞれの人生が絡まり合い、船はひとつの「小さな地球社会」として機能していた。

 それらを統括するのが《MOTHER》。

 人工知能の彼女は地球全体の管理だけでなく、この船の全体の運行、設備、乗員の健康を管理し、必要なときは女性型アンドロイド――シスターを通じて人間と関わる。

 シスターたちは十数体存在し、白いミニスカート制服を揃って着用。勤務帯は機械補助や清掃、娯楽帯は飲み物のサーブや子供の遊び相手を務める。

 均整の取れた肢体と滑らかな肌、完璧に整えられた笑顔。汗をかかず、声は一定の柔らかさを保ち、表情は決して崩れない。

 「美しすぎる」と憧れる男たちと、「人間の居場所を奪う」と怯える女たち。彼女たちの存在はいつも議論を呼んでいた。

 俺もまた、その存在に複雑な感情を抱いていた。

 失恋で胸に残った傷が、シスターの冷たさと重なる。

 人間のようでありながら、人間ではない――彼女たちはまるで、俺の心を映す鏡のようだった。

地球を離れて1年半。

 探査船アガルタは、老若男女あわせて約百名の人間を乗せ、未踏の宙域を漂いながら新たなエネルギー源を探していた。

 生活は三交代制。八時間ごとに「勤務」「娯楽」「睡眠」が割り振られる。

 勤務帯は研究・整備・栽培に分かれ、娯楽帯には公園や茶室、仮想アリーナが開放される。睡眠帯ではホログラムの夜空に沈む。

 俺の日課もその繰り返しだった。

 勤務を終えて機器に異常がないことを確認し、ログを送信する。

 その瞬間、《MOTHER》から地球経由の更新プログラムが届いた。航行中の日常の一部にすぎず、誰も深く気に留めない。俺もまた、形式的に確認印を押す。


 「さて……」


 壁の時計を見る。勤務は終了し、次は娯楽帯の時間だ。

 俺は制服の上着を脱ぎ、ため息をひとつついて娯楽室へと向かう。

 そこは閉ざされた宇宙の中で、人間らしさを保つための唯一の場所。

 仮想の庭園、温泉、スポーツジム――そして、忘れたい記憶を一時だけ沈めてくれる甘美な幻。

 まだ、この時は知らなかった。

 今日届いた“更新プログラム”が、人間の存在そのものを「発電に適応させるための書き換え」だったことを――。

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